見出し画像

東浩紀「哲学の誤配」を読む(day2)

第2の対話 哲学の責務

タイトルにもあるように「誤配」がこの本の重要なポイントになっている。しかし「誤配」とはなんだろうか?本の中から「誤配」について言及されているポイントをピックアップしてみたい。
(Kindleで読んでいるためページ数ではなく%での表記とします。)

人間のやることは、つねに予想外の効果を引き起こします。それに対してぼくたちは責任を取ろうとしなければいけないが、しかしその効果もまた常に予想外のものだから、すべての責任を取ることはできない。そんな限界を表現しているのが「誤配」という言葉です。それはある種の無責任さ、軽薄さ、不真面目さの積極的な捉えなおしでもあります。(40%)

ここで「積極的な捉えなおし」とあるように、著者は「誤配」をポジティブなものとして捉えており、発生を促すべきものとしている。さらに踏み込めば人間が"人間らしく"あるためには「誤配」によって常に物事を適度な距離を保つことが必要だと考えていると思われる。そして、「誤配」を発生させるための「観光」の可能性についても述べている。

恐らく、この背後にはインターネットへの失望がある。day1で記載したように、その当時の著者はインターネット、主にSNSに対して「誤配」を発生させる装置としての希望を見出していたのではないか。しかし、"フィルターバブル"という言葉もあるように、SNSは自分の意見を相対化させるどころか、実際には自分と同意見の主張ばかり集めることに寄与してしまっている。やはりSNSでなく、自分の身体を伴う経験が必要なのではないか、その一つの可能性が「観光」なのではないか、というのが著者の主張だと理解をしている。

この著書を読んでいて考えたことが二つある。

一つは例えば「ポケモンGo」のような、人の身体性を前提としたインターネットサービスは「誤配」を発生させるものとして不十分だろうか?ということ。「ポケモンGo」はモンスターを捕まえるために、世の中の人を町中に散らばらせ、これまで行ったことがない場所に連れて行ったのではないか。

そしてもう一つは、著者が「誤配」で実現しようとしているのは「子供の目」なのではないかということ。普段子供と接していると、既存の枠組みに囚われていない発想に驚くことがある。子供たちは「誤配」という仕組みがなくとも、「実際に」その物事に初めて向き合って考えている。(一方で「お菓子が欲しい!」「遊びたい!」と動物的な欲望に忠実な存在ではあるが。)そして、私は子供といることで物事を相対的に捉えることができ、今までとは違った目線で世の中を見ることができている。

著作の中での主張を正確に理解仕切れていない部分はあるかもしれないが、一方でこの著者は自分の主張が100%正確に理解されないことも自覚している。(それも「誤配」であると考えているだろう。)あくまで、現時点での私の感想文としてこの記録を残しておきたい。

この記事が参加している募集

#読書感想文

190,263件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?