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【私見】『鹿の王 ユナと約束の旅』は内容とは裏腹なる排除の映画~映画本編②~

前回の続き、『鹿の王 ユナと約束の旅』~映画本編②~を書かせて頂きます。
(思い出しながら書いているので、箇条書きやシーンが前後する事があります。読みにくい事はご了承下さい。)

語らぬ信念・裏で蠢く不穏な影

オキの村でユナ達と過ごす一時の幸せを見出していたヴァンでしたが、その一方で、ヴァンは自身の腕に宿った何かに少しずつ翻弄されていきます。
原作の〈裏返り〉と言われる生命達との繋がりは、数多の木々や動物、ましてやヴァン達を襲った山犬達やユナとの繋がりを神秘的且つ禍々しいものとして映像で見せていきます。
そして、その禍々しさの発信主・ケノイはヴァンを求める言葉を残すのでした。
原作でも非常にファンタジックに書かれるこの〈裏返り〉ですが、私の解釈は人の中にいる細胞や微生物、それらが一つ一つが生命であるのを礎として、食物連鎖等の様々な過程を経て、あらゆる生命は繋がっているという「生命発祥の根源に魂が回帰していく」様な現象…と考えています。
それによって、村での幸せな生活の中でも何処か安堵する事のないヴァン。
更には、後追いをもってヴァンの行き先を捕捉するサエと身近まで迫りつつある黒狼熱の影がありました。

その頃、ホッサルはサエがヴァンの居場所を突き止めた事、トゥーリムが既にヴァンの元に向かった事をマコウカンから報告を受け、マコウカンと共に急いでオキの村に向かいます。
ここでのマコウカンとのややコミカルなやり取りは2人の初登場時から繰り広げられていますが、これはヴァンとユナとのコンビの対比になっている様に感じました。
ユナが食べ物をヴァンに与える描写が作中2回ありますが、このコンビは最初の反応と2回目の反応での「変化(進展)」を描いていますが、ホッサルとマコウカンのコンビは良くも悪くも「変わらなさ」を強調していて、二人の関係性は「完成されているもの(良く言えば絶対の信頼)」となって感じられたのでした。
この2組の関係性の対比を示す為に、原作でのホッサルの助手の「ミラル」の存在が映画から外されてしまったものと思われます。
では、なぜマコウカンがミラルの代わりになったのか?
これはもう、半ば強引に言えば「恋愛思想の排除」でしょうか。
前回書いた「母性の排除」と少し似ていて、ユナとヴァンの親子愛を引き立てる為に、ホッサルとミラルの関係では色恋沙汰を匂わせてしまって、そうなると、ヴァンとサエという関係が出来て視点がズレてしまい、一番見せたいヴァンとユナの関係が曇ってしまうのではないか?
それならば、マコウカンとのバディに徹底し、尚且つ動かしやすいマコウカンの方が、改変させたストーリーに配置しやすい…と考えたのではないかと。
兎にも角にも、この作品では恋愛思想が悉くありません。
原作でも特に目立つ訳では無く、描きたいものの中にそれが含まれていないのでしょう。
例え、そうであっても、動くミラルの姿を見てみたかったとは思います。

ついにオキの村まで来たトゥーリム率いるアカファの軍に発見されたヴァンは自らその身差し出してユナ達を守ろうとします。
ここでも岩塩鉱から続く「主人公の素質」がそのまま何の躊躇もなく発揮されますが、時同じくしてトゥーリムらの背後からあの黒い流水の如き(安藤監督曰く”うねり”と表現。)山犬の群れが彼らを襲い始めるのでした。
トゥーリムも山犬の襲撃は計算外の事であったのか、ヴァン達と共に翻弄される中で山裾に佇む人影・オーファンを確認します。

