見出し画像

【書評】アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した

アマゾンに対して批判的な本がアマゾンで売られているのが興味深く、まとめ買いで積んでおいたのですが、最近読んだ本のなかでは断トツに面白いものでした。


この本は簡単にいえば、著者が劣悪な労働環境の労働者として潜入し、そこでのリポートを一冊の書籍にしたものです。
悲惨な状況下における労働者の描写が秀逸であり、ここが本書の素晴らしいポイントでした。

しかしその状況への考察に関しては、著者が最初に目的でないと宣言されてしまっており、一方では暗に雇用主-非雇用者論に落とし込み単純化して批判しているところが残念に感じました。左派を自認する著者としては落とし込まざるを得なかったというのが正直なところと思われ、ある種の限界なのかもしれませんが。

また本書の紹介文では下記のように、このような状況をマルクスやオーウェルの予言した社会と表現しています。

アマゾンの倉庫、訪問介護、コールセンター、ウーバーのタクシー、ワンクリックに翻弄される無力な労働者たちの現場は、マルクスやオーウェルが予言した資本主義、管理社会の極地だ

ただこの状況を最も正確に予言したのはマルクスでもオーウェルでもなくケインズでしょう。

総じてレポートとしては良書であることは間違いなく、イギリスにおける階級固定社会の絶望感を味わうだけでも十分に価値があり、おすすめの一冊です。

以下は感想と考察です。


ケインズの予言


経済学者のケインズは、生産性が著しく向上し得た時代においては人は1日3時間も働けば十分な時代がくると予言しました。ポイントとしては理論上は働かなくても十分な生産が賄えるということであり、" 人間が働かない時代がくる " わけではない点です。

ケインズの主張をざっくりとまとめるの以下の通りになります。

  • 人間が労働力の基本単位であるような生産性がない時代においては、労働者全員が生産して、それに対する対価が労働者全員に配分される(することができる)

  • しかし産業革命に代表されるような生産性が向上した場合においては、一部の労働者の労働によって必需品の生産が賄えてしまうため、生産にも消費にも参加できない労働者が出現する

  • 結果として、商品が余る一方で商品を買えない労働者が溢れることになる(需要供給・雇用のミスマッチ状態)

  • 解決のためには無理にでも労働者全員に仕事を配分するしかなく、極論をいえば生活必需品を生産する以外は無意味な穴掘り仕事であってもよい

この穴掘り仕事こそがデヴィッド・グレーバーのいう「ブルシットジョブ」であり、現代に意味のない仕事が蔓延する理由でもあります。


ブルシットジョブの蔓延


ブルシットジョブとはケインズのいう穴掘り仕事であり、程度に差はあれどそこに本質的な意味はなく、仕事を通して得られる貴重な価値である " やりがい " というものを得ることはできません。

やりがいというのは労働を通して得られる特殊な価値であり、例えばアドラー心理学では、 そのことを ” 共同体=他者への貢献感 ” と表現しています。しかし生産性の向上した現代において、そのような人類への貢献度が高い仕事は稀なものとなってしましました。

生産性の向上した時代において、意味のある仕事だけでは国民全員に十分な仕事を配分できず、生産に携われない労働者が溢れてしまいます。山口周さんのニュータイプの時代では「だったら課題を創造するニュータイプになればいい」という一つの解を提示していますが、創造性は再現性をもって育成することが難しい分野であり、結局のところそのようなニュータイプも同様に稀有といえます。 

では価値ある仕事に就く能力も、創造する能力もない人は飢え死にするしかないとすれば、国は国民の信任を得ることができず運営できなくなってしまいます。その解決策として用いられている画期的概念こそが「時間を金に交換する」というものです。
産業革命と時計の普及によって、人類史上はじめて共通言語としての普遍性を持った" 時間 "という概念は、普遍性ゆえに金銭に交換できるようになり、結果として能力がない人であっても自らの時間を商品として売ることが可能になりました(時計のない時代においては時間は統一尺度でないために売り物にできませんでした)。この時間を売ってしまった労働者の悲哀こそがブルシットジョブの本質であり、ただそうであっても飢え死にせずに済んだという観点からは、原理的には感謝されるべきものであるはずです。

では私たちは仕事があるだけ感謝し、幸福に生きられるかと言ったらそうではないでしょう。
下記抜粋文では、その雇用のミスマッチを端的に伝えています。

数年前、テレビで活躍する億万長者のカリスマ料理人ジェイミー・オリバーは、週80時間の単純労働をしようとしない若いイギリス人労働者を批判した。死に物狂いで働く東欧人たちとは異なり、イギリスの若者は「世間知らず」だとオリバーは断じた。しかし、エブーベールで出会った若い労働者のいったとおりだった 
「大学で勉強して学位まで取って、ほんとうにコールセンターで働きたいと思いますか?」。
多くの人は、働きたいと思わないはずだ。黙々と一生懸命働くことが大切だとぶつぶつ言いつづける有名人やコメンテーターたちも、自分のこどもにコールセンターの無益な仕事をさせようとはしないし、ケントの水浸しの畑の土から野菜を引き抜く作業員として子どもを送り出そうとはしない。

