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世界が合致していた。/ 『ロスト・イン・トランスレーション』

皆さん、こんばんは。
一気に秋が深まっていますが、体調崩されていませんでしょうか?

わたくしは、タイ王国バンコク旅行に行って参りました。雨季のため、常に雨雲の位置を意識しながらの滞在となりましたが、タイが私たちの見方をしてくれたかのようにパーフェクトな数日間を過ごすことが出来ました。
そして、食べ物が本当に美味しい…。
良い旅になりました。


次のnoteは何について綴ろうかと思案したとき、上記のような異文化体験をして帰国した直後の私は1本の映画が思い出されました。

『ロスト・イン・トランスレーション』です。
2003年のソフィア・コッポラ監督作で、アメリカ人の男女が東京の街で出会い別れるこの作品。

以前より、ソフィア・コッポラが好きであることは、どこかしらのソーシャルメディアにて言及しておりますが、私は彼女のフィルモグラフィーの中で本作を最も好みます。

ということで今回は、『ロスト・イン・トランスレーション』について綴りたいと思います。




私は日本に生きるのが苦しいです。
それは、地位や名誉、社会的成功を煽る社会構造によるものかも知れませんし、焦燥や孤独に追い打ちをかけるような荒んだ大気によるものかも知れませんし、ただただ21年間同じ土地に住み続けたことによる辟易の心によるものかも知れません。

いずれにせよ、私はあと数ヶ月で日本社会から一旦離れ、新たな土地で生きます。それから、滞在満期終了後に日本に戻るのか、やはりこの国を永劫離れるのかは決めたいと思っています。


という思考を、私は幼少期から強く持ち続けてきました。
今回取り上げた『ロスト・イン・トランスレーション』を初めて鑑賞した中学2年生のときも、無論例外ではありません。

そんな私は本作を鑑賞し、大きな衝撃を受けました。
私だけが見ていたはずの日本社会を、ソフィアはそのままカメラに映し取っていたからです。

本作を紹介するとき、言語や文化、男女や夫婦、年齢といった事象の相互理解の工程におけるフラストレーションが落とし込まれている、なんて言われます。
もちろんその通りですし、そういった"異文化交流"の姿を巧みに捉えたからこそ、アカデミーなどでも評価されたのでしょう。

しかし私が本作を愛する所以は、上記のようなプロットの秀逸さではありません。


ソフィアが映す世界には"色"があります。
それは、脚本やカメラワークが織りなす作品の特色としての"色"ではなく、あくまで物理的なスクリーンを支配する"色"です。
『ザ・ヴァージン・スーザイズ』や『SOMEWHERE』など初期作品にその傾向は強いのではないでしょうか。

東京の街を彼女の"色"が包み込んだとき、その世界は私が見ていた世界と完全に合致し、例えるなら、誰も知らない街で独り途方に暮れながら、公園のベンチに座って飲んだ温かいスープの一口目のような安堵を感じました。

ひとつ外の世界では、私は独りではない。ならば私は強くなれる。
ああ、はやく飛び立ちたい。

そんな心が今日に至るまでの私を支えてきてくれました。
本作『ロスト・イン・トランスレーション』は、私の見方なのだと思っています。





最後まで読んでくださった方がいらっしゃいましたら、サントリーのCM撮影は必ずやワンテイクで決めますとお約束いたします、というほどに嬉しいです。

ありがとうございました。

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