余談ですが、ここのオーファンのシーンとオキの村の近くでヴァンらの焚火の跡見つけたサエのシーンは安藤監督が参考とした映画『ダンス・ウィズ・ウルブズ』のとあるシーンに酷似しています。それ以外もこの映画から参考にしたであろうと思われるシーンは多いです。
また、マコウカンのデザインも当初は映画『マッドマックス2』のウェズ・ジョーンズからの影響かと思っていましたが、恐らく『ダンス・ウィズ・ウルブズ』に登場する赤モヒカンのインディアンのビジュアルが強く影響しているものだと思われます。

黒い”うねり”の混乱でヴァンはまた意識を持っていかれそうになり、そして"うねり"の中で不思議な変化を起こしたユナがあの隻眼の山犬に捉えられ、連れて行かれてしまいます。
トゥーリムらのアカファ軍やトマらに対して山犬達は襲い掛かる事はありませんでしたが、一匹の山犬はその去り際に季耶を発見し、襲い掛かろうとします。
そのとき、ユナから発された赤い糸が季耶を襲おうとした山犬に繋がった瞬時に襲うのを止め、そのままオキを後にしていきます。
この描写で山犬達が東乎瑠人だけを襲うように命令を受けている事が分かるのですが…ここで2つの疑問が生まれます。

1つめは、ユナから発された赤い糸、これは何なのか?
2つめは、オキの村の襲撃と同じ命令を受けていたと仮定して、岩塩鉱を襲った山犬は刺青の無いアカファの血を持つユナを何故襲ったのか?しかも、咥えて運んで行こうとした。

2つめの補足として刺青の無い(アカファ人である)ヴァンも噛まれましたが、これはユナを取り戻そうと山犬と戦った結果故になのかもしれません。
ユナを咥えた隻眼の山犬はヴァンを見はしましたが、牢内にいたせいなのか、そのまま去ろうとしていた様に見えました。

これについて、仮説として、山犬達は東乎瑠人を襲う建て前の裏で、実はもう一つの命令として「とある素質」を持つアカファ人を探していた…との見方が出来るのではないでしょうか?
そして、それに該当するのがヴァンでは無く、当初はユナであった可能性が高かったと思うのです。
思い返すと、ユナはアバンで岩塩鉱を脱出して森に入ってより、森の美しい生命の描写や光るアッシミを感じ取っている節があり、飛鹿の存在を早くも察知してヴァンに「あっち!」と知らせています。
実はこれはユナが既に〈裏返り〉を起こしていて、ケノイの言う「ある素質」の適合者だということが早々に描写されていたのではないでしょうか?
それ故に、〈裏返り〉で山犬と繋がったユナは未だ未熟な年齢と思考力ではあるが、とても良くしてもらった季耶に対して襲う事をさせない様に感覚的に(又は無意識に)その「ある素質」の能力の山犬と繋がる糸を使って働きかけたのだと推測します。
更には森の中で一人、〈裏返り〉を起こしたヴァンを見つけ駆け寄ってくるユナ、ユナにはヴァンの居場所が分かるような台詞もありましたが、ユナが既に〈裏返り〉をしていて、同じく〈裏返り〉を起こしたヴァンとその意味でも繋がっているとも捉えられます。

話は戻りまして、ヴァンは連れ去られたユナを追っていきます。
トマがヴァンの道具をオラハに持たせて放してやるのも良い描写です。
トゥーリム達の混乱は収まりませんが、後ろに控えていたサエに目線を送り、サエにヴァンを追わせます。
ここでもそうなのですが、サエ同様にトゥーリムもまた、つくづく「間」で語るキャラクターだなと思わせます。
アカファ王や迂多瑠(ウタル)らの前でも、常にポーカーフェイスなトゥーリムですが、その感情はこの「間」に凝縮されている様な気がします。

ヴァンの背景等もそうなのですが、トゥーリムやアカファ王をはじめとする陰謀に関わるアカファの勢力も含めて、本作品では寡黙なキャラクターが多く、劇と画的な要素のみで物語を展開させる意図的な「台詞の排除」が行われていて、アカファの勢力も「絶対の悪役」の様に映され、その心中を語らず、「間」を持って、察してくれ、原作を読め、と言わんばかりな扱いに見えてしまいました。
これが、あらゆる意味で「専業声優の排除」に繋がっており、私の一つの懸念でした。
トゥーリムもまた、この映画の言う「信念を持った者」なのに…。

