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アニメになった児童文学から見えてくる世界<2>:働かされる子供たち

十九世紀から二十世紀までの児童文学に顕著なのは、働く子供たちの存在。

先日紹介したエクトル・マロ原作「家なき娘」をアニメ化した「ペリーヌ物語」には、当然ながらたくさんの働く子供たちが登場しました。

旅中で出会う子供たちは誰もが働いていて、学校などには通ってはいません。十九世紀後半のヨーロッパの有様です。十三歳のペリーヌが辿り着いた工場のあるマロクール村の女工たちもペリーヌと同世代の少女たち。

彼女らは朝から晩まで雀の涙の給金で働かされていて、地方出身で自宅から通えないならば、不衛生な環境の大部屋で眠るのです。

アニメでは数週間で治癒する程度のけがで済んでいますが、ペリーヌと仲良くなる下宿屋(アニメでは食堂)の娘のロザリーは、工場でけがをして小指を失います。そういう世界だったのです。保証も安全整備も不十分な産業革命の機械の時代なのです。

紡績工場で働くロザリー

ちょうど日本にも山本茂実のルポルタ-ジュから映画作品化された、同じ時期の女工哀史はいまではよく知られています。1979年の「ああ野麦峠」。

こちらはフランスのペリーヌとは異なり、麻から繊維を取りだすのではなく、昆虫のカイコの繭を取りだす絹糸の工場。

http://www6.plala.or.jp/ebisunosato/nomugi.htm

明治時代の日本も第三共和政下のフランスも同じような世界だったのです。
このような辛い女工たちの生活も、ある意味世界基準でした。そうした時代だったのです。

ロメオの青い空(1995)

1995年に放映されたアニメ世界名作劇場の「ロメオの青い空」には、児童労働を禁じる法律のなかった時代における煙突掃除に従事する子供たちの生活が詳細に描かれています。

環境問題的観点から現代では暖炉の火というものはいまでこそ少なくなりましたが、木材を燃やして暖を取ることは二十世紀以前の欧州においては当たり前のことでした。煙突掃除夫は社会的になくてはならない存在。

二十世紀初頭のイギリスを舞台としたディズニー映画の「メアリーポピンズ」にも煙突掃除夫が出てきます。

不健康で全身が煤だらけになる最悪の重労働と言えますが、十九世紀後半の北イタリアのミラノにおいて、そうした仕事をしていたのは10歳前後の貧しい家庭出身の男の子たち。

アニメでは借金のかたとして一冬、田舎の村から大都会へ連れてゆかれて奴隷のようにこき使われる少年たちの生活が詳細に描かれるのです。

原作の原題はドイツ語で「黒い兄弟 Die Schwarzen Brüder」。肌が黒いからではなく、黒く汚れた煤にまみれた少年たちの絆の物語だから「黒い兄弟」なのです。

ネタバレしたくはないですので、これ以上は語りませんが、大変に凄惨な物語。これでも原作に比べると描写は抑制されているのです。

ちなみに主人公の名前はジョルジオで、アニメ版はロメオ。アニメと原作とでは後半部分はかなりの改変が成されているようです。実写映画化もされています。

小公女セーラ(1985)

アメリカのバーネット女史によって1908年に書かれた「小公女」も古くから知られた物語ですが、これもまた、現代では決して起こりえない児童労働の物語。物語は十九世紀後半のロンドンでの物語。

お話はご存知でしょうか? 青空文庫で1927年(昭和二年)に菊池寛によって訳されたものを全文読むことができます。

「家なき娘(ペリーヌ物語)」同様に、大英帝国のインドに関わりが深く、時代を感じさせるのですが、孤児となったセーラは女子寄宿学校の召使いとして働かされるのです。学校では彼女と同い年の少女たちは勉学に励み、かつての優待生だったセーラは、不衛生な屋根裏部屋に住まわせられて、食事も不十分な暮らしの中で、朝早くから掃除洗濯買い物と奴隷のようにこき使われます。孤児となったからです。

現代では社会制度が整えられて、このようなセーラの味わったような悲惨はありえないともいえるのかもしれませんが、先進国とは呼ばれない世界では、二十一世紀の現代においてもあり得る事です。

子供という無力で無知な存在は社会が育てるもの。子供は家族のものばかりではなく、社会全体で慈しむべき未来。子供が消耗品で使い捨てられてしまうような社会には文字通り未来がありません。

http://alittleprincesssara.web.fc2.com/character-school.html

小公女セーラには、同じくらいの年齢の田舎の出稼ぎの心優しい少女ベッキーが登場します。彼女は初めから召使(メイド)としてこき使われることが当たり前の存在。貧しい家庭の出身だから教育機会など持ち得ないのです。

