英語詩の言葉遊び(1):不思議の国のアリス
どれだけ外国語を駆使出来れば完璧だろうかということを書かれている記事に出会いました。なかなか興味深い疑問。
自分の答えとしては、
ですね。
言葉遊びの究極は詩作。詩は言葉の芸術。
散漫な言葉、統一感のない語彙の羅列にしばしば堕する散文とは違い、洗練された言葉で作り出されることが前提である詩は、言語芸術の最高峰でしょう。
駄文を並べるだけでは詩は成立しません。
洗練の度合いは詩の志向する方向性次第で変わりますが、卑俗から高尚まで、ありとあらゆる言葉を組み合わせる愉しみは究極に値するでしょう。
日本語の達人は、和歌を詠んだり、俳句をひねったりできるはず。
外国人の日本語話者もここまでできれば完璧でしょう。
同じく、英語を母語としない日本人話者が、英語の詩の朗読を鑑賞出来て、さらには英語のリズムに則った英語の詩を書けるならば、英語話者として完璧でしょう。
今回から、英語の言葉遊びが散りばめられた「不思議の国のアリス」、そして続編「鏡の国のアリス」の詩などを考察してみます。
英語ネイティブでも理解に苦しむ本ですが(子供向きに書かれている体裁ですが)英語という言語の特徴がすべて閉じ込められると言っても過言ではない不滅の古典です。
完璧な語学力とは
言語はコミュニーケーションのために存在するので、まずはあなたが外国語を喋って、相手から聞き返されないようになれると、まずは及第点。
次はどれだけ幅広く難しい問題を喋れるか。専門分野のことや日常分野のことしか語れないようでは完璧からは程遠い。
いろんな話題を母語でならば、それなりに喋れますよね。
例えば自分には無縁な原子力の話。
母語でも内容はほとんどわからない。でも会話に参加すれば個々の単語の音は聞き取れるし、わからない部分は聞き返すと会話は続きます。そのレヴェになれば、語学はできていると言えるでしょう。
次には難しい話を簡潔な文章にして書けるかどうかが完璧さへの次の通過点のように思えます。
言語学的に言えば、いかに複文を駆使できること。
教養ある英語話者の文章は簡潔にまとまっています。
演説では短く区切りますが、それでも的確に形容詞を文章の中に入れて、関係代名詞で単純な概念をどんどん演繹してゆきます。
外国語に流暢でも、単文をひたすら連ねて相手に言いたいことを伝える達人もいますが、文章の奥義は少ない言葉で多くのことを伝えるということ。
たくさんの言葉を長いこと喋れても、要約してみると、一行の文章に収まったなんてこともありますよね。
その上はレトリックの世界。
イディオムを使いこなせると、言いたいことを的確な例示によって相手に伝えることができると言えます。レトリックを読み解くには教養が必要とされますが。
そこから先に広がるのは、詩作の世界。
日本語ならば、和歌や短歌や俳句。
限られた字数のなかで想いや情景を描写すること。定型詩でなくとも、詩はリズムをともなうもので、耳に心地よく小気味よく響かぬ詩は、文法的に正しく描かれていようと失格です。
詩作は音楽の領域
日本語の詩は七五調などの音素の幅が均等な音の数がリズムを作りますが、英語では強い音節と弱い音節の繰り返されるパターンが詩の美しさを決定づけます。
自由詩だろうと定型詩だろうと、統一感が大事。
英語の定型詩では、Meter(カタカナでメーター、でも英語発音は「ミーター míːtə」)が詩作において最も大事なのです。音律ともリズムとも訳されています。
西洋音楽は123とか1234など強勢と弱勢の繰り返し。でもアクセントをずらした123とか1234もあります。
シェイクスピアのソネットはIambic(アイアムビクとカタカタで読めます、IPAではɑɪˈæmbɪk)という弱強のリズムの繰り返し。
英語は書かれた文字と発音が一致しないので、実際の音素で綴ると
ただ単に英単語を並べると詩になるわけではないのです。
同音異義語が豊富なために、掛詞などの言葉遊びの要素に非常に富んだ日本語詩とは違い、英詩の本質は音の強弱リズム。
音律の必要ない自由詩は、優劣を問わなければ、確かに誰でも書けますが、わたしは個人的に美しいとは思いません。
言葉とはリズムであり、音なのです。
さて、上記ソネット18番の冒頭は典型的な弱強弱強型ですが、強弱強弱型もあり得ます。
Trochaic meter(トロカイックメーター、英語ではtrəʊkéɪɪk トロケイイック)というパターンで、ハムレットのかの有名な言葉がそれです。
いずれにせよ、英語は音重視の言葉でアクセントが全て。