トマが追わせたオラハがヴァンに追い付き、その背に乗って山犬を追っていきます。
”うねり”に呑まれ、苦しそうにしながらも必死にユナを取り返そうとするヴァンでしたが、山犬の群れの先頭にようやく追い付くかと思ったそのとき、後続から来たサエの矢を受けてあと一歩のところでユナを山犬に奪われ、ヴァンはその場に倒れます。
ここでは山犬は逃げる一方で、群れの中に入った飛鹿とヴァンに意識を示しません。
勿論、ケノイの命令に従順に従う山犬だから撤退以外の反応はしない…という事でもあるのでしょうが、これはヴァンの〈裏返り〉によることが少なくとも山犬にも影響を与えており、もはやそこに「異種」は存在しなく、追うものと追われるもののみの劇として敢えて描写されている様に受けました。

倒れたヴァンに止めを刺さんと襲い掛かてくるサエを何とか跳ね返すバトルアクションが繰り広げられます。
当作品ではハッキリ言ってバトルシーンは少ないです。
いや…、あるにはあるのですが、そこに思い切った派手さは正直感じられません。
ですが、それでもバトル部分だけで使われるカメラアングルの違いや、倒れたりする人間の重量感が確かにあり、昨今で有りがちな過剰な描写のアニメーションバトルでは無く、何処か実写時代劇の殺陣を観ているかの様なリアリティ趣向だと感じました。
(刺さった矢が突き出た方向に倒れ込むヴァン…とても痛そうで…)
サエを演じた杏さんのアフレコインタビューでは、このシーンの収録時にはマイク前でサエの動きと同じ殺陣を実際に行いながら収録したと仰っていましたが、初登場時のサエの抑揚の無い口調(個人的にちょっと演技が露骨すぎる様には感じましたが)に対して、このヴァンとのバトルシーンはサエの感情がもう隠せずに溢れ出てしまっていて、その台詞も格好つける事が無く我武者羅に吐き出したものを感じ、私の中でサエの株が上がりました。
そのバトルシーン、サエの攻撃に対するヴァンの反撃で、サエの左耳上に付いていた髪飾り(?)が跳ね飛ばされます。
多くの作品でキャラクターの「髪型」というものは「心」を表すものとしてデザインや演出で使われ、特に髪は女性の命と称される事もあり、女性キャラクターによく当て嵌められて演出材料とされてきました。
また、「髪飾り」「髪留め」というのも、その髪型「心」に対する一つのファクター(心の拘束具)として機能する事があります。
サエの髪飾りも彼女の心を縛るファクターとして用いられ、ヴァンとの戦いの中で外れてしまったことにより、彼女の「箍が外れて」心が漏れてしまったのだと思いました。
(この事は、宮地昌幸監督の『亡念のザムド』のヒロイン・西村ハルとナキアミや、同監督作『伏 鉄砲娘の捕物帳』の主人公・浜路から多くを教わりました。)
しかし、深手を負いながらそれでもユナを追う姿勢を見せるヴァンに、サエは行動を躊躇してしまいます。
前編でも書きました「家族を持てたユナ」と「家族を失ったサエ」の対比構造は「追われるユナ」と「追うサエ」としても機能しており、後追い”しか知らない”のサエにとって、憎しみ以外の自分が追われる事の意味(娘を想う父親の愛情)を垣間見た場面でもあったのです。
そして、皮肉にも追うものと追われるものの二人の関係の裏で手を引くのは、同じアカファでありながら違う信念を持つ者達の暗躍という構造があったのでした。