作者バーネットは社会変革などを意図してこの作品は描いてはいないのですが、意図せずとも、あの時代の空気はすべてここには書き込まれているのです。

数奇な運命の星の下のセーラ・クルーという主人公の寄宿舎ミンチン学園での数年間(アニメでは一年間)という物語なのですが、見るべきは落ちぶれたセーラをこき使って見下す、かつてはお金持ちのセーラにかしずいていた大人たちやクラスメートではなく、そうしたことを当然として認めさせてしまう社会風潮。

http://alittleprincesssara.web.fc2.com/1885-8.html

このいじめっ子ラヴィニアの視点からセーラの境遇を見つめると、大英帝国の階級社会の真実が見えてくるのでは。

トムソーヤの冒険 (1980)

1840年代のアメリカ大陸ミシシッピー州の物語であるマーク・トウェインの「トムソーヤの冒険」のトムは、いやいやながらも学校に通います。しかしながら、学校に通わない子供もたくさん登場します。宿なしハック・フィンはもちろんのこと、サーカスの少女や黒人の子供なども学校には行きません。

関修一氏によるキャラクターデザイン

日本における義務教育の開始は1886年(明治19年)でしたが、アメリカにおいても1865年頃で、初頭教育の普及に尽力したスイスのヨハン・ペスタロッチ (1746-1827)も18世紀後半から19世紀初頭の人でした。それ以前にはお金持ちの子息しか教育を受ける機会を持つことはありませんでした。

フランス革命以前に子供の教育の必要性を初めて論じたのはジャン・ジャック・ルソーだったらしいですが、主著である「レ・ミゼラブル」において、十九世紀のヴィクトル・ユーゴーは十九世紀初期の子供の生活の酷さを詳細に描き出しています。

「赤毛のアン」 (1979) & 「こんにちはアン」 (2009)

カナダのモンゴメリ女史による「グリーン・ゲーブルスのアン(邦題:赤毛のアン)」は1908年に発表された物語ですが、作者のモンゴメリ女史の経験した時代が描写されているので、描かれている時代はやはり十九世紀後半。

当時のカナダは英国より派遣されたカナダ提督治下の大英帝国の植民地。
大英帝国の豊かさが反映されているのか、アヴォンリー地方のグリーンゲーブルスのアン・シャーリーの暮らしはさほど悪いものではありません。

女子であるにもかかわらず、学校にも通い、上級学校へ進学さえもするのです。でもそれはある程度裕福な老兄妹の家庭に住まわせてもらえるようになった孤児の幸運ゆえ。最初は引き取られると幸せにしてもらえそうにない、11歳のアンを労働力として召使として孤児を引き取ろうとさえする老婦人も出てくるのですから。

物語中、なんども家業のために学校へ通うことのできない子供の話なども出てきます。ギルバートも家の仕事のために小学校へこれない日もありました。やはり子供は働きます。家業のために働くことが当然なのです。

そして興味深いことに、アン・シャーリーの物語の愛読者であるカナダのバッジ・ウィルソンは作家となり、孤児アンがマシューとマリラに受け入れられるまでの前日譚を書いているのです。ウィルソン女史の物語もまた、世界名作劇場としてアニメ化されています。

こんにちはアン Before Green Gables 

貧しい身寄りのない幼いアンは子守りなどをして暮らします。
やはり学習や遊びよりも、労働ありきなのです。

子供は遊ぶもの。
それが当たり前ではない世界に気がつくこと、遊んでいられる世界は遊べなかった世界があったからこそ、今こうして作り出されたのだと、それだけでも気がつくことができれば、世界名作劇場のようなアニメを日本という国が作り出したことは本当に素晴らしいですね。

大人は古い時代の子供の本をもう読まなくなる。そしてあの時代の当たり前だった出来事を知ることがない。

大人は、十九世紀の大文豪の古典を手に取っても、古典的児童文学は読まないものです。

ロシアの大文豪フョードル・ドストエスフキー (1821-1881) は最後の未完の大著に子供を描き出しました。「カラマーゾフの兄弟・第一部」は子供たちがアリョーシャ・カラマーゾフを褒め称えるところで終わります。そして来たるべき第二部(未完)では、子供たちが成長した時代の物語になる予定だったのです。

ドストエスフキーが最期に描きたかったのは子供=未来だったのです。


次の投稿では、十九世紀に子供の労働問題を赤裸々に取り上げた、デンマークのハンス・クリスチャン・アンデルセンと、フランスのヴィクトル・ユーゴーについて書いてゆきます。



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