音の強弱が詩の美しさの大部分を占めるのです。
詩人でなくとも、演説の名手は要所要所で印象的なフレーズを伝える言葉の中に封じ込めます。英語の場合はリズミカルな言葉が構成要素。
言葉の特徴を最も掴んだ文章形態である詩を理解できるようになり、ついでに詩作もできるようになると(またはその言語に則した美しい文章を書けるようになると)言語学習は最終段階に達したと言えるのでは。
言語で聞くと最高に耳に心地よいシェイクスピアは英語世界最大の詩人といわれるようになった所以です。
「不思議の国のアリス」の作者
さてルイス・キャロル。本名はチャールズ・ドジソン (1832-1898)。
「不思議の国のアリス」Alice's adventures in Wonderlandは1865年に出版されました。作者がまだ若かった33歳の頃の作品。
本業は数学者ですが、余暇に偶然なのか必然なのか、子供の本や詩を書いた人でした。
オックスフォード大学で数学を教えていた学者さんでしたが、生涯独身で、社交性に乏しい彼は数学の世界と言葉遊びを生涯の友としました。
間違いなく偏りのある脳を持った自閉症スペクトラムな人物でした。
思春期前後の少女を偏愛したことで知られています。
写真機が貴重であった19世紀当時において、数多くの少女たちをフィルムに収めたことで知られていますが、彼の性的嗜好が違法行為だったとはされてはいません。
いずれにせよ、彼の言葉遊びへの執着は数学者の余技を超えたもの。
十九世紀の彼の創作した、ナンセンス詩の宝庫であるアリスの物語は英文学史上の金字塔です。
本来ならば翻訳不能な言葉遊びなのに、数多くの外国語に何通りにも訳されているという始末。
日本語版でも何通りも存在します。
キャロルの真骨頂は、「カバン語 portmanteau word」と呼ばれる数多くの造語を作り出し、造語を組み合わせたまず多くの詩作を作中に忍ばせたこと。
「鏡の国のアリス」作中でハンプティ・ダンプティにこのように解説されています。
「ポートマントー」なんておかしな旅行カバンはもう使われなくなりましたが、19世紀には人気だったそうです。
こんな風に物入れがカバンの中に仕組まれているのが「ポートマントー」。馬車の旅のお供にぴったりとされていたのでしょう。
英語には実際に使われる数多くのカバン語があります。
代表的なものを思いつくまま列挙してみます。まあ混成語、合成語です。
Smog = 大気汚染のスモッグは、Smoke煙と霧 Fog の合成語
Breakfast = 朝ごはんは断食Fast を破るBreakから
Brunch = Breakfast+ Lunch で週末の遅い朝御飯のこと。10時から11時くらいに食べて、お昼話にする食事。Branchは枝ですが、AとUの違いで発音が違いますよ。Brunch(brˈʌntʃ) とBranch(brˈæntʃ / brάːntʃ)。でも母音よりも、Brの子音連結の方が難しいかも(笑)。
Spork = 文字通り、スプーンの先がフォークでスポーク。日本語では「先割れフォーク」。
さて、ルイスキャロルの場合、誰もわからない呪文のような言葉ではなく、本来は存在する英単語や英語の語幹などを組み合わせて造語したので、新しい言葉として、一応は理解ができるために面白いのです。
言語モデル人工知能のChatGPTもまた言葉遊びの達人です。
膨大な情報量を読み取って、それに応じて詩を書いたりできるわけですが、十九世紀の碩学ルイス・キャロルは、まさにGPT的に認識された言葉をパターン化して自由自在に詩を書いていたわけです。
同じようなことを試みた人には、やはり英語圏の人で、
大小説家のジェームス・ジョイス
「指輪物語」の言語学者トールキン
がいますね。
ドイツ語では複合語は当たり前のように存在しますが、英語の複合語はドイツ語の文法の影響を受けたのでしょうか。
英語詩のProsody(音律学)
リズムとは定期的な拍(アクセント)を伴った繰り返される音のパターンなのですが、英語は書かれた文字と話す言葉が一致しない言葉なので、リズムを考えるうえではシラブルを考えないといけません。
シラブルの長さは均一ではなく、強い拍と弱い拍が存在します。
強弱の組み合わせは数多くありますが、音の強弱に依らない日本語を使う人には英詩は非常にわかりづらい。
わたしもずっとわかりませんでした。
どちらかといえば、英語の詩は言葉の意味内容よりも、言葉のリズムに重きが置かれていて、翻訳すると、どうにも面白くないのです。
