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【短編】時間よ止まれと誰が望んだ

あらすじ

付き合って間もなく半年を迎える高校生、出水いずみ悠人ゆうと天原たかはら明音あかねの2人は、最近すっかり会話が減り、ぎくしゃくしていた。悠人はこの状況を打開しようと、いつも早朝に登校する明音に合わせて学校に向かうも、突如として時間が止まる現象に見舞われる。何もかもがその動きを止め、悠人と明音だけが動いている異常事態。この現象をどうにか解決しようと調査するさなか、悠人は明音の知らなかった一面を垣間見る。それぞれの回想を重ねながら、邪魔者のいない2人だけの時間、空間で、2人は改めて向き合う。

7時12分

「ねえ――時間、止まってない?」

明音あかねのか細い声が沈黙を破った。

「時計。時計見て! 今何時!?」

明音はそう言うだけ言って、次の瞬間には堰を切ったように窓に飛びつく。

「何時って、7時12分」

いつも着けている左手の腕時計に目を落とし、その後顔を上げた悠人ゆうとは、教室の壁に掛けられている時計の針が「2」の位置を僅かに過ぎた形を確認する。ズレ無く、正確な時刻を指し示している

学生が登校するには少々早い時刻。それが事実であると示すように、2人のいる教室には他にまだ誰もいない。

聞いてきた割に明音は悠人の返答に何も反応しないまま、窓枠に身を乗り出して外を眺めている。そして、何の言葉も発さない。

「なんだよ、もう……」

悠人はそう呟き、彼女の始めの言葉を反芻する。

時計ではなく、「時間」が止まっている? 突拍子もない発言に思われた明音のその言葉が嘘ではないと、悠人はすぐに自らの頭で理解することとなる。

窓の外、そこから見えるグラウンドでは、確かサッカー部の連中が朝練を行っていたはず……悠人の記憶の限りではそうであった。よくもまあ、こんなに早い時間から威勢良く声を出しながら駆け回れるものだと、登校した時に横目で見やり思ったのだ。

呆然と窓際に立つ彼女を追って、悠人は同じ方に目をやった。

「そういえば、さっきからやけに静か……な、何だこれ」

誰かが蹴り飛ばしたのだろう、サッカーボールが宙を舞っている。

否、宙に浮かんだまま静止している。

サッカー部の部員たちも皆、今まさに足を上げて息を切らし、砂ぼこりの中を走り抜け、ボールを我先にと追う――その様を維持して止まり続けている。
その瞬間はさながら写真のようにグラウンドの上で綺麗に切り取られ、悠人の目にはむしろドラマチックにも映った。そしていつまで眺め続けても、動き出すことはなかった。

明音と悠人の2人しかいないこの教室だけでなく、校舎内も、開け放たれた窓の外までもが、いつから沈黙に包まれていただろうか。いや、少なくとも教室の中では、ずっと沈黙が続いていたのだが。

この校舎は駅から徒歩にして20分ほど移動した辺りの住宅街の中にそびえ立っている。近隣の住人が周囲を通ることも多く、自動車や自転車の音、大人しく乗っていられない子どもの声、それを叱り付ける大人の声を、生徒たちはたびたび耳にしている。

その音や声も一切無い。思えば、普段ならば吹奏楽部の朝練の様子が漏れ聞こえることもあったはずだった。それなりに早い時刻とは言え、これほどまでに無音になることは有り得ないと、日頃から誰よりも先に登校している明音は知っている。

窓からの景色を確かめ続けているのか、ただ呆然としているのか、2人揃って黙りこくっているところから気を取り直したのは何分が経過した――そう体感した――頃だったか。
ふと壁の時計を見ると、針が示す時刻は変わらず7時12分。スマホの画面にも7時12分。やはり時は止まり、2人は7時12分に閉じ込められていた。

「……一体なんなの、何、どういうこと」

明音が発した、戸惑いの色の濃い声の響きは、悠人の緊張を密かに和らげた。

出水悠人の憂鬱

出水いずみ悠人ゆうとは朝から憂鬱だった。

その理由は、いつもよりも随分と早く起きて、いつもよりも早い時間に今まさに登校している最中だから……ではない。それは目的に対する手段であって、あくまで副作用みたいなものだ。

瞼も身体も重くて仕方がないことは事実にしても、だったら最初ハナから早起きなんてしなければ良い、なんていう結論に悠人が辿り着くことはなかった。果たさなくてはいけない〝目的〟が彼にはあるのだ。

同じクラスの付き合っている彼女・明音あかねに会って話をする。
そのために悠人は2時間近く早く起きて、学校に向かっているのだ。母親に今日は弁当を作らなくてよいと告げた時は、理由を聞かれてもはぐらかした。

彼女は日頃から誰よりも先に登校している。さすがに部活動の朝練組ほどではないが、少なくとも朝練も何もなく普通に登校してくる生徒と比べたら、彼女よりも早く教室に現れる者はそういない。

その理由は「満員電車を避けるため」であると以前に悠人は聞いたことがある。

明音が登校するために使う路線は、大勢のサラリーマンが会社通勤によく利用するもので、自宅と学校の位置関係からして他のルートを使えない彼女は、この路線に乗るしかない。
普通に登校しようとすると通勤ラッシュにぶつかるため、ピークタイムから外した早い時間に登校することを選んだのだと言う。

はじめに明音から聞いた時は、「確かに毎朝のように満員電車に乗るのは辛いよなぁ」「どうせなら座りたいし」なんて内心思いながら聞き流していたが、いざ自分がその時間に合わせてみると、この時間に起きるというのも相当辛い。明音よりは遅い起床であり遅い登校であるのだが、それでも朝が弱い悠人には楽とは言えなかった。

満員電車か起床時間か、その二つを天秤に掛けてどちらが傾くのかは当然個人の感覚によるが、それにしてもよくやるものだと、あくびを噛み殺しながら思った。

ともかく、明音と2人きりの空間で話すためには、彼女の登校時間に合わせて自分も登校するほかないと思い至り、こうして眠い目を擦ってやって来たのだ。

明音とは、付き合ってから間もなく6ヶ月を迎えようとしているが、まともな会話をしなくなって1ヶ月近く経つ。

最近は、LINEをしてもやり取りは2,3往復程度ですぐに終わってしまい、学校でも周りの目を気にしてしまって深い話をするには至らない。むしろその様子を知ったクラスメイトに、もっぱら「あいつら何かあった?」と噂されている。

どちらかが一方的に避けているわけではないが、いつからか何やら気まずく、以前のように楽しく話すことが出来なくなってしまった。
うまくやれていたはずなのに何故こんな風になってしまったのだろう、と悠人は思う。

だからこそ、改めて明音と話がしたい。

そして、もう一度仲睦まじくいられた頃の関係に戻りたい。

向こうが素っ気ないから、つい自分も距離を取って、ドライな態度を見せてしまっていた。その自覚もあるし、鑑みて反省もしている。もっと早く、すがり付いてでも話をするべきだったじゃないか。

そう思ったのは、もうすぐ明音の誕生日だからだ。

付き合い始めたばかりの頃、互いの誕生日がいつかを確認し合って、その日が来たら目一杯祝福し合おうと誓ったのだ。
実際、その少し後に悠人の誕生日を迎えた時は、2人で高校生なりのささやかなパーティーをした。明音が準備し、バレバレなサプライズを仕掛けられた悠人は大袈裟に驚いて見せて、2人で笑った。楽しかったなぁ、嬉しかったなぁ、と今でも悠人はその時の事を思い出す。

