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戦死した最後の英国王リチャード三世

今年2022年は、ツタンカーメン王の王墓発見という世紀の考古学的大事件から100年となる記念すべき年、ナショナルジオグラフィックなどで大きな特集が組まれました。

考古学的新発見はこれまでに語り継がれてきた歴史的物語に新たな光を当ててくれるものです。

言い伝えの正しさを証明したり不確かさを確認させてくれるものですが、「事実は小説よりも奇なり」という言葉にもあるように、本当の物語は作られた物語よりも興味深いこともあります。

シェイクスピアが劇作して「悪党の中の悪党」として知られる悪逆の王リチャード三世は中世最後の英国王。

自ら剣を振るって敵陣に切り込んでゆき、勇敢に戦って敗死した王様。

プランタジネット家のリチャード三世

リチャード三世はプランタジネット家のヨーク公の家柄に生まれました。

イングランドとフランスに広大な領地を所有していた名門プランタジネット家は、フランスと後世呼ばれることになる土地のほとんどの領土をランカスター家のヘンリー六世王の時代に失います。

フランス領土を失ってプランタジネット家は二つに割れ、挙句の果てに引き起こされたのが内乱、のちに薔薇戦争と呼ばれる最悪の戦争。内乱はリチャード三世の死をもって終結するのです。

リチャードはいわば、日本の戦国時代の最後の武将のようなもの。

10年前の2012年9月に世界中の耳目を集める世紀の考古学的大発見がありました。

リチャード三世の遺骨が発見されたのです。

19世紀のドイツのハインリヒ・シュリーマンによるトロイ伝説遺跡発掘、20世紀のカーター卿らによるツタンカーメン王墓発見に匹敵すると言えば言いすぎでしょうか。

偶然農夫に発見された中国西安の始皇帝陵などとは違い、トロイ遺跡やツタンカーメン王墓同様に、戦死したリチャード三世が埋められていると伝えられていた場所を特定して、綿密な発掘計画を立てた上で発見されたのです。

シェイクスピアがリチャード三世の名を世界文学史上最高の作品の一つを通じて不滅化していたたために、リチャード三世の遺骨発掘のニュースはセンセーショナルに世界中を駆け巡ったのです。

リチャード三世の高名さは、ちょうど日本史における織田信長か明智光秀にも通じるものでしょうか。歴史ファンは大変に興奮したものでした。

英語世界最大の詩人が「最悪の悪人」として世に知らしめたリチャード三世ですが、シェイクスピアは作家であり、悲劇「リチャード三世」は歴史的には正しいものではありません。あくまでフィクションです。

ですので、遺骨からどれだけリチャード三世の真実の姿が解き明かされるかに世界中の人たちが熱狂したのです。

日本のメディアでも広く報道されました。

日本人はシェイクスピアが大好きだといわれるのですが、それでも日本人には馴染みが薄い15世紀の英国の王様。織田信長ほどには知られていない。

ですが、リチャード三世をシェイクスピアの作品を通じて知らなくても、発掘した専門家による映像がいまでは誰でも気軽にアクセスできるのです。

墓を掘り起こして骨が出てきただけ。財宝など何もない。

でもその遺骨が特別な遺骨!

一次資料である発掘関係者による英語における公式動画、そして二次か三次資料となるシェイクスピアの悲劇を読み解いて、リチャード三世の実像に迫ってみたいと思います。

レスター大学が2013年に調査結果を報告した公式動画。

こちらはレスター大学の発掘チームのリーダーである考古学者マシューモリス氏によって編集された動画。

Leicesterと書いて読み方はカタカナで「レスター」。英国の地名には英語普及以前のウェールズ人やデーン人の言葉などが残されていて、読みと綴りが一致しないことが多いのです。Southwellで「サドー」とか。