わたしは上田敏や堀口大学訳の見事な翻訳詩などを愛唱しましたが、どうも英語の詩の翻訳には感動したことがなかったのでした。
名翻訳詩集「海潮音」に収録されたブラウニング の「ピッパの歌(Pippa's Song:春の朝」は、本当に見事な文語体日本語に訳されていて格調高く素晴らしいのですが、原語である英語で普通に読むと、拍子抜けなほどに単純な単語の羅列で面白くない。
中学生英語程度の語彙と文構造で書かれている。全てBe動詞のSVOの文型。執拗に同じ文型を八行も並べたことに意味があり、全ての行が「’s」の形をとっているのです。
Be動詞だけで詩になるのはすごいことです。もちろんアポストロフィSは詩のリズムを形作っている決定的要素の一つ。
各行の英語のリズムも統一されています。
三行目だけMorning'sとGod'sという特別な言葉が強調されてアクセント詩全体に異なったアクセントを与えています。
各行の脚音(Rhyme)は
Spring-Wing(一行目と五行目)
Morn-Thorn(二行目と六行目)
Seven-Heaven(三行目と七行目)
Pearled -World (四行目と八行目)
という具合に呼応しています。
韻においては音が違うので、ABCD-ABCDという形式。アクセントのパターンではAABA-AABAと言えるでしょうか。
あまりに短い詩なのですが、音読すると歯切れよく、少女ピッパの素朴な褒め歌の情感が伝わってきます。
短くて素朴な技巧による単純な歌。
だからこそ、少女の純粋な少女らしさが表現されると私は思います。こうして読むと、この単純な詩が輝いて見えてきますね。
長大な難解な英詩もたくさんあります。
実は「春の朝」は長大な劇詩「ピッパは通る」のほんの一部。劇詩では殺人だとか世の不平の様などが赤裸々に描かれます。だからこの純粋な穢れを知らぬ少女の歌が対比されて素晴らしい。
劇詩を音読し通すのは大変ですが、このピッパの歌のようにリズミカルで単純なものは音読して、暗唱するといいですね。
英語は強弱のリズムが特徴なので、日本語ではほとんど使わない脚韻が重要。日本語では頭韻の方が大事。
英語にも語頭をそろえる頭韻もありますが、語尾の音をそろえると、上記のピッパの歌ように、より格好いいのです。
英語にも頭韻はあります。Alliterationとよばれます。
シェイクスピアの悲劇「マクベス」第一幕冒頭の魔女の有名な言葉がこれに当たりますが、魔女の不気味さが頭韻で表現されていると言えるでしょうか。
頭韻はカッコいいというよりも、どこか喚起的。聴き手や読み手の注目を一気に集めさせて、注意を引き付けるためのものです。
とFで頭をそろえると、悲劇的世界の幕開けのおどろおどろしさが引き立つのです。
このセリフから劇が本格的に始まります。
続いて主役登場。
次のような、悲劇の主人公マクベスの劇中最初のセリフが弱強五歩格で印象的に語られるのです。シェイクスピアはCoolですね。
さてマクベスから詩の脚韻に戻ると、詩句の切れ目には、リズム的に休符が来るので、音楽でいうところの、休符の前にはカデンツ(終止形)が置かれるようなものかもしれません。
英語では締めくくり言葉が大切なのです。
「不思議の国のアリス」
ここからは実際にルイス・キャロルの詩をのぞいてみましょう。
お話はご存じですよね。
八歳の少女アリスが暖かい日の午後、不思議なウサギを追いかけてゆき、穴の中に落ちると、そこは不思議の国だったという物語。最後は夢落ちの冒険譚なのですが、おそらく、日本語で読むとこの本の面白さは本当にはわからない。
というのも、物語の奇想天外さが物語の骨子にはなく、不思議の国でアリスが出会う登場人物たちの言葉が可笑しいのです。
そして、そうした言葉のユーモア(洒落や語呂合わせなどの言葉遊び)は英語で読まないと本当にはわからないし楽しめない。
世界中の言語の翻訳家は、この名作を手を変え品を変え、原文の面白さを伝えようと努力していますが、結局のところ、翻訳は翻訳でしかなく、文化を超えてゆかないユーモアを異文化の読者の伝えることは無理なのです。
TaleにTailなどの同音異義語の洒落も、やはり英語で体験しないと。無理な翻訳や訳注では楽しくないのです。
物語が荒唐無稽だといわれる方は英語の勉強のために言葉の使い方に注目して読まれると最高の読書になりますよ。
例えば「不思議の国アリス」の第二章冒頭(生野幸吉訳)はこんなふうに始まります。
さて、このアリスのセリフ、そんなに変でしょうか?