その日悠人は、自分のことを祝ってもらった喜び以上に、今日よりもずっと豪華で楽しく、とびきりのサプライズを用意して、自分が感じた以上の喜びを明音に感じさせてあげたい、そう思って、必ずやそれを実現して見せると心に誓ったのだ。
無論、サプライズが前提なので、その決意を明音に直接伝えることはなかったのだが。

もしこのまま、その日が訪れてしまったら、あの頃思い描いていた楽しいパーティーにはならないだろう。
仮に強引にサプライズを仕掛けたとしても、とても成功するとは悠人に思えない。むしろ明音の喜びの色も何もない冷めた表情がリアルに思い浮かんでしまい、さすがに実行する勇気は出なかった。

こうしたイベントに頼って、空元気を振りかざして盛り上げようとするのは悪手であると理解できていた。だから悠人は、明音の誕生日を迎えるよりも前に、まずは2人で話がしたい。そう思ったのだ。

悠人は明音のことが好きだった。それは紛れもなく本心から思えること。本当に好きだった。

告白したのも、悠人からだった。

別に勝算はなかった。所謂、当たって砕けろのつもりの告白だった。それまでは普通の友達という感じで、話さないことはないが、あくまで男友達の一人という感じだった。特別仲の良い、公然のカップルであるような雰囲気ではなかった。

だからむしろ、振られてもすぐに友達関係に戻れる、そんなタイミングの内に伝えようと思った。冗談めかしてこの気持ちを打ち明けるくらいで、ちょっとしたウケがあって片付く程の出来事に収まれば、それはそれで良いと思った。

そう思うくらいに手応えは無かった。アプローチと言えるほどの事は、今にして思えばまともにしていなかった。それでも、会えば話すし、クラスメイトと些細な議論が巻き起これば――例えば「きのこ」か「たけのこ」かとかそういう――明音の味方について、あわよくば好意を持たれるように立ち回ってたりもした。

それでも明音から、自身に対しての好意を感じることはなかった。もちろん周囲からそのような話を聞くこともなかった。

やっぱり、自分は明音にとっては大勢いる男友達の中の一人でしかないだろうと思っていた。

だから、今のうちに告白した。死ぬ程傷つくくらいになる前に処理しておこうと思ったのだ。

と思っていたら、まさかのOKの返事を貰った。

その時の悠人は驚きを隠せなかった。本当にもう、すごいびっくりした。実際、承諾の返事に対して声を挙げてしまい、その様子を少々不審がられてしまったくらいだった。間違いなく真剣な本心からの告白であり、喜びのあまりおかしなリアクションになってしまったのだと、必死に説明する羽目になった。

そこから、明音との恋人関係が始まった。

初めの頃は少しぎこちなくも、2人で過ごす機会が増えるにつれ、段階を踏んで打ち解けていった。

いや、明音は元から誰に対しても気さくでフラットな態度で接していたし、悠人に対してもそうだった。だからこそ彼女のことを好きになったとも言える。悠人自身は、付き合い始めて関係が変わった分、少々緊張を覚えてしまうくらいだった。

突然の告白に、拍子抜けするくらいにあっさりとOKされたことも、「別に今彼氏もいないし、とりあえず付き合うだけ付き合うか。気に入らなかったらすぐに別れればいいし」みたいな感覚なのかも、とも考えたが、真意を直接問うことはすぐには出来なかった。

それでも、会話や時間の共有を重ねて、悠人しか知らない明音の姿を見ることが確かに多くなっているように感じた。
昼食の誘いも、毎夜の連絡も、休日に会う提案も、どちらともなく互いからするようになったし、学校で喋る時も、デート中も、明音の笑顔が増えた気がした。その笑顔は以前よりも柔らかく、彼女の素の表情に思える。いつしか、何でも話せる関係になれていたと思う。

正直、告白の日以降、面と向かって「好きだ」と伝えることは気恥ずかしくて中々できないし、向こうからも言葉にして言われたことは無い。それでも、悠人から告白して成立したカップルと言えど、自分たちは確かに良い関係を築けている。悠人はそう確信していた。

その結実として、悠人の誕生日を祝ってくれたはずだ。
明音にカフェへと呼び出されたかと思えば、何やらそわそわしているところに豪勢なプレートが運ばれてきて、予想通りに「HAPPY BIRTHDAY」の文字が書かれていた。
「わかりやすすぎ」なんて笑っている振りをして、嬉し涙をごまかしたりした。プレゼントとして貰った腕時計もあれから毎日着けている。

それからは尚更明音のことが好きになったし、大切にしようと思った。

部活だったり友達との約束だったり、今までは明音よりもことを優先してしまう時もあったが、もっと明音と一緒にいる時間を増やそうと思った。登校するとか、休みの日に会うとか、毎日連絡してみたりとか。

そんな矢先である。

明音の誕生日が近づいてきたな、と一人ソワソワし始めていた。と言ってもまだひと月くらいはある頃である。しかし、こういうのは事前の準備が命なのだ。意識し始めるのにも早いに越したことは無い。

最初は、悠人の方が少しばかり余所余所しく振舞ってしまっていたのだと思った。だって明音を驚かせ、そして喜ばせるためには、祝う準備を進めるにしてもバレてはいけない。
だからやましいことではないにしても明音に対して秘密を抱えている状態だ。その引け目が無意識に態度として出てしまっていたのかもしれないと思った。だが、どうやらそうではないらしい。

明音がなんだか余所余所しい。

なんで? 俺これからあなたの誕生日祝うつもりなんですけど?

ちょっと前まで良い感じだったじゃん。

返信が前より遅くなった。返す内容もどこか投げやりになっている気がした。「そうだね」だけとか。即レスだと思ったらスタンプだけとか。

会って話すと、全然普通だった。でも他の友達に呼ばれたりすると俺との会話は切り上げてしまうようになった。

休みの日の誘いも断られる回数が増えた気がする。と言うより、断る理由がずいぶんと曖昧になった。「あー……、ごめん。その日はちょっと」だって。いや、ダメならダメでそれは全然良いんだけど。

これは、もしかして……浮気されてるってやつ?