いずれの動画も日本語翻訳はなされていませんので解説する価値がありますよね。

この二つの動画を元に、リチャード三世の遺骨発見と調査の過程を書き記してゆきます。

シェイクスピア作「リチャード三世」

英国史を読むとたくさんの魅力的な王様が登場するのですが、最も魅力的なのは暴君です!とんでもない王様ほど面白い。過去に起こった他人事なので安心して見ていられます。

シェイクスピアの描いた数々の暴君の中でも、後世の我々が最も興味深く思うのが、リチャード三世ヘンリー八世ではないでしょうか。

ヘンリー八世は、Virgin Queen エリザベス一世の父親。

後継者の男子を求めて六度も結婚を繰り返して、離婚を禁じるローマ教会から英国の離脱を決めて英国教会を創建し、ローマ法王から破門されました。離婚した妻のうちの二人を斬首した物語は何度も映画や小説にも取り上げられ、シェイクスピアもまた「ヘンリー八世」を史劇として取り上げていますが、この話はまた今度。

シェイクスピアの「ヘンリー八世」では、ヘンリー王は偉大な王として描かれています。

理由は、シェイクスピア時代の英国君主がヘンリー王の血統のエリザベス女王であり、女王様の王朝はリチャード三世を弑逆して王位を奪ったヘンリー王の王朝だったからです。

リチャード三世を戦場にて殺したのは、ヘンリー八世の父親であるチューダー王朝の創始者ヘンリー七世なのです。

つまり、チューダー王朝の仇敵であったリチャード三世は絶対に「悪い王様」でないと都合が悪いわけですね。

「歴史そのまま」ではないシェイクスピア

古代中国、殷王朝最後の桀王が「酒池肉林」の悪逆の王として周王朝に滅ぼされたのも、人格者だったとも伝えられる教養人の明智光秀が天下人秀吉によって最低の逆賊として貶められたのと同じこと。

リチャード三世は当時の記録によると、必ずしも暴君ではなかったとも伝えられていますが、王位継承権に問題のあるヘンリー七世はリチャード三世を悪逆の王として貶めることで自分の王権を正統化したことは疑う余地のないことでしょう。

この流れの中で、文才溢れる若きシェイクスピアはリチャード三世を英国史上最悪の王として描き出したのです。

傑作「リチャード三世」はシェイクスピア初期の1592年の作品。そしてリチャード三世が没したのは1485年のこと。107年の時の隔たりの中で、リチャード三世の実像は都合よく捻じ曲げられていったのでしょう。

有名な書き出し

シェイクスピアは劇の最初に、有名な独白を通じて、自分は悪い奴である「I am determined to prove a villain」とリチャードに宣言させて、観客に彼がどのような人物かを直接伝えて劇を進めてゆきます。

つまり、リチャード三世が歴史的事実として実際に悪人であろうとなかろうと、シェイクスピアには、リチャード三世はアンチーヒーローでないといけないのです

ランカスター家に対するヨーク家の勝利を歌い上げる劇冒頭の言葉は、劇の最後にランカスター家の血統を受け継ぐとされるヘンリー王の勝利と見事に対比されます。

シェイクスピア劇の中でも特に有名で、
しばしば引用される「リチャード三世」冒頭の言葉
This sunはThis sonと同じ音で、ヨーク家の太陽は、ヨーク家の息子であるとも読めます。
弱強五歩脚の詩文ですが、Now isと韻のリズムを作り出すために、動詞が統治されています。
分かりやすい英語にすると、
Now the winter of our discontent is made glorious summer by this sun of York
という語順になります。1行目と2行目で全く意味が変わるのです
「いまやわれらの不愉快な冬はヨーク家のこの太陽によって
(ヨーク家の息子=エドワード四世)輝かしい夏へと変わったのだ、
我が家を覆っていた全ての雲は大海の底深くに沈められたのだ」

そして己の肉体の醜さを呪います。deformed 奇形という言葉がキーワード。

Cheated of feature by dissembling nature, しらばっくれる自然に騙された肉体
Deformed, unfinish'd, sent before my time 出来損ないで未完成なまま
Into this breathing world, scarce half made up, この世に送り出されて半分しか体が出来ていない
And that so lamely and unfashionable だから不格好で不自由で
That dogs bark at me as I halt by them; びっこを引いて歩き立ち止まると犬どもが吠えかかる
featureにnatureなど韻のよく効いている名文です

