ピアノのバッハ(番外編):知られざる楽器「モダンチェンバロ」
「チェンバロ」または「ハープシコード」と呼ばれる楽器は、とても特徴的な鋭い金属的な音色が魅力的です。
狭義ではチェンバロとハープシコードは違う楽器なのだそうですが、一般的には「ハープシコード Harpsichord 」はラテン系言語、「チェンバロ Cembalo 」はドイツ(ゲルマン)系言語での呼び名、つまり同じ構造を持つ同じ楽器をどちらも意味しています。
ちなみに英語読みすると
ややこしいので、この投稿ではドイツ風のチェンバロでこの楽器を言い表したいと思います。
チェンバロとは?
鋭い金属的な音色がチェンバロの魅力。
対照的な音色を作る、透明感のある澄んだ音色のピアノでも、スタッカートすれば、鋭い音は出すことは出来るのですが、チェンバロとは全く異質な音ですよね。
楽器内に張られた黄銅製の弦を鍵に連動した針が爪弾くのがチェンバロ。
楽器内に張られた鋼鉄製の弦を鍵に連動したハンマーが叩くのがピアノ。
外観においては似たような形態の鍵盤楽器なのですが、発音構造が全く違うので全然別の音が鳴るのです。
ヴァイオリンやチェロのような弓を使う弦楽器にも、弓を弦に擦り付けないで指で爪弾いて音を出すピツィカート(ピチカート Pizzicato)という奏法があります。
チェンバロの発音方法と同じですね。
コル・レーニョ Col Legno という弓の毛ではなく竿の部分で打楽器のように音を鳴らす奏法は弓で弦楽器の弦を叩く奏法。
ピアノの原理はこれと同じ。
有名な例はモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第五番「トルコ風」フィナーレの中間部。アクセントある短打音が特徴的なトルコ風音楽が登場する曲のニックネームの由来になった部分なのですが、伴奏する弦楽合奏は弓を裏返して弦を叩いて異国風の雰囲気を演出します。
ヴァイオリンやチェロのピツィカートは激しく鳴らすと喚起的な先鋭な攻撃的な響きになりますが、弱く鳴らすとクラシックギターのように繊細で柔らかな響きを作り出します。
しかしながら楽器の構造上、一定の力でしか爪弾くことの出来ないチェンバロは、いつだってキンキンした耳に刺激的な音を一定の強さでしか奏でられないのですが、チェンバロの音色もまた、各々の楽器ごとにかなり音色が変わります。
ピアノもファツィオリやスタインウェイやヤマハなど製作者が異なると音が違うのですが、チェンバロの響きの個性はピアノ以上では。
チェンバロの場合は、産業革命以前の十八世紀半ばにピアノフォルテというピアノの前身の楽器に需要が取って代わられたので、楽器としての規格の統一性に乏しく、イタリア製とフランス製、ドイツ製とイギリス製ではどれも音色や音量など、相当に異なるのです。
ですのでチェンバロとハープシコードが必ずしも同じ楽器とは言い難いという事態も生まれてしまったわけです。
今回はそうしたチェンバロの音色の違いのわけを考えてみたお話です。
往年のチェンバロ奏者たちのとんでもない演奏遺産
クラシック音楽を聴き始めた高校生の頃、1980年代の終わりから1990年代初め、チェンバロ奏者の演奏するバッハの鍵盤音楽の録音を聴いて驚きました。
あまりの騒々しさに耳を塞ぎたくなりました。
あまりにメタリックで耳をつんざく単調な音のうねり。
重々しく鈍く「ずしん」と響く低音。
チェンバロは音量の強弱を際出たせることができないので、フレージングや装飾音で音の長さを変えたりして音楽に潤いや変化をつけるのですが、そう言う演奏技術云々以前に、あまりにも鋭く突き刺さる金属音のためにチェンバロの響きが大嫌いになりました。
ワンダ・ランドフスカ (1879-1959) という20世紀におけるチェンバロ復興運動に携わった女傑の録音はその最悪の例でした。
しかしながら、彼女は間違いなく優れた教育者で、大変に優れた鍵盤奏者でした。モーツァルトのピアノ協奏曲録音など、ピアノ演奏における、とても素敵な名演奏。
でもチェンバロ演奏は楽器ゆえに余りにもエキセントリックで自分には耐え難いものでした。
盲目の名オルガニスト、ヘルムート・ヴァルヒャのチェンバロ演奏も同じ。有名なバッハのパルティータ演奏録音など最悪。
あれほどにオルガン演奏は素晴らしいのに。
バッハやヘンデルの声楽曲のオラトリオやカンタータ名作の指揮においては最高の名演奏を録音しているカール・リヒターのチェンバロ演奏も同様に耐え難いものでした。
音のフレージングが素晴らしいグスタフ・レオンハルトはリヒターよりは聴けるにしても、やはり音楽演奏を鑑賞するにはいまいちな出来。録音にもよりますが、やはり騒々しい。
わたしが古今東西のクラシック・ジャズのピアニストの中で最も大好きなグレン・グールド唯一のチェンバロ録音(ヘンデル)も楽しく聴き通すことができませんでした。なんだかエレクトニックピアノのようなヘンデル。チェンバロってこんな音?