いやいや、態度の変化を感じてるだけで、他には証拠も何もない。思い込みだけで疑うのは良くない。
一緒にいる時に誰かとやり取りしてるとか、誰かからのプレゼントらしきものを身に付けてるとか、今のところはそういうのは、無い。はず。

じゃあ何だ。普通に嫌われ始めてる? だとしたら一番きついんですけど。

話せば普通。普通なんだよ。今まで通りの明音。

普通だからこそ、聞こうにもなんか聞けなくて。「最近、何かちょっと変じゃない?」とか「俺、何かした?」とか。チャンスを窺うものの、いざ明音の顔を見ると言葉が出せない。

そうこうしている内に、モヤモヤを抱えたまま1ヶ月近く経ってしまったのである。近しい友人には雰囲気から察されていたらしく、それとなく「お前ら何かあった?」と聞かれ、悠人はうやむやにごまかすことしか出来なかった。

そして周囲が気づきつつあるという事実が決定打となり、悠人の危機感を刺激した。

だから悠人は2時間近く早く起きて、学校に向かっているのだ。
明音と直接会って、2人きりで話す。

正直、明音が誰よりも先に登校していることは知っていたことだから、決意さえしていればもっと早くこの手段を取ることは出来た。しかし、明音と話すことがそれはそれで怖くて踏ん切りがつかなかった。

それでも間もなく訪れる明音の誕生日を、この状態で迎えることは出来ない。

だから、ともかく決定事項にしてしまおうと、昨夜の内に明音に「俺も同じ時間に登校する」と送った。思っていたよりもすぐに「わかった」とだけ返信がきて、彼女も悠人の意図を理解したのだと思った。

ふと、鞄の奥底に忍ばせた、悠人の想いを形取った〝それ〟を側面から革越しにそっと撫でる。これを明音に渡すことが出来たら、もしかしたら。

「よし」と口の中で小さく呟いて、気を引き締める。朝練に精を出す運動部を横目にしつつ、明音の待ち受ける教室へと向かった。

という勝負の朝だと言うのに、時間が止まるなどという異常事態に見舞われてしまっては、悠人としても愕然とせずにいられない訳である。

とんだ災難。

本当に、とんだ災難だ。

続・7時12分

「ねえ見て、空のあっちの方」
「うん」
「コーラの瓶みたいなのが浮かんでる。あれって鳥だよね。飛んでる最中の」
「そうだね」
「こう飛び上がって、滑空しようとちょうど翼を畳んだ瞬間に、時間が止まったってことだよ。ああいう飛び方する鳥って何だったかなぁ」
「そうだね」
「……興味ない? 鳥」
「いや……鳥って言うか、さすがに順応早すぎると思って。ちょっと俺はそんな、すぐには」

窓から身を乗り出したまま振り返る明音と、自分の席に座ったまま目を伏せるばかりの悠人。彼の「順応早すぎる」の言葉の通りに、時が止まった中での2人の様子は大きく違う。

「明音も何分か前までは狼狽えてたのに……あぁいや、1分も経ってないのか、いや経ってはいるか、俺らは」
「そりゃあ、びっくりはしたし今も平常心ってわけじゃないけどさ」
「俺からしたらめちゃくちゃ平常心に見えるよ」
「混乱だけしててもどうしようもないじゃん。解決のためには周囲の観察だって大事だよ」
「そうだけどさぁ……」

時間が止まり、7時12分をいつまでも過ごしている明音と悠人の2人。その自体が発覚した時こそ狼狽えていた明音だったが、いつしか落ち着きを取り戻し、改めて窓の外を眺めている様子はどこか楽しげでもあった。
一方で困惑し通しの悠人。そんな彼を尻目に、明音は「そうだ」と呟くとおもむろに教室の外へ出て、いずこへと去っていく。

その背中を引き止めたくなってしまうが、これ以上呆れられたらと思うと、悠人は何も言えなかった。明音に向かって伸ばしかけた右手が虚しい。
右手を自身の顎を支えるために組み直し、ひとつ溜息をつくと、ふと思う。

「そういえば、教室の外って出て大丈夫なのかな」

窓から見える〝外〟の景色は、紛れもなく時が止まっている。宙に浮いて微動だにしないサッカーボールなど、悠人はこれまで見たことがない。
そして教室の中にいる明音と悠人だけは、なぜか時が止まった状態にあらず、動くことも話すことも出来る。無論、2人でコミュニケーションを取ることも出来た。

ではこの教室から出たらどうなる?

時間が止まっているこの状況、何が、どこまでの範囲に起きている?

もしも、この範囲よりも内側だけは特別に動いていられる、という状況だとしたら。

明音の時間まで止まってしまったら。

止まった時間の中に、自分だけが取り残されてしまったら。

首筋に怖気おぞけが走り、それと同時に悠人は駆け出していた。座っていた机と椅子は、立ち上がった勢いで大きく跳ねて倒れ、激しい音を教室内に響かせた。
教室から頭だけを出し、廊下に向かって叫ぶ。

「明音!!!」

悠人の目線の先にはちょうど、びくっと驚いて肩をすくませる明音の姿があった。

「な、何、どしたの。すごい音しなかった、今?」

明音の《《動いている》》様子に、ほっと胸を撫で下ろす悠人。どこから見つけてきたのか、彼女は使い古されたバレーボールを一つ手にしていた。
教室から離れてしまったら明音まで外のサッカー部員のように止まってしまうかもしれない――そう考えたら焦ってしまったことを説明すると、明音はすぐに腑落ちしたようだった。

「心配してくれてありがと。でもさ、それで言ったら、教室の時計とか止まってるし。教室の中かどうかって話じゃないんだよ、たぶん」

そう言われて、確かにと納得する悠人。
壁に掛けられた時計も、風に揺れるカーテンも、あまつさえ悠人の持つスマホも止まった時の中にあることを、その目で既に見ていたのだ。もちろん明音のスマホも同様であり、単なる不調で反応しないだけではないことも確認済みであった。

「だとしたら尚更わけわかんないな……なんで俺らだけ動いてるんだ」
「ね。それに椅子とか机は動かせるし、扉も開けるし」

そう言って明音は両手に抱えていたボールを傍らに置き、膨らんだ形のまま静止していたカーテンを右手でそっと押す。

「カーテンも動くし……あ、でもすごい、見て。押した分だけ形は変わるけど、変わったそのままじゃなくて最初の止まった状態に戻るよ」

その大きな白い布は、明音の手をゆっくりと飲み込んでは、彼女の手を引く動作に合わせて空気を吸い込んでいくように形を取り戻す。そして明音の手が離れたら、窓から吹き込む風になびいていた元の状態となって再び止まった。無論、今のところ風は吹いていない。

「変なの」
「変すぎるよ」
「そうそう。モノによってルールが違うっていうか」
「ん? ルール? いや、どういうこと」

時が止まったという意味不明なこの状況まるごと含めて「変」だと明音は言ったのだと思い、悠人は同意したつもりだったが、想定と異なる返答だったことで余計に戸惑う。

後方に回り込んでいた明音に「ねえ」と呼ばれて悠人が振り返ると、バン、という音が鳴って丸い影が目の前へと迫ってきた。咄嗟に両手を出して構えると、その丸い影は手の中にすっぽりと収まり、悠人の視界の大半をふさいだ。
それが先ほど明音が抱えていたバレーボールであったと悠人が気づいたのは、詰まった呼吸を取り戻してからである。

ボールの影から皆既日食のように顔を出して、グーサインを向けてくる明音。

「ナイスキャッチ」
「びっくりしたぁ……」

ともすれば怪我でもしかねない行為ではあるが、悠人が明音への不満を感じることはなかった。キャッチに成功した両手に残る感触から、ごく弱い力でボールを投げたことがわかっていたからだ。床にワンバウンドさせて緩やかな軌道で跳ねたこともあり、顔面に真っ直ぐぶつかるような威力も持っていなかっただろう。ただし、

「急に投げるのはやめてよ」

驚かされたことについては軽く抗議する悠人。

「ごめん」

明音も承知していたようで、すぐに謝意を込めて両手を合わせた。ただし、心から申し訳なさそうな様子というよりも、舌を出して茶目っ気のある表情を見せる。

どこか気まぐれな明音との付き合いの中で、こういう悪戯めいたやり取りはよく行われており、悠人からしてももう慣れたものである。なので悠人もひとこと言った後は彼女の様子に苦笑するだけであった。何より、可愛らしく思えてしまって、他には何を言う気にもならないというのが本音である。