日本語による劇冒頭の独白。

「リチャード三世」は悪役の活躍を描く劇。

次は劇終わり近く、リチャード三世が敵であるヘンリー・チューダー(後のヘンリー七世)を罵倒する言葉。

兵への訓示なのですが、悪口を口にするリチャード三世の語彙は本当に豊かです。第五幕はリチャード三世らしさ全開で秀逸な罵倒語が何度も炸裂します。

BBC映画のHollow Crown (2015) より
「卑しい汚らしい石ころ野郎、
誤って英国王の王座に収まって宝石のふりをしていやがる奴だ」

劇の終わり、馬から引きずり落とされたリチャード三世はこういう言葉を叫びながら滅びてゆきます。

「馬を!馬を!馬をくれたら俺の王国をくれてやろう!」
中世の戦争では馬上の騎士は圧倒的に強い、上から目線ですからね。
だから地上に降りると馬上の敵の騎士から繰り出される槍や刀剣による攻撃の餌食にされます。
鎧で重装備なので武器は肉体を傷つけませんが、多勢に無勢。
頭上の兜を剥がれて、遺体の頭部には9か所もの刺し傷があったことが後に判明します。
鉄製の鎧を帯びていた首より下の体は完全に無傷だったのです。

そして劇の最後は勝利者ヘンリー王の演説で終わります。

こうして「不当に」王座に座っていたリチャード三世は正義の刃によって除かれて、偉大なるエリザベス女王に連なる、偉大なチューダー王朝が始まったというわけです。

そこで、リチャード三世を戦死させたことを正統化するために、次のような疑惑をリチャード三世に押し付けました。リチャードは悪事を働いたから殺してもよいという理屈。

エドワード五世と弟のリチャードはどこに?

典型的な悪者リチャード三世を示す図。
リチャード三世は幼い甥二人をロンドン塔に閉じ込めて殺害したと、
いまでも広く信じられています。

薔薇戦争のよく知られた悲劇の一つとして、リチャード三世の兄である先王エドワード四世の二人の王子の失踪が挙げられます。

エドワード四世は荒淫の王として知られていて(フランスのフランソワ一世にも似ています)王が現れると、男たちは誰もが妻や娘を隠したのだそうです。

美しい女性は問答無用にエドワード王のお手付きにされました。

そんなエドワード王は美貌の未亡人エリザベス・グレイを見初めて妻としたのですが、エドワード王の死後、王は別の女性と以前に婚約をしていた、そして結婚もしていたという疑惑を理由に (婚約は本当でしたが、婚約破棄は正式になされなかったようなのです) 王とエリザベス王妃の結婚は無効、つまりエドワード王の遺児は私生児で、王位継承権はないとされたのです。

でも実際には相手の女性は未亡人との結婚前に死亡していて、やはりでっち上げな疑惑。

二人の王子の11歳の兄がエドワード五世として戴冠式を迎える直前のことでした。

真偽のほどは定かではありませんが、結局のところ、エドワード四世の弟である摂政リチャードが王冠を受け継ぎ、リチャード三世となります。

ですが、その後の元王子たちの行方は杳として知れません。

シェイクスピアによると、ロンドン塔に幽閉されていた二人は秘密裏のうちにリチャード三世の送った刺客によって殺害されたということになっていますが、確証はどこにもありません。失踪時の英国最高権力者はリチャードなので、知らないはずはないのですが。

当時の証言として、リチャード三世死後も幽閉されていた王子は、実はリチャード三世の王座を奪ったヘンリー七世に邪魔者として殺されたという言い伝えもあったそうです。

二人の王子は間違いなく、ヨーク家の正統な王位継承者なのですから。

そして百年後の新たな内戦である清教徒革命の混乱の後、王政復古したチャールズ二世の時代に、ロンドン塔の改修工事の折に石造りの階段の下から二人の子供の骨が見つかったのです。

チャールズ二世は行方不明のエドワード五世と弟のリチャード王子として正式に埋葬、しかし20世紀に入っての調査では遺骨は損傷が激しく、王子たちであるかどうかは判別できなかったそうです。

