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【私見】『鹿の王 ユナと約束の旅』は内容とは裏腹なる排除の映画~映画本編①~

前回の~公開までの道のり~に続き、『鹿の王 ユナと約束の旅』映画本編の内容について書かせて頂きます。
(思い出しながら書いているので、箇条書きやシーンが前後する事があります。読みにくい事はご了承下さい。)

アバンの語りはほぼ映像のみの不安と感動の応酬

前回お話しした公開までの道のりがどうあれ、本作の公開は非常に心待ちにしていました。しかし、いざ始まってみると…愕然としました。

冒頭からテロップでの世界観説明が淡々と開始され、なんと…映画を観る構えをしていたところに読ませることを始めさせられ、肩透かしを食らいました。
『鹿の王』では作品特有の固有名詞がテロップに多く登場し、「アカファ」と「東乎瑠(ツオル)』の二国間の複雑な関係性と謎の病「黒狼熱(ミツツアル)」を語り、敷居の高そうな話を展開するので、冒頭で挫ける方が決して少なくないのではないか?と感じました。
確かに『鹿の王』はファンタジー作品であり、非常に入り組んだ世界観の物語でもあり、映像で説明して行くのには映画時間内では困難をきたすのは分っていましたし、冒頭にテロップ説明やストーリーが入る名作映画は過去にもたくさんあります。
『鹿の王』と引き合いに出される『もののけ姫』の冒頭もテロップがでますが、これは3行のみの非常に簡潔した形でこれを見逃しても難なく本編を理解できる最小限の情報のみなので、それとは印象がまるで違うでしょう。
(映画『スターウォーズ』もその類ですが、もうこれはあの音楽とテロップが長きに渡るシリーズものの「顔」になってしまっているので、当作品のそれとは既に意味が違っているように感じます。)

そして『鹿の王』ではテロップ後の森から爆発の様に生まれた黒い流水の如き山犬の進撃の流れが、森を割いていく祟り神の進撃に繋がっていく流れの『もののけ姫』とよく比較される所以にも感じます。

『鹿の王』ではアバンはまだ続き、山犬は岩塩鉱に辿り着き、シーンはその内部へと移ります。
ここでは額に青い瞳の入れ墨の入った奴隷と同じように兜の額に目の文様が入った奴隷監督達が映りますが、これは額に目の入る人種(東乎瑠人)だらけの環境の中で、主人公でありその記号に属さないヴァンの特種性が立っていて、この記号化は分かり易いものでした。
そして凄い!と感じたのは一人の奴隷がよろついて倒れるカットで、その重心がブレていく姿勢を精密な作画とカメラワークが作り出していて、観ているこちらまで体重の重さを感じる程で震えが来るほど衝撃を受け、その奴隷の運んでいた荷をヴァンが黙って肩代わりして運ぶサイレントで進行する描写もまた、主人公の持つ素質が表現されていて巧いなと思いました。
山犬に襲撃された後、ヴァンの前に現れた子(ユナ)を銜えた隻眼の山犬に対して、それを助けようとするヴァンの行動も、前途の行動があったからこそ直結していて自然な流れになっていました。


岩塩鉱の部分は非常に良く出来ていて、画面の暗さにはややストレスがあったものの、山犬の襲撃後の噛まれたヴァンの中に生命が誕生したような描写(裏返り?)や、意識が戻ると泣き喚くユナがヴァンの首輪に繋がる鎖を持って起こした事がヴァンの新しく「宿った命」「繋がる者」の変化を描いていました。
その他、どうやって首輪を外したか等の描写も細かく、揺らすと死体が落ちてきてから縄はしごを上るシーンは、煉獄(岩塩鉱内部)からこの世(地上世界)に生まれ直すメタファーの様でもあり、冒頭のテロップ問題から一転して非常に興味深く観ていました。
しかし…台詞の少ない進行で、画の訴える力に比重を置いている様に感じ、その半面で「ヴァン=堤真一さん」の存在感を植え付ける作りにも当然成らず、未だ物語の土台を固めるには不十分だった様にも感じました。

この世に出たヴァンとユナは見つけた廃家で身支度を整え山に入り、結果的な逃避行となりますが、そこで手綱を付けたまま走る一匹の「飛鹿(ピュイカ)」と出会い、ここでようやくタイトルの登場ですが…
そこに出たのは『鹿の王』 のみで、副題の『ユナと約束の旅』の文字は何処にもありません。
今迄散々副題を付けて宣伝していたものは何だったのでしょうか?
副題が付くというのは「原作とは違う事」を表す当映像作品の一応のアイデンティティではないのでしょうか?
この後で何か修正する様な事に成り兼ねないのでは?…と、非常に違和感を感じたタイトル表記でした。


色で分けられた人種、色だけでは分けられない価値観

ヴァンらは飛鹿の持ち主である怪我を負ったトマを助け、共にアカファの交易都市・カザンに向かいます。
その過程でトマが東乎瑠の者ではない事、トマが手を焼く飛鹿の扱い、食べ物を分け与える事、ユナとヴァンの名を語る過程が警戒心を解いていくものとして自然に進行していきますが、ユナの差し出す食べ物にヴァンが反応を渋る様子もまたヴァンの不器用さや心の奥底にある思いが出ているものでした。
ここではアバンと打って変わって、会話劇の進行にほっとしました。