それよりも悠人は、今のキャッチボールによって先程の明音の言葉、「ルール」と言ったその意味を理解するに至っていた。不満が湧かないのは、そちらに気が向いていたからでもあった。

「なるほど……。カーテンは押したら元に戻るのに、ボールは投げることも動かすことも出来るってことか」

ボール自体を眺めてもしょうがないとわかっていつつ、悠人はつい縦に横にとまじまじ観察しては、理解の正体をそこに求めてしまう。

「椅子とか机もね。でも時計は止まってる。自動で動くものは、時間が止まったら動けなくなるってことなのかな」
「ははぁ」

カーテンとボールを例に使って、時間の止まったこの状況における違いを端的に示されては、さすがの悠人も理解が追い付いてくる。
それでも、やっと状況が飲み込めてきた程度の悠人を差し置いて、先へ先へと考察を進めている明音。解決のためには観察も大事、とは言っていたが、やはり順応が早いと悠人は思った。

自分も解決の助けとなるために、否、彼女のペースに追い付きたくてやれることは無いかと企む悠人。すると机から書きかけのルーズリーフが出てきた。

明音は再び窓際に立ち、外を見つめたまま何か考え込んでいた。少し上に顔を向けており、空の方向を眺めている。彼女の隣で、悠人の腕がにゅっと外へと伸びる。

「あ、」

明音が気づくと同時に、悠人の手から放たれた流線形は真っ直ぐに飛んで、わかるかわからないかくらいの緩やかな弧を描きながら伸びていき、その後2人が視認できる範囲の外側へと消えていった。
明音が悠人の方に振り返る。

「ダメじゃん、ゴミ投げ捨てたら」
「紙飛行機だよ。この状況でも普通に飛ぶのかっていう実験。それにしても、今までで一番綺麗に飛んだかも」
「風が吹いていない――ううん、風も時間が止まっているから、横に流されずに真っすぐ進んだんだね」
「なるほどなぁ」

やはり状況の理解、というより分析に頭を働かせるまでのスピードが格段に早い明音。悠人が肩をすくませたことに明音は気付かなかった。

窓の外、校庭で相も変わらずサッカーに熱中している――姿のまま止まっている――サッカー部の面々を改めて目にし、悠人はどこか気が滅入るような感覚になった。深い深いため息が出そうになったところをこっそりと飲み込んで、再度自分の席に腰を掛ける。

「時間が止まっているっていう状況はさすがにわかったけどさ。じゃあこれを解決するにはどうすれば良いかって、正直それは全く分からないままだよな」

気を取り直した悠人は、窓際に佇む明音の背中に問い掛ける。すると明音は振り返って、しばし逡巡する様子を見せた後、口を開いた。

「悠人はこの状況、解決したいって思う?」
「え、どういうこと?」
「時間が止まって、私たち2人以外は止まってしまって……こんな異常な世界、元通りに戻ってほしいと思う?」

時間が止まったこの状態を「異常な世界」と断言しながらも、明音は悠人の意思を問うてくる。

彼女の質問の意図が、悠人にはわからなかった。先程まで周囲の観察と考察に徹していた姿は、確かに状況を解決するための糸口を探しているように見えていたからだ。にもかかわらず、何故改まってこのような質問を投げかけてくるのか。
YESと答えたら? NOと答えたら? その時、明音がどのような反応を見せるのか。それさえもわからなくなる。そう思うと、悠人は明音のその真っ直ぐなまなざしに向けて、どちらの答えを返すことも出来なかった。

「なんでそんな事、わざわざ聞くんだよ。だったら明音はどうなの、」
「私は解決したい。一刻も早く……って時間止まってるからこの言い方は合わないか。とにかくまた時間が動いている状態に戻りたい。だってやっぱりおかしいよ。楽しんでばっかりいられない」

悠人の言葉を遮るように明音は言う。ひと息にまくし立てるその様子はヒステリックなようで、彼女のその声色にも表情にも焦燥の色は見えない。むしろ落ち着いて、頼もしいくらいであった。頼もしいというのは、悠人にとっては初めからそうであるが。

「なら俺に聞くまでもないことでしょ。って言うか、俺だって解決したいし。いつまでもこんな朝早い感じのままの天気じゃ、眩しくて落ち着かないもんな」

自分では答えられなかった一つの結論を明音が出したことで、悠人は安堵してしまう。その内心を察せられないように矢継ぎ早に言葉を並べていることが自分でもわかる。明音はふっと笑って頷いた。

「うん、そうだね。一緒にどうにかしよう」
「もちろん、2人で一緒に」

顔を見合わせて、2人で頷き合う。

先程から悠人は、明音の目を見ることに緊張してしまっていた。それは質問の意図がわからない故の困惑ではなく、目を見続けていると何か見抜かれてしまうのではないかという、不安のようなものだった。それとも、とっくに見抜かれているのか。

「じゃ、作戦会議といきますか」
「へ」

神妙な雰囲気から一転して、切り替えの早い明音の様子に、思わず変な声が出てしまう悠人。明音は意に介さず、悠人の方に向き直して窓枠にもたれかかる。その動作をしばし眺めたのち、悠人は疑問を口にした。

「作戦会議っつっても……何をどうすれば」
「なんで時間止まっちゃったのかわかんないから、まずはそれを突き止めたいな。ループものだったら大抵、ループを抜ける条件みたいなのがあるんだけどなぁ」
「詳しいなぁ」

素直な感想を、つい間髪入れずに口にしてしまう悠人。明音は照れ臭そうに笑うと、ごまかすように言った。

「本とか映画とか、この手のジャンルが好きなんだよね。いやぁ、まさかそれが自分の身に降りかかろうとは」
「やっぱり楽しんでるじゃん」

悠人のツッコミに明音はふふんと笑い、それ以上は何も答えなかった。やはり彼女は楽しんでいるのだと悠人は確信を得た。

そして内心では悠人も、むしろ悠人の方が、よっぽどこの状況を楽しんでいた。
事態が発覚した時こそ困惑で頭がいっぱいになってしまっていたが、奇しくも、明音と気兼ねなく言葉を交わし合えているではないか。冷静になってくると、悠人の中では喜びの方が増していった。

最近の明音はどこか余所余所しく、話をしてもさして盛り上がりもせず、悠人自身もどうしていいかわからず少し距離を取ってしまっていた。

「時間が止まった」という異常事態とは言え、願ってもみない2人だけの共通の話題が奇しくも生まれたわけだ。前みたいに会話ができて嬉しいというのが悠人の本音である。

しかし喜んでばかりはいられないのも事実。

本来こうして明音が1人でいる時間を狙って登校したのは、他でもなく、明音ときちんと話をするためだ。
「災い転じて福となす」ではないが、想定以上に究極の2人きりの空間が出来ているこの状況。どうせ時間が止まっているのだから、多少解決を後回しにしたところで1秒の遅れも発生しない。ならばちょっとくらい都合よく利用させてもらっても良いだろう。

悠人はそう考え、改まって明音に声を掛けた。
急に湧いてきた緊張を押し殺して、なるべく気軽に、何気なく。

「そういえば明音さ……最近、何かあった?」

天原明音の迷い

天原たかはら明音あかねは昨夜から迷っていた。

そのきっかけとなったのは一通のLINEである。
付き合ってもうすぐ半年になる彼氏・悠人から、「俺も同じ時間に登校する」とだけ送られてきた昨夜の連絡。朝早くに登校している明音に合わせて、彼もやってくるという。