ミステリーは後世の画家のインスピレーションを刺激して幾つもの、いわゆる「怖い絵」が描かれたのでした。



悪逆の王は醜い。

シェイクスピアは、リチャード三世を背骨の湾曲した「せむし」の醜い男として描き出しました。両肩の高さがずれていて、舞台ではリチャード三世役の俳優はびっこを引きながら歩くのが常です。

遺された肖像はリチャード三世の死後すぐに描かれたものらしいですが、32歳にしては老けた顔。でもあえて醜男として描かれてはいません。

王の生前に描かれた肖像画ならば美化されて描かれるものですが、
この肖像画はそうではないようです。
頭蓋骨から復元されたリチャード三世の顔はこの肖像画とかなり良く似ているのですが、
決して醜い容姿どころかなかなかの顔立ちです。
頭蓋骨から復元されたリチャード三世の胸像

言い伝え通りに、脊髄湾曲症の存在は事実でした。

でも遺骨の調査から判明したのは、曲がっていた背骨は上下にではなく、左右に捻じれていました。

上下に曲がっている場合は、背中にいわゆる「こぶ」を形成して「せむし」となります。でもリチャード三世の場合はそうではなかったのです。

そして生まれつきではなく、成長しながら背中が曲がってゆく脊髄彎曲症Scoliosis を患っていたのでした。だぶだぶの服を着ていれば肩の高さの違いは隠しきれませんが、背中のゆがみは人には知られないものだったはずです。庶民は知らなかったでしょう。

そして発病したのは10歳ごろからだと検証されています。

シェイクスピアが呪われた子だと母親セシリーに言わせたような事実は存在しなかったのです。

現代ならば脊髄彎曲症は治療可能。中世世界では悪魔の病気だと呼ばれたのですが、リチャード三世はHunchback「せむし」ではなかったのです。

このようなタイプの湾曲症

「せむし」は差別用語だと、日本語では、ヴィクトル・ユーゴー原作のディズニー映画は「ノートルダムの鐘」と変えられていますが、英語名はあくまで「|The Hunchback of Notre Dame《ノートルダムのせむし男》」。

主人公カジモドQuasimodoの背中の瘤は天に向かって突き出しています

さてリチャード三世の真実はどこに?

2012年の考古学的発見

シェイクスピアによって徹底的に悪人認定されたリチャード三世。

ソネット55番に詩人自ら書いたように、詩の言葉は本当にいつまでも人の心に残るのです。

漫画「七人のシェイクスピア」より

世紀の悪人として過去五百年にわたって知られた英文学史上最高の悪人リチャード三世を弁護する研究は20世紀になって数多くなされるようになり、研究者はリチャード三世の実像を再現しようと努力してきました。

リチャード三世は良い王様で、リチャード三世を戦死させたヘンリー七世ことヘンリー・チューダーこそが簒奪者であるという研究が、英語では何冊も編まれています。

ですので、本当のリチャード三世を知るために、遺骨を発掘することは意義深いことでした。

リチャード三世は「My kingdom for a Horse!」と叫んだというボズワースの平原において、1482年8月に馬から引きずり降ろされて、兜を剥がれて何人もの兵士に刺殺されたのは事実だったのか。

ランカスター側の歴史書の記録によると、戦場で袋叩きになって殺されたリチャード三世の遺体は正視に耐えられぬほどのひどい辱めを受けて、首吊り死刑囚のための首縄を括りつけられてボズワースにほど近いレスターの町で晒されたのでした。

しかしボズワースの合戦より三日後、ロンドンへと凱旋してゆくヘンリー王はリチャード三世の遺体をレスターの修道院に埋葬することを命じます。

ヘンリー王は記録係を連れていて、書記官は修道院にリチャード三世は埋められたと書いているのです。

ですが民間の間では辱めを受けた遺体は川に捨てられたとの伝承も残されていました。

修道院はリチャード三世が埋められてから80年の後に閉鎖されて、貴族の館とされましたが、僧院内の礼拝堂跡地には「リチャード三世ここに眠る」という碑が建てられたそうです。