追うものと追われるものの不思議な旅

互いに傷つきながらの両者でしたが、そこにホッサルが仲裁しに現れます。
それでも行かんとするヴァンをマコウカンは静止させようとしますが…マコウカンの力を持ってしても歩みを止めないヴァンにの意志の強さを感じます。
マコウカンはバランスを崩して落馬してしまいますが、流石に深手を負っていたヴァンは意識を失い倒れるそのとき、ホッサルがその身を支えます。
あの巨漢のマコウカンの力でも止められなかったのに、倒れ込むときはホッサルに妙に軽々しく支えられたヴァン。
この流れの違和感は、ヴァンとホッサルとマコウカンの関係性を既に表していて、自身の体の状態を顧みずに無謀な行動をとるヴァンを御するのは、マコウカン…では無く、医術のホッサルの必要性の演出だと感じました。
そして、ホッサルはマコウカンにトゥーリムの追っ手を撒く様に指示し行かせます。
そこには黒狼熱の抗体を持つヴァン、それを殺害せんと後追いしてきたサエ、黒狼熱の抗体を求めヴァンを死なせんと追ってきたホッサルの奇妙な3人が残りました。

この3人の中でヴァンとサエが非常に寡黙なので、ホッサルの語りで進んでいくのがここからのシーンの大きな特徴になってきます。
傷を負ったヴァンの無謀な行動に、ホッサルは半ば強引にヴァンとサエを巻き込み、共に旅路に付き添います。
このホッサルの突発的な行動は原作の性格に通じていて、東乎瑠やアカファの利害ではないところからの行動原理があり、小気味良さがあって良かったのですが、「ホッサルの視点」の追加というのが、ヴァンとユナの物語の何処にこの着地点を設けているのかが心配ではありました。
それと、『鹿の王』の世界観、大自然の景色等、どんな美しい世界をみせてくれるのか?を期待していた私には、3人の旅の口実が生まれるシーンから見せた人の歯並びの様な岩で口内を思わせる洞窟から始まり、脊髄や背骨の様に見える岩、安藤雅司監督のインタビューによると白血球や血小板をイメージした地層の谷等、人体を巡る様な景色が展開されはじめ、正直、やりたい事は分っても画的には違和感でしかなく、それよりもアカファの地の大自然の雄大な景色を映像として見たかったというのが本音でした。
また、3人を映す引きのカメラも背景美術を引き立てる程のアングルや、魅せる書き込みがある訳でも無く、妙に作品世界がこじんまりとしたスケールに留まってしまった様にも思えました。

その反面で、サエが狩りに行った際のキツネに狙われるウサギの「鹿の王」的行動と、ウサギを狙っていたかの様なミスリードの末、実は狩ったのはキツネであり、追うものを仕留めたのは後追いの「今迄の自身との決別」なのか?
また、東乎瑠人への反発が強いとされる土地で起こった、とある東乎瑠の男性とアカファの女性の民族間を迫害されての駆け落ちの末…、谷底の流れの中に双方の服の赤と青の切れが引っ掛かっていて、二人が身投げしたと隠喩する話。
「命」よりも「魂」として救われる事の選択。
その是非を問うと共に、ホッサルの医術の信念とその疑念の台詞に被せて見せていくこれらのシーンの数々は非常に感慨深いものでした。
これもまた『鹿の王』のテーマであろう「命と魂の救済」。
その問題提起となっていると感じました。