文面だけ見れば、ただ行動を報告しているだけの簡素なものだが、明音は一目見た時に彼がどういうつもりであるか理解できた。

付き合って半年とは言うものの、この1ヶ月ほどは距離を取ってしまっていた。自分としてはそれとなく、態度に出ないようにしているつもりだったが、悠人は明らかに違和感を覚えてる様子だったし、明音もまたその様子に気付いてしまっていた。

初めは無意識のことだった。悠人と話していても、いつしか言葉を選ぶようになってしまったし、一緒にいても違うことを考えてしまう事が増えた。
自覚して改善しようと思っても中々直らず、それが申し訳なくなってしまい、余計に悠人と上手くコミュニケーションが取れなくなった。

彼のことが嫌いになったとか一緒にいるのが辛いとか、そういう風に感じている訳ではない。それでも違和感を与えてしまうような振る舞いを自分はしているし、そう思えば思う程、尚更どうして良いかわからなくなった。いや、本当は、わからなくはない。

悠人からのLINEは、その状況に痺れを切らしてのことだろうとすぐに理解できた。

そして何より先に感じたことは、不安だった。

彼が自分に時間を合わせて登校してくれば、それはつまり邪魔のいない2人きりの状況が出来上がることを意味しており、そこで何を話せばいいのか、明音は答えが出せなかった。それでも無碍に突き放すわけにはいかず「わかった」とだけ返信した。

何故こんなことになってしまったんだろうとつい考えてしまうこともあるが、原因は自分にある。わかっていることだが、それでも考えてしまう。

彼と付き合い始めた頃を思い出すと、楽しいことばかり思い浮かぶ。

元を辿れば、悠人から好意を寄せられていることに全く気付いていなかった。自分達のクラスは割と男女関係なく皆仲が良く、悠人と言葉を交わすことも何度もあったが、あくまでクラスの友達の一人くらいの認識だった。

ある時「コアラの絵柄を確認せずに食べる派」だと話したら、クラスメイト達には中々共感されない中で唯一悠人が味方をしてくれたことがあり、その時に彼を「いいヤツ」だと思った。でもそれくらいだった。

だから彼に告白された時、明音は驚きを隠せなかった。本当にもう、すごいびっくりした。

もっと言えば、誰かに好意を持たれるなんてことを今まで想像していなかった。自分が恋愛をするなんて考えてもみなかった。だからこそすごく驚いてしまったのだが、それ以上に嬉しく感じている自分がいて、それにもまた驚いた。

彼の気持ちに応えたいという衝動が湧いて出て、「付き合ってほしい」という悠人の言葉に、迷うよりも先に「はい」と答えていた。
なぜか自分以上に悠人が驚いていたことをよく覚えている。その後はにかみながら笑顔を浮かべる彼のことが愛おしく思えた自分の心の動きを覚えている。

それから明音は悠人の彼女になり、悠人は明音の彼氏となった。

友達の一人だった関係からのステップアップは、やはり最初はぎこちなかった。
いざ2人きりになってみると、照れ臭さのような気まずさのような雰囲気に気を取られて、中々会話が続かない。しまいには「ご趣味は?」なんて聞いてしまう始末で、それはそれで2人して笑いが止まらなくなってしまった良い思い出である。

それでもいつしか打ち解けて、付き合いたてのぎこちなさも笑い話になった。
学校でも気軽に話すようになったし、夜な夜なLINEのやり取りを続けては寝る時間が遅くなった。会話の〆のつもりでスタンプを送って、それにスタンプが返ってきて、なんてし始めたらまた長くなる。

朝早くに登校していることを悠人に話したのもその頃だった。どういう流れで言ったのかは忘れてしまったが、むしろ悠人が滅法朝に弱いという話題になった気がする。朝一発で起きるコツを問われたので、「気合い」と答えたら笑われた。

そして悠人は、早く起きなくてはいけないなら夜のLINEは控えようと申し訳なさそうに提案してくれた。それはそれで寂しさを感じながらも、やっぱり「いいヤツ」だなと嬉しく思った。それでも明音がたまにスタンプをピッと送ると、ペッと返してくれた。

悠人の誕生日はずいぶんと緊張したものである。彼女たるものしっかりと祝わなければと変な使命感に囚われてしまい、必要以上にお金の掛かるプランに行き着いてしまいかけた。気を取り直して、高校生なりにいつもは入らない良いカフェでちょっとしたサプライズを仕掛けることにした。

バレないように誕生日当日ではなく少し前の日曜日に設定したものの、いつもと違う雰囲気だけに悠人にはおそらく勘付かれていて、そして何より自分がおしゃれな雰囲気に圧倒されてしまい、その意味でも緊張が解れなかった。予約していたバースデープレートがいざ運ばれてくると、花火が刺さってパチパチと弾けていて、我ながらいかにも過ぎるサプライズをしていることに明音から先に笑ってしまった。

いかにも過ぎるサプライズに笑い合う2人の光景は、いかにも仲睦まじい幸せなカップルのそれだと、明音は自分でも強く感じていた。自分は悠人の彼女であり、悠人は自分の彼氏。誰が見ても疑わない世界であると明音は思った。

その頃くらいから明音は、「好き」ってなんだろうと考えるようになった。

悠人ともすっかり打ち解けて、教室でもよく2人でいるようになり、クラスメイトにも公認のカップルになっていた。一緒に帰ったり、休日に出掛けたり、2人で過ごす時間もすっかり増えていた。

話題も尽きず、彼と何か話せば必ずひと笑い起こるような時間を過ごしていた。クラスの出来事や昨日観たテレビ、通りにあるハンバーガー屋の新メニュー、使いにくいカメラアプリ、道端に落ちていた変な物、どうしても言えない早口言葉、子どもの頃の勘違い、眠れない夜のこと。

彼氏彼女の関係である以上に、なんでも楽しく話せる関係になれていると明音は感じていた。そして同じように悠人も感じている、と思う。

しかし、映画や小説の好きなジャンルが緻密に作り込まれたSFや多層で不可解なホラーであるとか、哺乳類とはまるで異なる器官を有する鳥や魚の生態に興味がやまないとか、部屋の窓から見える景色をスケッチするのが習慣であるとか、いつか髪型をピンク色の坊主にしたいと思ってるとか、そういった話が出来ずにいた。

明音が心から思っていることや、本当に好きなこと、憧れていることが、悠人との会話の中で話題に出来ない。

誰にも知られたくないこと、という訳じゃない。むしろ理解わかり合える相手と心ゆくまで話してみたい。

だからこそ、理解してもらえなかった時のことを思うと二の足を踏んでしまう。同時に、何が好きかを知っただけで中途半端に理解できたと、人に思われることも嫌だった。悠人がそんな品のない考え方をする人間ではないことは分かっているつもりだが、どうしても開くことのできない最後の扉が明音の中にはずっとあった。