貴族の邸宅も19世紀のヴィクトリア時代に取り壊されてしまったのですが、僧院跡地として現代にも15世紀そのままに区画は修道院の名を残した通りで区切られて、20世紀には僧院跡地の一部の土地の上に「リチャード三世歴史博物館」が建てられています。

こうして21世紀、情報が錯綜する中、地元レスター大学による考古学的調査が始まります。

歴史博物館はレスター市の所有物で、周りは市の経営する駐車場となっていました。

大学研究者は文献より修道院礼拝堂内の聖歌隊席の下に王の遺体は埋められたという記述をもとに発掘を始めるのですが、礼拝堂の位置はおおよそしかわからない中、駐車場のアスファルトを剥がして地面をショベルカーで掘り起こしてゆきます。

そして第一日目にして、ある遺体を発見します。

後世の建築工事によって足首の部分が失われていたのですが、両足は交差されていて埋められた骨は明らかに埋葬されたものでした。頭蓋骨には数々の傷があり、さらには遺骨の背骨は歪に湾曲していたのです

ここから、この遺骨がリチャード三世であることを証明する科学的調査が行われたのです。

遺骨

掘り出された遺骨は丹念に傷跡などを調べられました。

頭部に九箇所もの傷があり、鋭利な剣に刺されたものから、頭蓋骨を陥没させた槍のものまでありました。

書記官が記した通りに、リチャード三世はランカスターの軍勢に取り囲まれ、馬を失い、地上に引き下ろされて何十人という殺人者の武器によって絶命させられていたという記述と一致する証拠です。

年代記によると、王側についていたスタンレー卿の裏切りによってリチャード三世軍は壊滅。

王はヘンリーの直ぐそばまで攻め入りますが、多勢に無勢。全ての味方を失って最後には単騎となるも最期の時まで勇敢に戦い抜いたと記録されています。

発見当時の埋められていた遺骨。湾曲した背骨が一目瞭然です
掘り出された遺骨
致命傷は大地に転がされたらしい王の後頭部下部に突き刺された槍による痛恨の一撃。
この位置にこの角度から深い致命傷を与えるには馬上では不可能。
押し倒された王の斜め後ろから巨大な穴が開けられたのです。
脚と腰の部分に死後つけられたと見られる深い傷があり、死後の辱めの激しさを物語ります。
おそらく遺骸は切り刻まれたことでしょう。

DNA検証

そして21世紀の今日、完全に科学的分析法として確立されたDNA鑑定が行われました。リチャード三世の姉の子孫が現代まで生き残っていて、そのうちの二人から採取されたミトコンドリアDNAは、リチャード三世と見られる遺骨のものと一致したのです。

ミトコンドリアDNAは女性にだけ受け継がれるものですが、これだけではまだリチャード三世とは断定できません。でも女系ではこの遺骨はプランタジネットの一族だと科学的に判明。

炭素年代測定法により遺骨は間違いなくリチャード三世の時代のものであると判明していて、死者は30歳から35歳ほどの男性であると分かります。

ですのでリチャードの家系の男性で、30歳から35歳ほどで死んだ親族を探すと、消去法でリチャード1人が残り、遺骨はリチャード三世であると結論付けられたのです。、

40歳で死んだ兄のエドワード四世はウェストミンスター大聖堂に王として眠り、28歳で殺害された次兄のクラレンス公ジョージは別の墓に葬られています。ほかの男子は60歳まで生きたのです。そして説髄湾曲症を患っていたという記録があるのはリチャード三世一人だけでした。

リチャード三世のDNA鑑定の公式動画には日本語字幕が付けられています。なかなか興味深いものです。

国王として再埋葬

科学的検証を経て、530年前に死んだ英国王であると翌2013年二月に確定したことで、リチャード三世は王に相応しい墓に埋葬されることが決定して、2015年にレスター大聖堂にリチャード三世のための王墓が作られてようやく王者に相応しい墓に眠ることになったのでした。

王の再埋葬の式典の模様はBBCによってドキュメンタリーとして記録されていて動画を鑑賞できます。故エリザベス二世女王は式典には出席しませんでしたが、義理の娘のウェセックス伯爵夫人ソフィアを代理に出席させ、次のような弔辞を寄せています。