つまり「自分には時間以外に売る能力がある」と自負し、そこをアイデンティティとしている人にとってはより一層、時間以外は売り物にならないという事実を突きつけられる状況に耐えられないのです。

悲惨な状況と不愉快な結論


この本では、虐げられた労働者の悲惨な状況を列挙してくれますが、下記のとおり解決策を提示してはくれません。

私としては、この実験を長い声明文や理屈っぽい政策の提案で締めくくるつもりはない。何をしなければいけないのか支持したり、なぜいま行動しなければいけないのか感傷的に訴えたりする気など毛頭ない。はじめの段階から、この本を書く目的はその解決策を示すことではなかった。私が目指したのは、特定の問題に注目を集め、それに対する共通の認識を変えることだった。
  (中略)
私がとくに描きたかったのは、ふたつの世界の差についてだった。一方にあるのは、中流階級のイギリス人たちが優雅に暮らす世界。他方には、「低い賃金」が「非人道的な家主」「イヤな上司」「圧倒的な絶望感」と同じ意味を持つ暗く不安定な世界があった。

実際に作中では労働者の悲惨な状況をリアリティをもって表現しているにもかかわらず、問題の本質を " 資本主義に則って傲慢な雇用主側に被雇用者が虐げられている " という不平等の構図に婉曲的に落とし込んでいます。しかしこの視点は必ずしも真ではないでしょう。

そもそも雇用主と被雇用者は同じ社名のもと働いているという共通点以外は全く別のプレイヤーです。被雇用者であっても、技術職、開発、営業、事務では全く異なるロジックで仕事が形成され、それに応じた報酬が支払われます。例えばサッカー選手が売店店員、監督、オーナーと比較して給料や働き方の不平等性を訴えたとしたら的外れに感じるでしょう。これは簡単にいえば同一の構図に収まっていたとしてもレイヤーが異なる存在だからです。比較すべきは同一レイヤー(サッカー選手であれば選手同士)であり、むしろ他社同業のほうが近い比較対象になります。

特に雇用主と被雇用者の構図は、糾弾する際には単純明快な視点であるためよく用いられますが、それに対する雇用主側の対応は労働者の待遇を改善するでは決してなく、不平不満を言わず倫理的にも問題のない労働力での代替、究極的には無人化を目指す方向性へのインセンティブが強くなるだけです。

左派である著者のスタンスとして、被雇用者の立場から雇用主 - 被雇用者の構図に落とし込まざるを得ないのは仕方のないことでもありますが、なにより解決策を提示できないのは、現在の状況は「時間を買い取ってくれる=雇用を提供してくれる」という " まだましな状況 " であるからです。すなわち " しない " のではなく " できない " のです。
確かに著者が主張するように労働者が団結して権利を勝ち取ろうとする動きは、規制がなくなれば基本的には労働者の奴隷化が進むため、一定の意味を持ちます。ただ労働者の権利保護も行き過ぎれば、個人レベルでは「簡単に首が切れないために人材の流動性が極端に低く、失敗からの逆転が不能」であり、社会レベルでは「生産性の低い人材を雇用し続けるコストによって高い人材に十分な報酬を与えられず、全体的なレベルが沈下し総生産・資産が低下する」という、つまり日本のような状況とどちらがましかという「どっちもどっち」なトレードオフでしかないという結論になります。

では現在そのような悲惨な状況下で働いている場合はどうすべきなのか、という問いへの回答も絶望的であり、 その人の価値の総量をやりがと給料とでどう配分するか、すなわち価値のある仕事をなけなしの給料でやるか、もしくは価値のない穴掘り仕事をそれなりの給料でやるかのどちらかしかありません。

たとえば価値のある仕事は人が殺到するため、搾取的構造になりやすく、概して金銭的報酬は少なくなります(時にはむしろ金銭を要求される場合すらあります)。医療現場でよくある愚痴として、" こんなに難しい専門的な仕事をしているにも関わらず、なぜ誰でもできるような仕事(例えば健康診断のアルバイトなど)よりも給料が低いのか " というものがありますが、医療においては得てして急性期で難易度や専門性の高い仕事ほど、" やりがい " のある仕事だからです。ドラマで出てくるのはどれも急性期治療を担うスーパードクターたちであり、検診医や慢性期病院の医師が主人公では社会ドラマになってしまいます。 