ほかにも名手カークパトリックなど、二十世紀を代表するチェンバロ奏者の録音から流れてくる、甲高くて平板な音の洪水にうんざりしました。
下の動画はドイツグラモフォンの一部である古楽専門レーベル「Archiv アルヒーフ」のカークパトリック演奏の「ゴルトベルク変奏曲」。
CDで聴いている場合、音量を相当に下げないと楽しくは聞けない演奏でした。使用されている楽器は後述する1957年製のノイペルト社のモダン・チェンバロ。1958年の録音。
バロック期の大作曲家たち、ラモーやクープランやバッハやヘンデルやスカルラッティがこんな楽器を好んで演奏していたとは信じがたかった。
あの当時にはこの程度の音楽的魅力しか伝える楽器しか存在しなかったのか?などという理不尽な問いを抱えたまま、わたしはバッハやスカルラッティはピアノで弾くのが一番などと勝手に結論付けたものでした。
チェンバロ復興の歴史
私の認識はもちろん誤ったものでしたが、それもそのはず、二十世紀の半ばには、バッハやヘンデルたちが演奏していた楽器は当時は完全に忘れ去られていたからです。
十九世紀のロマンティック音楽の伝統の中でバッハやヘンデル作品はロマンティックに改変されて、彼らの奏でた繊細なチェンバロの音色など、もはや誰も記憶している人はいなかったのですから。
つまり問題は、暫減してゆく音の魅力を最大の武器とした、ロマンティックなレガート演奏を可能にした楽器ピアノの魅力はチェンバロのそれとはまったく別だったということ。
十九世紀初頭に完成したピアノの美学はチェンバロを完全に抹殺してしまったのでした。
音楽専門家のためではない英語辞書の Harpsichord の欄には次のように書かれています。
ただの英語辞書にも十九世紀にはチェンバロは忘れ去られていたと一般知識として記載されているのです。
実際のところ、チェンバロのための音楽は、もうすでにバッハやヘンデルの最晩年、十八世紀半ばにはあまり書かれなくなっていました。
1756年生まれのヴォルフガング・モーツァルトがチェンバロのための作品とみなした作品は明らかに神童時代のロンドンやイタリアにいたころの作品ばかり。
その後の作品はすべてクラヴィコードやピアノフォルテの作品なのでした。
クラヴィコードやピアノフォルテという音の強弱を鍵盤を押す力の具合で調節できる楽器が普及したために(そういう新しい表現が新しい世代の共感を勝ち取ったために)急速にチェンバロはソロ楽器としての人気を失ったのでした。
オペラのレチタティーヴォ伴奏のためにのみ、唯一の例外としてチェンバロは十九世紀になっても使用され続けましたが、この点にしても十九世紀オペラは歌と歌の間のレチタティーヴォという語りを排することで新しいオペラを作り上げてゆき、レチタティーヴォなしの作品が主流となったために、必然としてチェンバロは忘れ去られてゆき、需要が失われたために、もはや新しい楽器も製作もされなくなったのでした。
チェンバロは十九世紀の半ばには死に絶えてしまったのです。
ハープシコード(チェンバロ)ルネサンス