舞台は岩塩鉱に戻り、多くの死者が火葬されるシーンとなり、全滅したはずの岩塩鉱に新たな東乎瑠の軍隊がいる事で、ヴァンが去ってからかなり時間が経ったのを一瞬で諭させています。
そしてここで主要なキャラクター達が集い、ホッサル、マコウカン、与多瑠、トゥーリムが登場。
アカファの兵も登場し、その勢力を示した青と赤の色分けに目が行く訳ですが、この色分けが本作を象徴する一つのファクターなのですが…ホッサルと袈裟とマコウカンの髪色が赤であること等、かえって二分されるだけの勢力分断になる諸刃の剣にならなければよいな…とも。
(原作ではホッサルとマコウカンの立ち位置や出自が細かく書かれているので、画面としてはより深みが出る構造としても捉えられる)

ホッサルの描写はヴァン以上にそのキャラクター性を語る描写が満載で、非常に魅力的に映る様、本人の言動や与多瑠やトゥーリム、モブ兵隊の台詞から語られるホッサルの背景等、かなり力が入った濃密な流れが組まれ、そこに更なる医術と宗教(劇中では原作の精心教にあたる)の捉え方・価値観の違いを屍の扱い方を通して見せる工夫がされており、これも非常に巧いなと思いました。
(ここではその台詞から、原作にある「鷹の儀」がホッサルらの参加無しで既に進行されており、後に登場する与多瑠の腹違いの兄・迂多瑠(ウタル)が同じ山犬の襲撃を受けていた事が示唆されている。)

ここで疑問に感じたのは、明らかに「ミツツアル(黒狼熱)」と原作読みで発音していた台詞でした。(映画の用語では「ミッツアル」と振り仮名表記…そもそもなぜ?)

(そして黒狼熱を論じる場面で冒頭テロップでは無く、東乎瑠とアカファの関係性を語っても良かったのではないだろうか…。)

ホッサル達は岩塩鉱の坑内下層に入り調査を進めます。
(原作ではここで入るべき熱気払いはアバンで既にあった)
するとそこにトゥーリムの説明でサエが登場。
サエの後追い技術でこの状況の中で生きて出たとされるヴァンの存在を知る事ととなります。
与多瑠は当時、東乎瑠軍が手を焼いたアカファ・ガンサ氏族で構成された飛鹿乗りの部隊「独角(どっかく)」の頭である「欠け角のヴァン」と邂逅していた過去を思い出します。
回想での与多瑠は未だ若い未熟な士官だった為か、敵対していてもヴァンは見逃すことをします。
このエピソードが人種間、勢力間を越えた感情と繋がりを与多瑠に植え付けており、更にヴァンの素質をより一層高め、恐らく与多瑠の人間性や政治的方針の一つの基盤になったのではないか?とも思います。

そのヴァンの存在が「黒狼熱」に対抗する一つの手段かもしれないと知れると、与多瑠は後追いに長けたサエにヴァンの追跡を命じますが、サエは無反応。
しかし、トゥーリムが命令するとサエは即座に反応します。
これはサエの東乎瑠側への敵対心を「間」で示しています。
命令の後でトゥーリムが近寄ってサエに耳打ちするシーンもただ単に追跡だけでない事の示唆になっていて細かいです。
しかし、岩塩鉱内でユナをあやしていた配給係の奴隷女の屍に対しては衣服の乱れを直してあげたりと、東乎瑠の者であっても複雑なる心情を示しており、サエが決して心の無い者ではない事が描かれていました。

東乎瑠帝国のアカファ領は迂多瑠が支配しており、与多瑠と共に現東乎瑠皇帝・那多瑠(ナタル)の実の子として原作から改変されており、原作の王幡候(おうはんこう)は登場しません。
よって、皇帝と迂多瑠と与多瑠の関係性が一層近いものに底上げされており、ヴァンとユナとは違う「父と子」の関係が作られてるのは興味深く、そして迂多瑠の王の間のシーンでは東乎瑠に根付いた価値観(精心教)と「黒狼熱」に対するそれぞれの勢力の捉え方をちゃんと劇で説明しており、ホッサルの抱く疑念の多くに直結して行くのも巧い手法でした。
(これは私には何処か宮地昌幸監督作『亡念のザムド』の北政府の僧会とテシク氏族の価値観「魂の扱い方」の違いを思い出させるのでした。)

また、アカファ王とトゥーリムとの密談の元に現れるオーファンも、赤の勢力内で持つ価値観の違いを象徴しており、決して色分けだけで形成された世界でないことも分かりました。