ぎこちない三人はその会話は少ないながらも食等を共にしながら少しずつですが関係を深めていきます。
ヴァンがホッサルに敬語を使っているのも、やはりその身を救われた恩と尊敬からくるものでしょう。
サエから小刀を借り、ユナとの約束だった鹿笛作っていくヴァン。
少しずつ、少しずつ会話が生れていく奇妙な関係の三人。(この辺も映画『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の影響が見える。)
旅の行き先はサエが言うに〈火馬の郷〉。
そして一向は湿地帯の様な場所に差し掛かったところで突如、何者かの襲撃を受け、ホッサルが落馬してしまいます。
サエから高足(たかあし)と呼ばれる者達は、パンフレットにある世界設定・品川宏樹さんのインタビューによると火馬の民の設定の様で、そのビジュアルは映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の緑の地の成れ果てに登場する竹馬で徘徊するキャラクターであり、安藤雅司監督の話では同じく『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のフュリオサがデザインソースとなっているサエと相俟って、原作にも無い異彩を放つこのバトルシーンは、私には非常に刺激的でした。
(実際、19世紀前後のフランスの地方の羊飼いの湿地の移動手段として竹馬が使われていたそうで。)
高足はまるで『もののけ姫』のサンの戦闘服の様な装いで仮面を被り、同じく『もののけ姫』で悍ましいと評されたジバシリが扱う様な吹き矢を操ります。
サエとヴァン連携により、竹馬を切られ、地に落とされた高足の一人をサエが捕まえ、仮面を剥ぐとその顔はまだ少女のものでした。
仮面は「心」を隠す・又は心を失うメタファーです。また、竹馬も「地に足の付かない」何処か浮き足立ったものであったり、正常では無い状態を示すものに感じられます。
(『もののけ姫』で夜襲をかけてきたサンがタタラ場の家々の屋根上を逃げ回り、地に下りないのは上記と近い意味だと思います。)
サエは言います「同じアカファだぞ」と。
東乎瑠とアカファの戦争で起こった民族の分断。
その憎しみと悲しみの連鎖の結果、誰が敵なのか?思考する事は無く判別も出来ない心を失った少女がいました。
そして、それはアカファ人であるヴァンを襲ったサエと同様に、高足の少女はサエ自身の過去そのものと邂逅だったのです。
仮面を外された少女はもしかしたら、何かを得て変わってゆくかもしれません。
彼女を喩したサエには、今は背中を預けるヴァンがいました。
『マッドマックス』繋がりで描かれた高足のシーンは、前記したサエの狩りのシーンと対になっていて、この旅を通して変化したサエの心の決着をつけるものでした。

ホッサルは先程の高足との戦いで落馬し、退場していましたが、地に足がつかない高足達との対比か、「戦闘しない」「素顔のまま泥に塗れる」というのがホッサルが戦闘を通してものを言う・考えるキャラクターでは無い事もあるのでしょうか。
その泥まみれのホッサルを救う様に、一向は温泉を見つけます。
原作で〈ヨミダの森〉の描写がありました温泉シーンはホッサルの介入によって場所も何も改変され、ホッサルとヴァンとの関係を更に一段進めるものとして描かれました。
裸の付き合いとも言えるこの場で、ホッサルは大自然の中での己の非力さを、また、ヴァンはユナに対する気持ちの全てをホッサルに語り、その姿と台詞は既に「愛娘を語る父親」そのもので、それを裏で静かに聞くサエの構図は次のシーンに密接に繋がっていきます。

オラハの世話をするヴァンのところにサエが現れます。
その姿は外衣を着ていません。
衣もまた「心」を隠すファクターで、それを一枚外した非武装の姿はサエの心の変化を表していました。
そのサエに、ヴァンは借りていた小刀を返します。
サエの問いの様な言葉に、ヴァンは真っ直ぐな趣で「大事なのは血のつながりでは無い」と告げ、その言葉を受けたサエは初めて笑みを浮かべます。
火馬の郷への道筋とこれまで自分の目的、そしてここで初めて告げる自身の名。
そうしてサエは「次に会う時は…名前を呼んで下さい」と、何かを決断したかの様にその場を後にし、何処かに去って行くのでした。

ホッサルもまた、不思議な光景を目の当たりにします。
その光景とは、空はオーロラに包まれ、ヴァンを中心に、大地が、森が、世界が生命の光に満ち足りていくものでした。
それが夢であったかのような感覚でホッサルが目を覚ますと、サエの姿は既に無く、いつの間にか三人の旅はその終りを迎えようとしていました。


───映画本編③に続く───


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