復興は十九世紀の終わりごろから始まりました。
1900年のパリ万博には百年前に忘れ去られた楽器としてハープシコード(チェンバロ)が出品されたのでしたが、ハープシコードを製造する職人の技はすでに失われてしまっていたために、ピアノのフレームワークの中にハープシコードを取り込んで作り上げたほどでした。
復興に取り組んだのは有名なピアノメーカーのプレイエル社などでしたが、彼等にもチェンバロとはどういう楽器なのか図りえないのでした。
忘れ去られたチェンバロ
人類の文明文化はこうして忘れ去られてしまう、退化してしまうという好例がハープシコード・ルネサンスの軌跡でした。
詳細は英語版ウィキペディアなどで読むことができますが(実際の復興の試みは1870年代から)ここでは割愛して、その後の復興運動の中で何が起きたのかについて焦点を当てます。
十九世紀後半の欧州音楽は後期ロマン派時代と呼ばれる大音響と極端な感情の表現主義が芸術音楽世界を席捲した時代でした。
改革者リヒャルト・ヴァーグナーの四管編成のオーケストラに代表されるような巨大を通り越して肥大化した音響を偏愛する音楽愛好家たちは、聴衆数百人を収容できる巨大なホールでの演奏会でも使用可能な音を引き出せる楽器としてチェンバロをグランドピアノの雛型であるかのように作り替えたのでした。
博物館に収納されていた古いチェンバロとは違った、ピアノのための頑強なフレームが楽器の母体として使用されて(ピアノメーカーが手r掛けたので当然です)より大きな音が出るように、オルガンのようなストップを切り替えるペダルが取り付けられたのでした。
十八世紀のチェンバロよりもより多い数の弦が張られたのです。減の数が増えると反響する倍音が増えるので音量も大きくなります。
英語では Contemporary Harpsichord または Modern Harpsichord と呼ばれるモダンチェンバロ(モダンハープシコード)の完成です。
1920年代にこうした十八世紀のチェンバロの歴史的復興に携わったのは前述のランドフスカ女史でした。
彼女は二十世紀式改良型チェンバロ一台をスタインウェイピアノであるかのように用いて、チェンバロ一台で巨大ホールを埋め尽くした満場の聴衆の前でバッハのチェンバロ協奏曲などをフルオーケストラとともに演奏したのでした。
二十世紀初期の聴衆は、初めて聴く今まで聞いたことのないチェンバロの壮大な金属音に、バッハの音楽とはこんなものだっのかと感嘆したのです。
ですが、バッハやヘンデルの伝記など、バロック音楽関連の書籍を紐解けば分かるように、チェンバロは室内楽の楽器で、大きなホールの隅々までとどろかせるような大音響を作り出せる楽器では本来ありません。
ですが、楽器内部には本来は一本から三本くらいが張られていた黄銅性の弦は、ピアノ線のような鋼鉄製に取り換えられていて、倍やそれ以上の数の弦を張り巡らせることでより多くの倍音を作り出すことを可能にしていたのでした。
モダンピアノの性能を兼ね備えた、弦を爪弾く鍵盤楽器の誕生です。
大音響のチェンバロ!
