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「感傷マゾ」と「セカイ系」について(「セカイ系」研究ノート その2)

前回までのおさらい

・本研究においては、「セカイ系」という言葉がそもそも「セカイ」とカタカナで表記されることに着目する。
・「セカイ」というカタカナの表記が示すリアリティ、それは「(発言主体が)世界、という言葉で表現しようとしているものは“世界そのもの”などではない」という、《反省》の意識に支えられたものである。

「感傷マゾ」と「セカイ系」について

感傷マゾ、という言葉がある。

Twitterネーム「かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン(@wak)」こと「わく」氏を中心とするグループによって練り上げられた概念で、その名も『感傷マゾ』と題する同人誌が現在までに3冊制作されている。第2号でインタビューが行われた三秋縋をはじめ、海猫沢めろんや坂上秋成などプロの作家にも注目されており、ひとつの文芸運動の兆しすら見せ始めているあたり、かつての「セカイ系」を彷彿とさせるところがあるかもしれない。

「感傷マゾとは何ぞや?」ということについては、『感傷マゾ vol.1』に「わく」氏をはじめとするメンバーの座談会が収録されている。全文が「わく」氏のnoteに転載されているので、まずはこちらを読んでいただくのがいいだろう。

「青春もののアニメや漫画を過剰摂取した結果、〔…〕ノスタルジックな青春のイメージが頭の中に固まってしまう」「そんなアニメみたいな青春は自分にはない。〔…〕現実の自分の青春はすごく惨めで、自己嫌悪してしまう」とあるように、ここには確かに《反省》の意識が見て取れる。しかし、それがなぜ「自己嫌悪」のようにネガティブなものになってしまうのか。ともにアニメ・カルチャーを主な参照点とし、思春期の少年少女を主人公に据えた作品を重要作品として扱いながら、この点に関しては「感傷マゾ」と「セカイ系」の間には隔たりがあるように思える。

2020年5月30日、私は以下のようなツイートを行った。

「わく」氏の言葉を借りれば、「感傷マゾ」とは「存在しなかった青春への祈り」である。この《祈り》という行為が、「感傷マゾ」という概念の中核にはある。それは「青春」や「夏の田舎道」といった、具体的な時間的・空間的幅をもった対象に向けられるものだ。対して「セカイ系」に附随するイメージはもっと抽象的で、茫漠としている(その設定面におけるディテールの「貧しさ」は、『ほしのこえ』や『最終兵器彼女』を引き合いに幾度も指摘されてきた)。ディテールを書き込まなければ「世界」とは言えない、という意見に対する抵抗が、表現運動としての「セカイ系」なのだと言うこともできるだろう。

上記のツイートには、「感傷マゾ」の創始者たる「わく」氏から、リプライをいただくことができた(なお私と「わく」氏は直接の面識もある)。

無時間的な内面と、時間的な外面のギャップということを「わく」氏は言っている。(存在しなかった青春への)《祈り》という行為は、そのギャップを埋めるためにこそなされる行為だと言えるだろう。これだけ取り出すなら非常に美しいものなのだが、そこに「マゾ」の要素が加わることで一気に様相が変わる。「矛盾の思考のループにずぶずぶと浸かってしまう感じ」……その「矛盾」に主体を苛んでしまうものこそ、他ならぬ「社会」なのだ。私は上記の「わく」氏のリプライにさらに以下のようなリプライを返し、内容に同意もいただいた。

私が問題にした「感傷マゾ」におけるネガティブな感情……「自己嫌悪」の対象となっていたのは、「現実の自分(の青春)」というものであった。日常生活において、「社会」の意味するところと「現実」の意味するところはほとんどイコールである。「感傷マゾ」における《反省》は、この「現実=社会」の水準において発動している。対して、「セカイ系」における《反省》はそうではない……このように両者の関係を整理することもできるのではないか。

ここまで来れば次なる問いは、「セカイ系」における《反省》がどのような水準において発動しているのか、ということである。現状では、それは「私=世界」という水準であると考えている。そうすれば、たとえば『天気の子』の帆高が「天気なんて、狂ったまま(の世界)でいいんだ!」と叫んだ瞬間を、「陽菜(ヒロイン)か、世界か」という二者択一の決断がなされた瞬間などではなく、「世界」というものを発言主体(帆高)がどのように解釈するか、の決断がなされた瞬間として読むことができるだろう。その先には、「主人公の少年に対するヒロインの少女」という非対称的な図式から、《セカイ》そのものを抽出するという道筋もつけられるはずだ。

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