「へんてこりんになってくわ」は確かに少しお菓子な言い回し。「おかしくなってゆくわ」くらいが普通の言い方でしょうか。
ああ役者さんの苦労がしのばれますね。
これでも訳者さんは苦心されて翻訳されたはず。でも私はこの訳文をそんなにも可笑しいとは思えません。
原文は:
Curious(好奇心がそそられて不思議だわ、変に思えるわ)という形容詞。
本来ならば、More curiousというところ、形容詞比較形の-erを語尾にアリスは間違えてつけてしまうのですが、Curiousは「Curiouser」という形にはできないのです。
英文法形態学的に間違い!
でも小学生の八歳の子供のことです。実際にも、子供はよく間違えて、Beautifuler とかDangerouser とか、Gooderとか、知らずなのか、ふざけてなのか、そんなふうに言うことはよくあるものです。
ここでのアリスはそんな感じ。
こんな具合に英語の正記法に通じていると、いろんな場面で英語が可笑しいのですが、翻訳だと本当の面白さはわからないのです。
わたしは子供の頃、アリスを日本語で読んだことがありましたが、全く面白いとは思えませんでした。わかるようになったのは大人になって英語で読んでからのことでした。
どんなに優秀な翻訳家でも、こうしたナンセンス感は訳しようがない。
そして作中に散りばめらたナンセンスな詩の数々はますます翻訳不可能なうえに、ほとんどが元ネタのあるパロディなので、元ネタがわからないと笑えないのです。
「アリス」の中のパロディ化された詩の大部分は、一九世紀後半の当時の英国人の誰もが知るものでしたが、流行したものはすぐに廃れるものです。
今ではほとんどのパロディの対象にされた詩は忘れ去られたものなので、作中の詩を英語で読んでも、原作が出版されたころにこの本を読んだ人たちほどには現代人は笑えませんが、一つだけ、現代の人の誰もが知っている詩が取られています。
「きらきら光れ、小さなこうもり」
有名なキチガイ帽子屋Mad Hatter とのお茶会の場面で登場するこの歌。
この歌は18世紀のモーツァルトがフランスのパリで聞いて、流行り歌なので変奏曲にしてみたくらいに、古くから知られたメロディです。英語版は19世紀初めにジェーン・テイラー (1783-1824) という詩人の女性が書いたものが現代にまで知られて世界中で歌われています。
もちろん、オリジナルは「きらきらひかる、お空の星よ」の「きらきらぼし」。
「ワニの歌」
詩をアリスが暗唱した後に自分で間違っているといったのは、学校で習った詩なのに、正しく覚えていなくて、おかしな詩を読んでいるという意味。
元の詩を知っているとアリスに共感なり同情できますが、原詩は今では忘れ去られて、こうしてパロディ化された詩だけがいまも物語の一部として読まれ続けているのです。
How doth the little crocodile / Improve his shining tail という風に「How」で感嘆文を作っていますが、Dothは古い英語で、現代英語のDoes。だから三単現のSはImproveにはつきません。
Rhyme(脚韻、歩格、詩脚)は
CrocodileとNile
TailとScale
GrinとIn
ClawsとJaws
最初のCrocodileとNile、Croc-o-dileは三音節ですが、アクセントは最後の音節に。こういう風にむ言葉の音節の最後にアクセントが置かれる言葉で韻が踏まれるパターンを男性的脚韻 Masculine Rhyme と呼びます。
ここでは各行、この男性的脚韻で統一されています。文尾にアクセントが来るので、文章の終わりが力強く響きます。
女性的脚韻 Feminine Rhyme の場合は複数の音節がある言葉で、最後ではない音節にアクセントが来る場合です。
「アリス」の他の詩も調べてみましたが、どれも男性的脚韻パターンでした。女性型はなかなか難しい詩作なのでしょう。
MischievousーNervous みたいな終わり方をする詩が女性型。
強勢(アクセント)こそが英語の命。
アクセントを駆使して、詩作できる=遊べるようになると、英語学習的にはもはや完璧なのでは。
ルイス・キャロルの世紀の名作「不思議の国のアリス」を英語ネイティブの子供が読んでもよくわからないといわれます。いろいろナンセンスな言葉遊びは英語ネイティブでも19世紀の文学ゆえに、すぐにはわからないのです。
英語学習者で英語のリズムを体得していない人には絶対に理解不可能。でも理解している人には言葉の綾の妙を楽しめること請け合いです。
英語の完璧を目指される方は、「不思議の国のアリス」並びに続編の「鏡の国のアリス」を読んでみてください。
次回は「不思議の国のアリス」の女王様のことを書いて、それから続編「鏡の国のアリス」を論じます。この続編こそが前作を上回る大傑作で、パロディの範疇を超えた大傑作の詩(英文学史上最高の言葉遊びの詩)がたくさん登場するのです。
アリス、英語で挑戦してみてください!
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