心から好きなものの話を、恋人にすることが出来ない。自分の中にある抵抗そのものが、明音の心に引っ掛かる。

そう思うと、そもそもの疑問が湧いてくる。恋人ってなんだ。私って、悠人の恋人なんだっけ。

悠人の彼女であるとはずっと思っていた。悠人は私の彼氏であるとも思っている。2人の関係をずっと、楽しく、喜びに満ちたものだと感じてきた。

恋人。私、悠人に恋していたんだっけ。悠人のことが好きなんだったっけ。

ポトンと滴が落ちるように明音の胸の内で生まれた疑問は、いくら頭で考えても消えることはなかった。

SFもホラーも生き物も好きだ。じゃあ、悠人のことは? 一緒にいて楽しい。彼と話すのが楽しい。笑ってくれる顔がもっと見たいと思う。

でも好きなのかと考えると、喉の奥が詰まる。元来、理屈っぽい性分でもあるので、明確に確信できない限りは、適当に答えを出すことも出来なかった。

その疑問がいつしか明音を支配してしまっていた。そして、態度として表に出てしまっていたのだと思う。悠人にもそれが伝わってしまったのだろう。会話をするにしても、私はこれが本当に言いたいことなんだっけ。楽しい、嬉しいことの、一番がこれなんだっけ。なんで私は今、悠人と話しているんだっけ。

自分でも上手くコントロールできない変な態度が、相手に伝わってしまっている。そのことを自覚してしまうと、これまた余計に変な感じになってしまう。それが尚更相手に違和感を与えてしまう。その繰り返し。

何より、自分に好意を寄せてくれている悠人に対して失礼だと思った。どうにかしたいと思うばかりで焦りだけ膨らみ、何をするにも彼を避けるように動いてしまう。

どう説明していいかわからないので、仲の良い友達に相談することもできず、むしろ様子の変化を悟られて気まずい。何事もないように振る舞っても、それがまた空元気だと悟られて心配されてしまう。心から思いやってくれる良い友達を持ったな、とだけは強く感じられるのが救いだ。

こういう時は他の全ても調子が悪くなるというのが明音の常で、ある朝、ずっと愛用していた腕時計を踏んづけて壊してしまった。眼鏡なり脆いものならまだしも、腕時計を壊すとは。って言うかなんで腕時計が床に転がっているんだ。

スマホがあるので時間の確認に困ることは無いにしても、小学3年生の頃に最初の一つを親からプレゼントされて以来、お風呂に入って眠って朝を迎えるまでの間以外は、明音の右手首には常に腕時計を巻かれていた。無いまま出掛けようとするとバランスを崩して転びそうになってしまうくらい、彼女にとってはそこになくてはならないものだった。
それを踏んづけて壊してしまう辺り、昨今の明音の迷いがいかに大きいかが現れている。

まあ、何度か替えている中でもこいつは一番長く使っていたものであり、随分くたびれていたのも事実なので、新調するにはちょうどいい機会でもあった。次の休み、すぐに買いに行った。悠人からそれとなくデートの誘いがあったのを断ってしまったが、それは一人でこだわって選びたかったから……だけが理由ではない。

私も言ってももう高校生だし、今までよりも少し背伸びしてもいいのでは、なんて独り言ちながらも選んだ新しい腕時計は、予想をはるかに上回る素晴らしい出会いとなった。

マットな薄目のグレーは大人びた落ち着きがありつつ可愛らしい。装飾はほとんど無いながら文字盤は敢えて大きさを崩していて遊びがある。何より軽く、デザインに無駄がないので時刻がひと目見てわかりやすい。そして価格もお手頃。自分が気に入るものを程よい金額で、というのはこれからも明音の中で揺らぐことのない価値観だ。

こりゃ良い買い物をした、と自室で眺めているさなかに、ふと気が付いたことがある。そう言えばもうすぐ私の誕生日だ。

自分への少し早い誕生日プレゼントにはぴったりの代物であるが、一方、悠人のことが気になった。

彼の誕生日、明音があげたプレゼントは腕時計であった。普段から腕時計を着けていない悠人だったが、試しに使ってごらんよ、とあげたものである。思えばそれは、唯一明音が自分の心から好きなものを彼に提示した瞬間でもあった。

その時、自分の使っている腕時計の話もした。今着けているのはもう何年も前に買ったものだから調子が悪い、とも言った。
もしかしたら、悠人は誕生日プレゼントとして新しい腕時計を用意しているのではないか。明音はそう思い至った。

もし本当に悠人が腕時計をプレゼントしてきた時、どんな顔をすればいいだろう。「もう持ってる」なんて自分は言ってしまわないだろうか。喜びのリアクションをしたとしても、それは嘘でしかないんじゃないんか。

そんなことを考えていたところに悠人からのLINEが届いた。彼が何を思って自分と2人の時間を作ろうとしているのか、すぐにわかった。

そしてその時、何を話せばいいのか。明音にはわからなかった。それが明音の迷いであり、不安の正体だった。布団に入ってもすぐには眠りに就けず、朝の登校中も足が重い。

という戸惑いを抱えている中、時間が止まるという超常現象を自分が体験しようとは、明音としては不安どころではないというものである。

こんなことって本当にあるの?

え、こんなことって本当にあんの!?

7時12分・結

「そういえば明音さ……最近、何かあった?」

恐る恐る、悠人が切り出した。

窓枠に寄りかかっていた明音の顔は悠人から見て少し逆光で、少し逡巡した表情の変化を悠人は気付かなかった。明音はうつむき顔を上げ、ひと息置いてから答える。

「何もないよ」
「うそだ」
「うそじゃないよ」
「……そっか」
「いや、引き下がるんかい」

明音が思わずといった調子で噴き出す。悠人は強く圧す勇気が出せない自分を情けなく思ったが、笑ってくれるならそれも良いか、と自嘲気味に笑みをこぼした。

2人揃って笑い合っている場面には変わりないが、前とはずいぶんと違う雰囲気になってしまった。言葉にこそ出さないが、自分でそう感じずにいられないし、きっと相手もそうなんだろう。悠人も明音も、同じように考えていた。

言葉が止まる。互いに相手の出方を窺うような態度を悟られないように取り繕い、するとまた何を言っていいか迷ってしまう。

時間が止まったこの状況を解き明かすことに夢中だった先程までとは一変し、どこかずしんとしたムードが漂っている。発端となったのは悠人の言葉であるが、そのことに後悔はしていなかった。だって他にチャンスなんてなかったから。
明音もまた、自分がもっと上手にごまかしていればすぐに違う話題に出来ていたかもしれないと思いながらも、でもそれでは意味がないとも思った。彼が一歩踏み込んでくれたんだから。

「なんか――最近ちゃんと話せてなかったから」

悠人が口火を切る。

「だから実は、こんな状況だけど嬉しかった」
「嬉しかったって?」明音は彼の答えを予想しながら、何気ない風の顔をして問う。
「普通に、前までみたいな感じで話せたから。あぁいや、最初はテンパってちゃってたけどさ、俺は」
「時間が止まってるんだもん、無理ないよ」
「明音が落ち着きすぎてたとも言える」
「落ち着いては無かったけどね」
「確かに。完全にテンション上がってた」

悠人の軽口に明音が笑い、それに釣られて悠人も笑う。今度こそ仲の良い2人が笑い合う、爽やかな光景になっていると互いに感じていた。

異常事態ながらも、いや、だからこそ、内心に抱えるものなく自然に話せていたのは確かだったし、2人とも以前のような居心地の良さを楽しんでいた。

「だから、それはそれで良かったんだけどさ」

上がった口角を引き締めて、悠人は続ける。

「やっぱ、ちゃんと明音と話したいと思って。最近の……変な感じというか、その、雰囲気というか」

実にキレの悪い言いぶり。悠人自身、もう少しスパッと言えないものかと自省しつつ、口から出てしまったものはしょうがない。元来こういう性分なのだ、と半ば開き直って平静を装う。