大交響曲を演奏するような巨大ホールで演奏されたチェンバロ・ソロリサイタルは、ホールの奥の方の席で聴いたりすれば、程よく音量も減少して素敵だったのでは、などと想像もしてみます。
同時にあまりに巨大な金属的音響は、演奏者の耳にとっても負担だったのではとも心配してしまいます。
ラモーやクープランは絶対にあんな大きな音の鳴る楽器を日常的には弾いていませんでした。
わたしはピッコロというオーケストラで最も甲高い音を鳴らすフルートの一種である楽器を吹いていたことがありますが、ピッコロの高音はあまりにも甲高いので普段は耳栓をして練習するのが普通です。
わたしの持っているヤマハ製のピッコロのケースには耳栓入れのスペースが設けられているくらい。日本製品は懇切丁寧、外国製の笛にはこんな気遣いはありません。
現代のロックコンサートでも大音響の中でプレイするギターリストたちは必ず耳栓しています。そうしないと鼓膜は大音量に耐えられなくなって彼らは確実に難聴になってしまいます。
しかしながら、チェンバロは十八世紀の楽器。
十九世紀後期的な大音響とは無縁な楽器なのです。
やがて二十世紀も半ばを過ぎると、歴史的楽器と歴史的演奏の復興が本格化して、ランドフスカなどが普及させた二十世紀版改良チェンバロは批判を浴びるようになったのでした。
博物館などに収められていた十八世紀の作曲家由来のチェンバロを忠実に再現する試みが行われ始めたのもその頃。
古楽器復興運動は、ヘルムート・ヴァルヒャ (1907-1991) 、ランドフスカ(1879-1959) やカール・リヒター (1926-1981) などのオールドスクールの演奏家たちが活動を衰えさせた1970年代の後半から次第に市民権を得るようになり、1990年以降、フランス・ブリュッヘン、グスターフ・レオンハルト、ニコラウス・アルノンクール、クリストファー・ホグウッド、トレヴァー・ピノックらによって推進されてゆくのでした。
二十世紀の改良版ではない、復刻楽器のチェンバロ・ハープシコードの音色は、やはり弦を爪弾く金属的な音色であることに変わりはないのですが、音量は控えめなもので、まさに室内楽にふさわしいものでした。
録音で聴くと、モダンチェンバロ録音はマイクがピアノ音楽の録音と同じ位置に置かれた場合、あまりの大音量に圧倒されますが、復刻チェンバロでは響きは聴き手を圧倒させるどころか、音色もまた癒しに通じる、むしろ可憐で繊細で清楚なものです。
チェンバロ・ハープシコードの同族であるヴァージナルやスピネットが裕福な家庭の家具の一部であったように、チェンバロ・ハープシコードは狭い室内で奏でるための楽器だったのです。
ですので、二十一世紀に一般化した復刻チェンバロによるバッハやヘンデル、ラモー・スカルラッティ・クープランなどの名曲演奏は、古い録音を知るわたしの耳には大変に新鮮なのでした。
一般に二十世紀型改良モダンチェンバロと18世紀型復刻チェンバロの違いは、足元のストップ切り替えのためのペダルの有無で見分けられます。
二段鍵盤(鍵盤はマニュアルといいます)の場合は上の鍵盤は弦を一本だけ、下の鍵盤は複数の弦を一斉に鳴らす構造になっていて、鍵盤を叩いても強弱の変化は付けられないチェンバロに強弱変化や陰影表現を可能にします。
わたしは幸運にも、勤務先の大学の音楽院に常設されているチェンバロが十八世紀復刻型だったので、柔らかで甘美な楽器のチェンバロの音色に聴衆として長年親しんできました。
ですので、わたしとしてはバロック音楽を聴くならば、復刻チェンバロに限るといいたいですね。
チェンバロ録音に関しては、二十世紀の古い録音のほとんどは鑑賞に耐え難いといわざるを得ない。
わたしは1930年代、1940年代、1950年代のリマスター録音が大好きなのだけれども。
この動画は歴史的チェンバロ(ハープシコード)でのヘンデル!