階級固定による逆転不能社会


本書に漂う絶望感の本質は、悲惨な仕事現場ではなく、生まれによって仕事を選ぶ余地のない、ほぼ逆転不能なまでに固定化された階級社会に漂う空気であり、ここまでの絶望感はまだ日本においてはまだないものでしょう。これは御田寺圭さんの矛盾社会序説のなかで " 橋下徹はなぜトランプになれなかったのか " という論点で鋭く考察されています。

日本はアメリカと比較すると社会的階級の上昇に寛容な社会である。
(中略)
この「階層の移動のしやすさ」こそが、橋下徹がドナルド・トランプになれなかった最大の原因である。エリートに対する断絶意識は、アメリカほど根深くなく、階級闘争・政治闘争的な現実認識は、アメリカほど起きえない。橋下氏が見誤った点はそこだったのかもしれない。

御田寺圭 矛盾社会序説

日本においてはどのような生まれであっても、それこそ橋下徹さんのように、再現性の担保された「学歴」や「資格」という武器によって階層移動の可能性が残されています(当然ながら環境によって難易度に差はありますが)。学歴社会は利点だけでなく弊害もあり、よく批判の対象となりますが、学歴社会というのはむしろが逆転の余地があるという点においては救いのあるシステムであり、日本が社会的階級の上昇に寛容である理由ともいえます。
よく試験点数以外の要素による学歴獲得システムが世間の攻撃の対象になるのは、この逆転の目をつぶすアクションに対する拒否反応ともいえるでしょう。

逆転不能な世界で歌わされる人


結局のところ、この本はケインズの予言が具現化した世界を描いたノンフィクション作品といえます。このような悲惨な状況に対して「だったら生活保護がある」という人もいるかもしれませんが、仕事とは人間の尊厳に関わるものであり、ケインズの予言通りなにもしない状態に耐えられる " 歌える人 " というのは稀有な存在です(飲茶さんの14歳からの哲学入門では、この稀有な存在はまさにニートであるという面白い考察をしていました)。
なぜ何もしない状態に耐えられる人が稀有なのか、私が思う最大の理由は、歌わなくてもよい人(やりがいを得られる人)がいるなかで、自分だけが歌わなくてはいけないという状況に耐えられないからです。

橘玲さんの本では、なぜ人は差別に強い怒りを感じるのか、自分が損をすることで格差を是正できるならば損をしてもよいという非合理的行動をとってしまうのか、という疑問に対してチンパンジーや子どもの例を取り上げています。

真ん中をガラス窓で仕切った部屋に2頭のチンパンジーを入れ、それぞれにエサを与えます。このとき両者にキュウリを与えると、どちらも喜んで食べます。ところがそのうち一頭のエサをリンゴに変えると、これまでおいしそうにキュウリを食べていたもう一頭は、いきなり手にしていたキュウリを投げつけて怒り出します。
自分のエサを取り上げられたわけではないのですから、本来ならここで怒り出すのはヘンです。ところがチンパンジーは、ガラスの向こうの相手が自分よりも優遇されていることが許せないのです。

橘玲 バカが多いのには理由がある

子どもたちが、今後知り合う予定のない子どもとオモチャの引換券を分配する実験では、「どちらも1枚ずつ引換券をもらえる」と「自分が2枚で相手が3枚もらえる」を選択できた。当然のことながら、引換券1枚よりも2枚の方が有利だ。ところが多くの子どもが、引換券を1枚しかもらえない1対1の分配を選んだ。

橘玲 バカと無知

幸福だった国ブータンの例にもれず、幸せとはどうしても相対的な要素を排除できないために、人は他人と比べて幸・不幸を定義してしまいます。

こうして天職としての仕事を行う人がいるなかで、" 奴隷労働者 " か " 歌う人 " かを環境から強制的に選ばされ、そして将来的にも逆転が不能になった人は社会に恨みを募らせ、その恨みが攻撃性として昇華した忌み子こそが " ジョーカー " といえます。ジョーカーとは富裕層からの富を再分配するような義賊ではなく、誰もが "平等に " 不幸になることを目的とした破壊者というのが本質であり、負の平等主義者であるといえるでしょう。

まとめ

仕事というのは与えられるべき当然のものではなく、その実態は激しい席取りゲームです。少なくとも職業に貴賤なしというのは、全ての職業の価値は同等であることとイコールではありません。
この本のハイライトは、雇用者の悲惨な日常ではなく、すでに椅子取りゲームの逆転の目がなくなってしまった、そもそも生まれた環境よってゲームへの参加すらできなかった人々の絶望感といえます。階層社会は外圧がない限り世代毎に固定化の方向に進むため、いずれ日本も同じ道をたどるでしょう。
社会福祉とは、この絶望の放置をリスクと捉え溶かすことを主眼に置くシステムといえますが、国家としての余力がなくなったときどうなるのか、それは先進国を中心にこれから答えが示されていくのでしょう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?