明音は悠人のその様子にはどうやら気づかず、膨らんだ形のまま静止しているカーテンをしばし弄んでから答える。

「うん、そうだね。私も私の変な感じはわかってた。だからさっきの何もないっていうのはうそ。ごめんね」
「いいよ」
「ありがと」

悠人の「いいよ」という即答が気持ち良い。明音は彼のこういうところが、人として凄く魅力的だと思っている。しかし、それでも。

「私さ、すっごい楽しそうだったでしょ、さっき」

ここまでの流れからすれば唐突にも思える話し出しに、悠人は内心戸惑いつつ、明音の次の言葉を聞こうと素直に応える。

「そうだった。テンション上がってるってさっきは言ったけど、それよりむしろ興味津々って感じだったかな」
「でしょ。私ああなっちゃうんだよね、好きなモノの話になると。意外だった?」
「……うん、見たことなかった」
「ああいう感じ、悠人の前では見せたことなかったと思う」

明音のその言い方に一抹の寂しさを感じる悠人。でも、じゃあ何故、自分の前で彼女はその顔を見せたことが無かったのかと考えてしまうと、ほのかに呼吸が浅くなる。

「悠人に知られたくなかった訳じゃないよ。隠してたつもりはない。でも、なんでだろうね。今までしなかったよね、好きなモノの話」

明音がSF好きであると、知らなかった。周りの友人からも聞いたことがなかったので、悠人だけを相手にして伏せていたということではないと言う彼女の言葉を疑う気もないが、だから安心できたかというと、そうではない。今までたまたまそのタイミングが訪れなかっただけ、ということではないと、明音の醸し出す雰囲気から悠人は察していた。

「だったら、これから色々教えてよ。今までしなかったなら、これからすれば」

悠人は薄く笑顔を浮かべて、務めて明るく言う。しかし、机に手を付いたまま顔を上げていない自分に気付いた。明音が今どんな表情をしているのかは、確かめられない。無意識に腕時計の文字盤に目を落とす。律儀にも、針は7時12分から微動だにしていない。

「悠人の好きなモノは?」

明音がおもむろにそう言い、悠人は待ち構えていたところとは違う質問が飛んできたことに、一瞬理解が遅れてしまう。

「え、お、俺の?」
「そう。私も聞いたことなかったなって」

そう問われると、確かに。
それはもちろん明音のことが……とでも言おうかとも思ったが、いくらなんでもこのにふさわしい返答ではないことは悠人にも分かった。悠人も何が好きで熱中していて、ということを明音と話したことは無い気がする。そして、何故話すことがなかったのかと、ふと思う。

「そうだな、なんだろう……音楽とか。親の影響でさ、好きなんだ。ちょっと古い音楽が。って言っても、ビートルズとか有名なのばっかりだけど」

つい慎重になって言葉を選んでしまう。知らないとか、興味ないとか、そう言われるかもしれないという不安が胸中に浮かんだ。明音がそんな突き放すような事を言う人間でないことは悠人にも分かっていたが、それでも出処不明の抵抗が立ちはだかった。

「初めて知った」
「初めて言ったよ」
「だよね」

逆に、今までは何を話していただろうかと悠人は思い返した。クラスの出来事とか昨日観たテレビのこととか、話題になっている配信マンガ、耳に残るCMのキャッチフレーズ、気まずい美容院の乗り切り方、今まで行った場所で一番遠いところ。

じゃあ、何を話していないだろうか? ビートルズやローリングストーンズ、クリーム、劇団四季や宝塚、変形合体するロボット玩具、文房具を分解する癖、炒飯を極めようとしていること、5回の家出経験。

明音はぴょいと跳ねて窓際から離れると、教室の中を当てもなくうろつく。悠人の次の言葉を待っているのか、あるいは自分の言葉を探しているのか。明音自身もしばし考えたのち、悠人の背中に向かって言う。

「好きなものの話ってさ、難しいよね。好きって何だろうね」
「これから話すよ。もっと。色んなことを」

反射的に悠人がそう発し、明音は少し驚いてぴたっと足を止める。悠人もまた自分で驚きつつも、彼女の言葉を遮りたい気持ちが口をついて出たのだと理解した。
明音もまた、そんな悠人が何を思ったのかすぐに勘付いていた。

「……うん、それも良いね」

意味深に「も」と付けたその言い方に、悠人はより焦りを募らせ、明音も少し後悔した。奥歯に物が挟まったような事を言っても、相手を無用に翻弄させるだけだとわかっているというのに。

ガタ、と音を立てて椅子から悠人が立ち上がり、彼は「わかった」と呟いた。
悠人の背後にいる明音から顔は見えない。彼も振り返ることなく、何を言おうというのか――

「よしっ、一回話を戻そう。どうしようか、この状況。時間止まったままだよ結局」
「えっ」
「明音も戻りたいって言ってたし」
「言ったけどさ」
「じゃあ解決しないと」

まさかの方向転換に戸惑いを隠せない明音。当の悠人は肩をぐるぐるを回しながら立ち歩いて気合を入れており、それが空元気でもあると見て取れる。ただまあ、この状況を放置している場合じゃないことは事実。

「それはそうだけど、この流れで?」
「だって実は、元に戻す手掛かりは何もない状態だよ」
「でもさ、今の流れで切るのはちょっと……さすがに中途半端って言うか」

当てもないジェスチャーで手をくうにくゆらせながら、明音が慎重に言う。即座に、はっきりとものを言わない自分にも比があると思った。
一方の悠人は悠人で、明音から見える横顔はバツが悪そうな表情だった。

「……ごめん。正直、わかった上で言ってる」
「うん、わかった上で言ってるってこともわかる」
「何て言うか、望ましくない方向に話が進みそうだったから」

なまじ一度ごまかしにかかったこともあってか、悠人は正直な言葉を口にする。明音が下手に確信を突いてくる前に、話をうやむやにしたかった。でもそれもあまり意味のないこととわかっている。そこまで含めて、なんだか恥ずかしくなってはにかむ。

「それもわかるけど」

呆れるように明音は笑う。しかし心から蔑んでいるのではなく、悠人らしいと思ってつい笑みがこぼれてしまった。

2人の間に穏やかな雰囲気が漂う。先ほどの悠人は中々に無茶なハンドルの切り方をしたと明音も悠人も思ったが、良い切り替えになったのかもしれない。風さえも止まっている今、勝手に空気が入れ替わることもないのだ。

「じゃあ話が止まったついでに……俺が止めたんだけど、ちょうど良いタイミングな気がするから」

思い付いたとばかりに悠人は、置いていた自分のスクールバッグを取り出し、中をあさり始めた。そして手をバッグから引き抜くと同時に言う。

「少し早いけど、誕生日プレゼント」

何を持っているか見留める前に、明音の頭に腕時計のことがよぎる。
悠人の手首には、明音があげた腕時計が巻かれていた。時間を確認しようと何度か目をやる様子にも――残念ながら時間は止まっているが――気付いていた。