英国の十八世紀復刻チェンバロによる演奏(ヘンデルの愛用チェンバロ)。音が控えめで押し付けがましくないのは残響に乏しいから。指を離すとあっという間に音は消えてしまう。
これが正統的なチェンバロらしさ。
改良版チェンバロはピアノのフレームと素材を使用しているので、録音を通じて聴いている限り、かなりの残響が聞こえてくるのです。
それが逆に耳障り。
モダンチェンバロの価値
二十世紀バッハ演奏の権威として神格化されているリヒターのチェンバロ演奏は、日本を代表するバッハ研究者の磯山雅 (1946-2018) にも「時代遅れ」と批判されたほどなのですが、わたしはリヒターがモダンチェンバロを奏でてモダンヴァイオリンやモダンフルート奏者たちと共演した録音には言いようのない違和感を感じてしまう。
曲によってはあまりの楽器と楽曲とのミスマッチに耳を塞ぎたくなる。
リヒターの端正なタッチの正確な打鍵が立派であればあるほど、ドスンドスンと響くモダンチェンバロの音色が嫌になる。
私はカール・リヒターのカンタータ選集、マタイ受難曲、ヨハネ受難曲、ミサ曲ロ短調やオルガン演奏などの大ファンなのですが。
しかしながら、ここまで私が酷評してきたモダンチェンバロ(二十世紀の改良型楽器)にも独特の味わいがあることも事実です。
長い残響を保つチェンバロの響き(歴史的チェンバロでは弾かれた音はすぐに空に消えてしまう)
大きなコンサートホールでも演奏可能な大きな音量
歴史的チェンバロとは違って鍵盤の白鍵の長さがピアノと同じなので、ピアニストにも苦もなく弾けてしまう。歴史的チェンバロでは物理的に鍵盤のキーの長さが違うので、運指はバロック式にしないといけない。
より金属的な音色は新しい打楽器としての魅力も秘めている
個人的に録音を通じて聴いたモダンチェンバロ演奏をわたしは大嫌いなだけなので、人によってはあれがとてもいいといわれる方もいることでしょう。
これからの時代、モダンチェンバロでバッハを演奏しようなどという人は歴史的正統性の問題のためにあまり現れることはないのでしょうが(歴史考証学的に間違いです)、モダンチェンバロは二十世紀初頭においては、新時代を代表するまさに最新鋭な楽器でした。
それゆえにランドフスカは同時代の作曲家たちにモダンチェンバロのための作曲を依頼。
フランスのフランシス・プーランク (1899-1963) やスペインのファリャ (1876-1946) などが彼女の依頼に応じて、二十世紀を代表するチェンバロ協奏曲は生まれました。
現代のチェンバロ協奏曲はモダンチェンバロの先鋭的な音色の特徴を前面に押し出した作曲となっていて、二十世紀初期のピアノ協奏曲の多くがそうであるように、チェンバロは完全に打楽器として扱われています。
それでもプーランクの協奏曲の哀愁に満ちた第二楽章(11:08より)はモダンチェンバロの乾いた音色を際立たせた、モダンチェンバロでないと表現しえない深い表現にあふれたものです。
プーランクらしい抒情にあふれた佳曲。
ぜひ聞いてみてください。
下の動画は第二楽章から始まります。チェンバロソロはやはりドスンドスンと響くのですが、それがまた二つの大戦の間の時代の不安を表出しているようで素晴らしい。
プーランクらしい擬古典的な作品なのでとても聞きやすいです。
ファリャの協奏曲についてはこちらの記事に詳しいです。
本邦最高の作曲家武満徹による大傑作
十八世紀の楽器を復活させたはずなのに、まったく別の楽器にように生まれ変わってしまったモダンチェンバロは、二十世紀後半の昭和の時代を生きた武満徹 (1930-1996) にもインスピレーションを与えて次のような作品が生まれました。
演奏には十八世紀復刻チェンバロが使用されていますが、武満の時代にはモダンチェンバロが一般的だったのでは。
「夢見る雨」Rain Dreamingという曲。1986年の作曲。
チェンバロという古い時代の楽器で奏でられるからこそ描きだせる現代音楽の魅力にあふれていると私は思います。
ピアノで弾かれる現代音楽は聴き飽きてしまったので、金属的なチェンバロの響きによる不協和の不思議な調べにはわたしは心から惹かれます。
モダンチェンバロは今後、十八世紀のチェンバロとは違った楽器なのだと認識されて、別の価値を持つ楽器として演奏されてゆくといいですね。
モダンチェンバロとモダンピアノの共通性
