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ヨハンナ・マルツィ讃

細かい音ではなく、よく伸びる音が好きです。

音楽を聴くとき、リズムやビートよりも(ベース音よりも)よく歌われる旋律線に興味を持ちます。「歌」の部分が大好きなのです。

わたしにとって、音楽とは歌なのです。他の楽器に隠れたメロディでも、よく歌われていると嬉しくなります。

わたしはフルートやピッコロ、オカリナ、リコーダーなどを数十年、趣味で演奏していますが、吹奏楽器の魅力は、スタッタートのような短い音ではなく、二分音符や全音符のような長く引き延ばされた音。

スラーされたカンタービレな長いフレーズを耳にすると、音楽鑑賞の醍醐味を感じずにはいられません。

個性的なビブラートも良いし、ノンビブラートでも倍音をたっぷり含んだ太い響きにも、倍音に乏しい繊細な響きもそれぞれ魅力的です。

さて、今回は管楽器ではなく、わたしの大好きな往年のヴァイオリン奏者の話。

最愛のヴァイオリニスト

クラシック音楽鑑賞歴三十年のわたしは、数多くの名ヴァイオリニストの演奏に実演や録音を通して親しんできましたが、いろんな素晴らしい演奏に接したあとで、再び録音を聴きなおしてみて実演を思い出してみて、本当に大好きだなと心から思えるのは、ハンガリー出身で1950年代から1960年代のほんの十年ばかりに13枚のレコード録音を残した、ある女流ヴァイオリニストの演奏です。

ヨハンナ・マルツィ Johanna Marty (1924-1979)
ウィキペディアにもほとんど記述のない彼女。
英語版ウィキペディアでは、かのグレン・グールドに激賞された旨が紹介されています。
マニアの間ではいまだに大変な人気を誇る彼女。
愛好者の方がYouTubeに復刻録音をたくさん公開して下さっています。
無料で聴くことができることは、同慶の至り。
もっと知られて欲しいヴァイオリニストです。わたしは彼女の全録音のCDを所有しています。
20世紀のヴァイオリニストで、個人的に最も偏愛するのはマルツィです。

女性らしいよく歌うヴァイオリン。でも程よく抑制されていて、男性ヴァイオリニストのように理知的であるよりも、音楽への愛を周り中に振り撒くようなヴァイオリン演奏。

音楽が好きでたまらない少女といった趣きに魅力されます。

管楽器同様に、よく伸びた美しい音色に適度なビブラート。そしてよく伸びた美音が生み出すピアニシモ❗️

本当にクラシック音楽が好きでよかったなと思える瞬間です。

歌う楽器の魅力の全てが彼女の演奏の中にはあるのです。歌い回しの素晴らしさは、他の女流ヴァイオリニストのボベスコやイダ・ヘンデル、オークレール、または韓国のキョンチョンファにも通じますが、マルツィの暖かで優しいピアニシモは本当に彼女だけのもの。

音が暖かい、冷たいなどは、音楽評論によく使われる形容ですが、音の即物性とは無縁な、音楽を誰かに伝えようとする想いが音楽の中から伝わる時、音楽は暖かいのだと思います。

マルツィと、現代に活躍するムローヴァ、ムターやヒラリーハンと聴き比べるとき、ああなんて音楽が違うんだろうって思うんです。彼女らは誰もがそれぞれに素晴らしい。でもマルツィの暖かない音色は独特です。

彼女の奏でるベートーヴェン、ドヴォルザーク、メンデルスゾーンやブラームスの協奏曲録音、そしてシューベルトのソナチネなどは、わたしの音楽人生の中の最良の宝物。

バッハの無伴奏曲には、男性ヴァイオリニストたちの厳しい音により魅力を感じてしまうこともあるけれども、彼女のヴァイオリンの澄み渡った音色には、わたしには音楽における女性的なものの全てがあるように思えます。

音楽の中の男性的な部分と女性的な部分

男性作曲家の音楽には、どうしても険がある。

男性的なベートーヴェンやバッハはもちろんのこと、女性的であると思われがちな(大いなる誤解ですが)ショパンやモーツァルトにも。

でも彼らの厳しい音楽を、マルツィのような女性演奏者が演奏するとき、父性的な厳しさと母性的な優しさが一緒になる思いを感じます。

父性的な優しさと母性的な厳しさでも構いません。

人は、二つの性が一つになることで、本当に人らしくあれるのですから。

どちららかが欠けても、不完全なものです。不完全さもまた、人間の魅力でありますが、男性優位の音楽世界では、わたしは女声演奏家の演奏を偏愛するのです。

1950年以降のクラシック音楽録音は、良い再生機で聞くならば、最高の音楽体験を自宅においても保証してくれるものです。

音楽演奏録音芸術はその頃に完成されていました。EMIとドイツグラモフォン社の名録音を堪能するのに、スマホではなく、きちんとしたステレオやブルーツース・スピーカーなどを使って鑑賞なさって下さい。スマホでは、クラシック音楽のまともな鑑賞や音楽評価は無理ですね。わたしは四六時中、スマホでモーツァルトなどを聞いていますが、きちんとした音楽再生機で聞いた時、同じ音楽が全く違って聞こえることに感動します。

優れた音楽体験はあなたの人生を変えてくれるものです。

<シューベルトのト長調 D.384のソナチネの第二楽章の中間部で短調で転じる部分、マルツィ以上に情感たっぷりに弾いたヴァイオリニストを知りません。もう何十年も愛聴しているのに、決して飽きることのない永遠の名演奏なのです>

<わたしにとっては史上最高のメンコン録音。高名なクライスラーの録音よりも、ハイフェッツよりも、これがずっと好き。現代のヴァイオリニストの演奏にも、こんなにもよく歌うヴァイオリンは滅多に聴けるものではありません。ただただ聞き惚れてしまいます>

<録音はいささか良くないですが、わたしにとってのブラームスのヴァイオリン協奏曲の最良の録音。上記メンデルスゾーン同様に、1954年のロンドンにおけるパウル・クレツキの指揮による録音>

歌は「呼吸」に基づくもの。独特の息遣いがヴァイオリニストのみならず、全ての演奏家の個性。わたしは、マルツィの独特の節回しが本当に大好きなのですね。

マルツィの録音の数は限られたもので、ほとんどをYouTubeなどで聴くことができます。できるだけ多くの方に親しまれて欲しいものです。


参考文献:

日本の音楽評論家が書かれた記事で、ヨハンナ・マルツィを絶賛する記述を読んだことがありません。弦楽器に精通される評論家の中野雄さんの著書で少し読んだ程度でしょうか。

彼女の短かったキャリア中、実演を実際に聴かれた方は熱烈なトリビュートを今も語り続けています。ピアニストのグレン・グールドも絶賛した一人(グールドは余り他人を褒めません)。残念な限りです。


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