悠人はバッグから取り出した《《それ》》を差し出す動作と共に振り返る。その動きがやけにスローに見えたのは、明音の緊張のせいか。

彼は四角い箱を手にしていた。細長い形状のその中身は、やはり腕時計……にしては全体的に大きい。

「これ何?」
「……バスボム」
「バスボム」

有名なブランドの店舗まで一人で行ってラッピングもしてもらった、慣れない場所なので結構緊張した――という悠人の説明を聞いていられなくなるくらい、明音は笑いが止まらなくなった。女子へのプレゼントとして、その〝いかにも〟なチョイス。自分があまりにも杞憂すぎることを考えていたことも笑いの一因だ。

「ちょっと、ははっ、そんなに笑わないでよ」
「ゴメン、ちょっと、予想外過ぎて」

悠人自身照れもあって、笑いが釣られる。ひとしきり笑い、明音の息が整ってきたところでやっと落ち着きを取り戻した。

「はー。ありがと、大事に使う」

明音は目じりを拭いながら悠人からバスボムを受け取る。実用的で消え物でそれなりにオシャレという、ちゃんと調べて用意したことが想像できるアイテムであり、そこからまた悠人の人柄が窺える。おかしなものを渡さないように考えたんだなぁと思うと、これまた笑いが込み上げそうになる。そうなる前に、自分の鞄に大事にしまった。

「ちょっと変な言い方になるかもしれないけど、最後まで聞いてね」

明音が鞄のチャックを閉め、机の横に掛け直しながら、穏やかに発した。

「私は、悠人のことが好きではないんだ」

どきり、と悠人の心臓が跳ねた。座るタイミングを逃してしまい、立ったまま明音の言葉を聞く。

「嫌いとか、一緒にいるのが辛いって事じゃないよ。楽しいし面白いことも沢山ある。でも、じゃあ、それが好きってことなのかなってずっと考えてる」

悠人は何も言わない。明音も彼の反応を待たず、そのまま続ける。

「私はね、SF小説が好き。SF映画が好き。設定とか世界観についてじっくり考えるのが好き。生き物、絵を描くこと、アニメと、アニメみたいな髪型、ふりかけをそのまま摘まんで食べるのとか、開けたてのティッシュの匂いを嗅ぐことも好き」

明音は指を折りながら、一つ一つ慈しむように口にしていく。

「悠人に告白された時、私、すごく嬉しかったんだ。だから二つ返事でOKしちゃった。私も告白されて驚いたけど、悠人の方が驚いて変な顔してた」

話題の変化を唐突だとは悠人は思わない。記憶を懐かしみながら、明音は顔をほころばせる。悠人も彼女に合わせて笑みを浮かべるが、少々ぎこちない。

「嬉しいからその気持ちに応えたかったってところもある。悠人といる時間は楽しかいよ。でも、なんか……好きだから付き合ってるんじゃなくて、『悠人の彼女』に一生懸命なろうとしてるだけ、なんじゃないかって思った。」

言わんとしていることを悠人はおおよそ理解していた。それでも彼女自身が紡ぐ言葉をじっと待った。

「ごまかしているように思えてきたんだ。自分の本当に好きなものの話は出来ないくせに、それだけ取り繕おうとしているみたいに。……この言い分も勝手だってわかってる。でもやっぱり、悠人に対しても失礼だし、何より自分で納得できなくなった」

耳が痛い、と悠人は思う。彼女の思うところは理解できるし、悠人にも覚えがある。自分が不安にならないように、「明音の彼氏」であることが揺れ動かないように静かに維持だけを続けていた。
その結果がまさに、今訪れている。

「だから、ごめん。本ッ当に勝手でごめん」

明音が悠人の方に向き直したのがわかる。まだ顔は見られないが、悠人のことを真っ直ぐに見据えていることがわかる。次に何を言おうとしているかもわかっている。
だから悠人が顔を上げるまで、相当な時間が掛かった。
ようやく、明音と悠人の目が合う。

「私は『悠人の彼女』をやめようと思う」

彼女らしい風変わりな言い方で、それは悠人に突き付けられた。自分が告白した時は、どうしようもなくテンプレートな文言を明音に告げていたことを頭の片隅で思い出した。

明音はその一言の後、ただ黙った。悠人の返答をじっと待っている。悠人もそれはわかってる。答えるべき言葉も、言うべきではない言葉もわかってる。全部わかってる。でもこの沈黙は、最後の抵抗として悠人に必要なものだった。止まった時間の中での長い沈黙というのも、随分と皮肉だ。

悠人は今日、この結末になることを予想していた。違う結末も予想していた。思い浮かべた無数の未来から一つを、せめて自らの意思で迎えるのだ。

「…………わかった。今まで甘えてばかりでごめん。俺も、 『明音の彼氏』をやめる」

最後の言葉は、渇いた喉の奥から必死に絞り出した。まともに聞き取れる声になっていなかったかもしれない。それでも悠人は言ったのだ。

明音も、ぼそ、と何か呟いて、ゆっくり頷いた。

間を空けて、どちらともなく大きく息を吸い込む音を鳴らし、そして思いっ切り吐いた。その動作は完璧に重なっており、その見事にシンクロ具合に、またしても同時に力の向けた笑いが漏れた。

相当な緊張を2人ともしていたのだろう。共に近くの椅子に倒れるように座り込み、ぐったりと脱力した。悠人と明音の間に流れる沈黙は、先程までの迷いの現れではない、マラソンを走り切った後のような「何も言えねぇ」な状態である。

ふと悠人が零す。

「……『何も言えねぇ』って陸上だっけ」
「水泳だよ」

明音が即座に返す。

それだけで、他に言葉を交わすことはない。

2人とも気付いていた。しかしなぜか妙なほどの納得感があり、もはや敢えて口に出して触れることは無かった。
なにせ原因からしてよくわからないのだ。

サッカー部の駆け回る音や、鳥の鳴き声が外から聞こえてきていることも、膨らんでいたカーテンがしぼんで窓の脇に戻っていったことも、どこからともなく街行く人の気配がすることも、時計の針が動いていることも、今の2人にとってはあまりにも自然なことだった。

突然、ガラ! と教室の扉が開かれたことには2人とも驚いて、そちらの方に顔を上げる。すると、クラスメイト・日南ひなみ朋佳ともかが、顔色を窺うように明音と悠人の顔を交互に見ていた。スカートの揺れと息切れが、彼女が急いでやって来たことを示している。

悠人には知る由もないが、明音が昨夜のうちに朋佳に今日のことを相談しており、心配した彼女はこっそり様子を見ようと時間を合わせて登校してきたのだった。それにしては、騒々しい現れ方であったが。

朋佳は戸惑いつつ、口を開く。

「えーと……その、終わった?」

明音が頷く。

「うん、別れた」

それを聞いた朋佳は声にならない声をあげ、明音に飛びついた。2人の声しか存在しなかった先程までの時間が嘘のように、教室は彼女1人の存在だけであっという間に騒がしい空間となった。
意外にも、悠人にとってもそれが心地よく感じられた。

こうして悠人と明音は、7時13分を迎えた。

少し経てば、他のクラスメイト達も続々とやってくることだろう。

これから先、2人が言葉を交わす機会は減るのかもしれない。案外、増えるかもしれない。どうなるかはわからない。

明音達の時間は、また動き出した。そして、悠人達の時間は、もう止まらない。

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明日飲むコーヒーを少し良いやつにしたい。良かったら↓。