十八世紀のチェンバロとは違って、鍵盤の奥行きもモダンピアノと同じなので、モダンチェンバロはピアノと同じ感覚で演奏することができるのでしょう(音があまりにも違うのですが)。
十九世紀に生まれた新しい楽器のチェレスタにも似ていなくもない。「くるみ割り人形」で大活躍するあの鈴の音色の鍵盤楽器です。
十八世紀のチェンバロは親指を他の指の下に潜らせない運指を使用していため、鍵の奥行きが異なるので(黒鍵が長くて白鍵部分が短い)、ミファソラと上向する音は3434と中指・薬指を多用します。
ノンレガートが基本なので、これでいいのですね。
チェンバロ音楽はノン・レガート。
でもピアノで同じことをすると、どこかおかしな音楽に聞こえてしまう。モダンピアノはレガートするために作られた楽器なのですから。
ピアノで弾くバッハには様々な解釈が生まれてしまうわけです。
映画の中のチェンバロサウンド
モダンチェンバロの独特な響きは不協和なパイプオルガンと共に、ホラー系の映画の定番BGMとしても認知されているようです。
残念ながら(?)不快や不気味な場面を醸し出す最高の効果音として。
わたしにとって忘れられないのは、ティム・バートン監督の2005年の「Corpse Bride」。
ヴィクトリア英国ゴシックホラー。アニメ映画としても最高の出来。これ以上に素晴らしいモダンチェンバロの映画の中での使用をわたしは知りません。映画は世紀の名作ですので、まだ見ていないと言われる方にはお勧め映画です。
現代のチェンバロ
今もなお製造されて販売されているノイペルト社のモダンチェンバロ。ペダル付き。これは1955年製。
ノイペルト社は歴史的楽器復興を担ったドイツの楽器会社。
20世紀半ばには数多くのモダンチェンバロを制作しましたが、その後の古楽器復興運動以来、復刻楽器の制作に力を入れています。
これは1977年製のヴィヴァルディ・タイプ。
でも事業失敗して借金取りに追われてヴェニスを夜逃げしてウィーンで客死したアントニオ・ヴィヴァルディ (1678-1741) は死後二百年も忘れ去られていた作曲家なのですが、彼の楽器がどこかに残されていて復刻できたのでしょうか。気になるところですね。
現代の復刻チェンバロのほとんどは、十七世紀後半から十八世紀前半のチェンバロ音楽全盛期の作曲家の演奏していた楽器の複製なので、ラモー型、コレッリ型など、作曲者の名前をタイプとして知られているようです。
ところで電子ピアノを買うとチェンバロ・ハープシコードの音色に切り替えることができるタイプのものが多いのですが、たいていはモダンチェンバロの音色に設定されています。
電子ピアノでのチェンバロ演奏では、わたしは軽い失望感を覚えずには演奏できません。
でも世の中のチェンバロ音楽への理解が進めば、電子ピアノにも十八世紀チェンバロと二十世紀チェンバロの切り替えが可能になる日も来るのかもしれません。
そういう電子ピアノがもうすでに作られているのか私は寡聞にして知らないのですが、そういう違いがあるようでしたらぜひとも新しい電子ピアノも購入してみたいですね。
おまけ:ランドフスカ賛
最後にワンダ・ランドフスカの超ロマンティック解釈のピアノによるモーツァルトをどうぞ。
彼女のチェンバロ演奏の悪口ばかりを書いておいては彼女の名誉のためにもよくはありません。名誉回復のためにピアノでのモーツァルトです。
今ではまずありえない超スローテンポ。聴きながら次々とあふれ出すチャーミングな表現にもう微笑まずにはいられない!
いろんな装飾音でメロディを彩り、テンポも揺らしてルバートするK.333は必聴です。
十九世紀的モーツァルトですね。
やはりランドフスカは偉大な演奏家なのでした。
十九世紀生まれの彼女のピアノ演奏は超ロマンティックで最新のAI音質改善技術によって、彼女の偉大な演奏遺産はこうして鑑賞可能になって生まれ変わっているのです。
ランドフスカが、いまでは時代錯誤と呼ばれてしまうモダンチェンバロ演奏に入れあげたのも、作曲家の時代の音楽を作曲家が聞いた音としてよみがえらせたいという切なる願いからでした。
当時の歴史的な認識はまだ浅はかなもので、結果は残念なものでしたが、ランドフスカというパイオニアがいたからこそ、現代における古楽器演奏の復興が実現されたのでした。
ランドフスカもまた、二十世紀最高の鍵盤音楽奏者の一人。
彼女の弾くモーツァルト協奏曲もスカルラッティなども素晴らしいですよ。
ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。