Today we recognize a king who lived through turbulent times and whose Christian faith sustained him in life and death 
激動の時代を生き抜いた王のキリスト教徒としての信仰、彼の生前そして死後にもおいても守られていた、その王を今日ここで私たちは認めるのです。
故エリザベス女王の2015年の言葉
BBC映画「嘆きの王冠」でリチャード三世を見事に演じた、
俳優カンバーバッチは、リチャード三世から十六代離れた再従兄弟として、
英国桂冠詩人キャロル・アン・デュファイの詩を読み上げました
この日のために書かれた「リチャード」という題された14行詩
Richard

My bones, scripted in light, upon cold soil, 冷たい土の上で、光の中に刻まれた、わたしの骨
a human braille. My skull, scarred by a crown, 人で作られた点字。わたしの頭骨は、王冠によって傷つけられ
emptied of history. Describe my soul  歴史の中で空虚にされた。我が魂を
as incense, votive, vanishing; your own  芳香として、捧げ物として、消えてゆくものとして。あなたの魂も
the same. Grant me the carving of my name.  同じ。わたしの名を刻むことをお認め下さい

These relics, bless. Imagine you re-tie  これらの遺物は祝福だ。想像して、ほどけた紐を
a broken string and on it thread a cross,  紐にして十字架に結び直す
the symbol severed from me when I died.  わたしが死んだ時に切り裂かれたシンボルを
The end of time – an unknown, unfelt loss –  時の終わりー知られることのない、感じられない喪失
unless the Resurrection of the Dead …  最後の審判の日までは

or I once dreamed of this, your future breath  それとも、一度は夢見たこと、あなたの未来の命
in prayer for me, lost long, forever found;  わたしのための祈りの中で、長く失われていたけれども、とうとう見つかった
or sensed you from the backstage of my death,  それとも王としてのわたしの死の向こうにあなたを感じたこと
as kings glimpse shadows on a battleground.  戦場で少しばかり見た影のように
筆者拙訳
リチャード三世がこの式典を見ていればこんなふうに感じたのではないか
というような詩なのですね
Grant me the carving of my name.
という祈りの言葉は美しい

現代のリチャード三世。

シェイクスピア劇の「リチャード三世」の文学的価値は不滅です。

世界文学史上最強の悪役ヒール

でも本当の歴史上のリチャード三世はシェイクスピアの描いたような人物ではなさそうですね。

レスター市所有の遺骨が発掘された現場の駐車場には現在、このような立札が立っているそうです。

ブリティッシュブラックユーモアでしょうか。

ここは料金前払い式駐車場です。
指定の機械から駐車券を購入して下さい
死んだ王様はここには埋められてはいません
レスター市役所

わたしが今生きている時代における、生涯最大の考古学的発見かもしれません。DNA鑑定もできる21世紀に生きていてよかった。そう思わせてくれる大発見なのでした。

日本史では、大坂の陣 (1615) で敗死した豊臣秀頼の頭骨が、昭和55年 (1980) に旧大阪城二の丸に当たる場所での工事現場で発見されました。

作家の司馬遼太郎が大変に興味を示した考古学的発見でしたが、当時はDNA鑑定も実用化されていなかった時代。

ですが、日本人は故人の墓を掘り起こして鑑定するなどという行為を最も嫌う文化を持っている人たちです。

たとえ最新式の遺骨鑑定が可能だとしても、リチャード三世の遺骨のように徹底的に科学検証をすることは差し控えられたのでは(秀頼と秀吉の血のつながりは、ほぼ間違いなくゼロであるとされてきました。でも近年、秀吉は長浜時代に側室に子を産ませていたという記録が注目されています。秀吉は̥無精症ではなかった可能性もあります。歴史ファンには興味深い話です)。

リチャード三世の遺骨に関する資料を読み込んで文化の違いの深さを思い知りました。しかしながら、大聖堂に王として再び埋葬されたことは特筆されるべき。

死者の尊厳。そんなことを考えてみました。

ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。