心温まるオキでの生活、救えない命と救われる魂と

ヴァンらが辿り着いたのはトマの住む放牧民の村・オキでした。
原作ではトマの母が季耶(きや)でしたが、本作ではトマの嫁に変更。
そしてトマの父・オゥマがオウマと表記。
村での生活は貧しさの背景の一切を無くし、ヴァンが心を取り戻して行くまでの非常に丁寧な描写と、ユナの愛らしさに溢れていました。
そこにいた飛鹿のオラハもリアリティに優れ、この映画を代表するシーンは正にオキの村でのものばかりだと言っても過言ではないでしょう。
今迄、この世界の生活の描写の一切が無かった流れでしたので、ようやくこの映画で人々の生活や営み、食事等のシーンが映画にぐっと奥行きを与える事になり、少しばかり不安な面持ちで物語を追っていた私はやっと安堵出来ました。

ここでオラハを手懐けるときにヴァンが用いた手笛。
これをユナが必要に気に入ってマネをする。
それによって猪狩りで危険な目に合ってしまう。
そこから鹿笛を作る約束(副題回収)をする。
この流れも良かったです。
(この時点で約束する流れがかなりあっさりとしていることや、映画内にタイトルの副題の無いところから、映画が完成した後から何らかがあって副題を付けたと推測します。)

また、トマの父(オウマ)と「鹿の王と呼ばれる行動」について語る場面では、内容も非常に大事ではありますが、原作では敬語の無かったヴァンがオウマに対しては敬語で喋り、集落の族長であり「父」であるオウマに対する尊敬の姿勢と「もう一度、父となったヴァン」を垣間見た様な気がしました。

サエが後追いするその流れもカザンの街行く親子を見つめたり、ようやく出会ったヴァンとユナとの端的な会話のユナに対するものと「親の無い子にも生きやすい国に…」の台詞は安藤監督のインタビューにあった、家族を持てたユナと家族を亡くしたサエの対比構造が強調されて見えました。
(映画のサエは原作とは違い、家族を東乎瑠との争いで無くしている設定になっている。)

ヴァンの心がユナと強く結びつき生き直す。
その半面で、ホッサルサイドでは黒狼熱に倒れる患者が最後まで医療ではなく神への救いを求めた事。
時同じく、それを最も強調していた迂多瑠が亡くなった事で、雨の降る中での葬儀を通しても止まらない玉眼来訪にホッサルが「命と魂と、その拠り所の違い」を実感していく事の対比が非常に良く出来ていました。

しかし、不安な要素や疑問が無くなった訳でもなく、この辺りから必要にアッシミのカットが多くなり、その重要性を物語っていましたが、まず、飛鹿が逃げない様に策に巻く縄が原作のモホキではなく、アッシミを染みさせた縄である改変。
飛鹿はアッシミを食べるはずの設定なのにこれで策越えさせないというのは何故か?
次に森の中でヴァンが裏返りを起こしたときに駆け寄ってくるユナのカットでのアッシミの平面的な画。
アッシミをより重要視するならユナとアップで入るPVでも使われたカットなのに…もっと立体的に強調して描いても良かったのではないか?と、ここまで素晴らしい作画で見せていただけに非常に気になったカットでした。


作品テーマに関わる排除されし者達

加筆します。書き忘れたことを少し。

アバンの岩塩鉱での山犬の襲撃ですが、ユナを加えていた(ヴァンに噛みついた)「隻眼の山犬」ですが…後のオーファン初登場後のシーンでオーファンと共にいる山犬がその「隻眼の山犬」なのです。
このユナとヴァンを噛んだとする「隻眼の山犬」については後述で…。

トマの妻「季耶(きや)」ですが、原作ではトマの母だったのが、映画では妻に改変されている訳ですが、何故改変されたのか…?
私が思うに、これは「母性の排除」だと考えています。
当作品では既にお気付きかと思いますが「父性」というのがテーマの一つにあります。
それを少ない映画時間で膨大な情報量を持つ原作に沿ってキャラクターを配置してしまうと、映画で抽出した見せたいテーマが別情報の過多により見えにくくなってしまいます。
その為、アカファと東乎瑠の異種・異文化共生の象徴・オキの村で必要不可欠な東乎瑠出身の「季耶」を「母」としてしまうとテーマの「父性」が強調出来なくなる故の改変なのだと考えます。
(原作の季耶はユナの面倒を見る非常に母性に溢れるキャラクター故に。)
また、オウマの妻(トマの母)は名の無いキャラクターとして存在していますが「母性」を強く出さない様な配置と扱い、台詞内容に調整されていると感じる事が出来ます。
オキの村ではヨキ(原作ではトマの叔父)の家族(妻と子)も登場しますが、かなり扱いが簡略化されていますし、当作品の母親キャラクターと言えば…台詞がある者だと、回想で登場するヴァンの妻(故人)とカザンの女と飛鹿くらいでしょうか…非常に少ないのが分かりますね。
そう考えると当作品の登場キャラクターの家族背景で語られる部分と語られない部分の差が何なのか…もう、お分かりですよね?
「鷹の儀」がカットされているのはその理由があるのでしょう。

また、原作で登場するホッサルの助手「ミラル」の映画不在の理由についても後述にて…。


───映画本編②へ続く───


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