ピアノのバッハ29: チェンバロ音楽をピアノ音楽に翻訳する
前回からの続きです。
一万二千字を超える長文ですが、外国語の詩の引用、お勧め録音なども含んでいるために、読みやすいはずです。段落分けも工夫したのでスマホでも快適に読めると思いますが、タブレットやPCで読まれるのが最適です。
楽しんでいただけると幸いです。
フリードリヒ大王の主題
ヨハン・セバスチャン・バッハが最晩年の数年間にジルバーマン製ピアノに親しんでいたことは、状況証拠と生前のバッハを知る人たちの証言などから間違いのないことです。
バッハ晩年の大事な支援者だったカイザーリンク伯爵の仲介を経て、実現したプロシア国王フリードリヒ大王 (1712-1786) との歴史的な会見。
新興国プロシアの軍事的天才と謳われたフリードリヒ王は、先のオーストリア継承戦争やポーランド継承戦争における神懸かりな戦略指揮のために、「大王」という二つ名で呼ばれるほどに恐れらるまでになっていた、生きながらにして伝説となった王でした。
フリードリヒに肥沃なシレージエン地方を強奪された、神聖ローマ帝国のマリア・テレジア女帝による欧州最初の世界大戦と呼ばれる七年戦争が、周到な根回しの上で、バッハの死後六年後に勃発するのは当然の帰結でした。
ハイドンやモーツァルトにとても馴染み深いハプスブルク家側の資料を読むと、フリードリヒ大王は悪魔の化身のような存在として貶められています。
しかしながら、マリア・テレジア女帝の後継者である息子ヨーゼフは、新興国プロシアをわずか数年で欧州一の強国に仕立て上げたフリードリヒ大王を啓蒙専制君主の鑑として崇拝するという始末。
マリア・テレジア女帝はそんな息子の有様を心から嘆きます。
母の心子知らず。
合理主義者の大王がバッハに六声のフーガを鍵盤楽器で即興演奏せよと命じた無理難題とは、意外でも何でもない全く大王らしい所作だったのかもしれません。
名声だけでは信用せずに、実際にその目で実力を確かめないと気が済まない性質だったのでしょう。
人間の両手の指の数は十本なので、六本の指は常に鍵盤に触れていないといけないというが六声の音楽。
指を離すことのできる休符を含めるにしても至難の業です。
五声のフーガという超絶的な対位法音楽を、バッハも以前に平均律曲集の一環として作曲していたのでしたが、それを上回る六声の音楽を鍵盤楽器(フォルテピアノだったのかチェンバロだったのか、分かっていません)即興で演奏させるというのはあまりに無茶な話。
バッハが五声の音楽を創作していたという事実を、大王は彼に仕えていたバハの息子カール・フィリップ・エマニュエルから聴き知っていたのでしょうか。
バッハの生涯で最もドラマティックでスリリングな「音楽の捧げもの」の成立事情のエピソードは小説にさえもなっています。
1747年5月7日と翌8日の二日間に亘った、老バッハのフリードリヒ王との歴史的会見における心理的ドラマを父子の関係の葛藤こそが無理難題の源であるという説を物語にしたものですが、時代考証は最新の研究に基いています。
父王に虐待されて育ったフリードリヒの歪んだ内面とバッハが求める音楽の違いが二人の対照的な人生から描き出されるのです。
老バッハは敵国プロシアから祖国ザクセン選帝侯国に帰国して、ライプツィヒの自宅に戻ると、二か月ほどに時間をかけて、大王の主題に基く
10のカノン(五声のフーガも含めて。フーガはカノンの一種です)
1つのトリオ・ソナタ(全四楽章)
2つのリチェルカーレ(三声と六声)
が収められた曲集「音楽の捧げもの」を完成させ、フリードリヒ大王に献呈します。
大王のための特別装飾本には7月7日の日付が書き込まれています。
曲集に用いられた大王の主題は見事なものですが、事前に大王のためにカール・フィリップ・エマヌエルが用意したという説もあります。
ギャラント(当世流のメロディラインが分かりやすくて軽快な音楽)を好む大王の主題にしては、あまりに厳格なメロディです。
曲集は四分冊として、別々に100部が自費出版されます。
ライプツィヒ市当局に疎んじられていた老バッハは聖トーマス教会のカントルの仕事に嫌気がさしていたため、プロシアの宮廷に職を得ることを期待していたことは間違いないのですが、フリードリヒ大王がバッハの献呈に対して述べた言葉は何一つ伝えられてはいず、老バッハが大王の宮殿に再び招かれることはありませんでした(就職活動の失敗)。
献呈された「音楽の捧げもの」は、自筆譜にも出版譜にも、カノンやリチェルカーレには演奏すべき楽器は特に指定されていないために、いかにしてバッハ最晩年の力作「音楽の捧げもの」が演奏されるかは長年議論の対象であり続けてきました。
トリオ・ソナタ(三つの楽器で演奏される音楽)だけには楽器指定があり、明らかに、ここに含まれているフルートとは大王の楽器です。
で演奏されるのが最も美しいと思います。
通奏低音はチェンバロでもいいのですが。
さて、楽器指定がないために様々な楽器で演奏されてきた「音楽の捧げもの」。
バッハ畢生の名曲「音楽の捧げもの」演奏の歴史はそのまま、バッハ音楽演奏解釈の変遷の歴史でもあるのです。
オーケストラ版や室内楽版、チェンバロ独奏版、ピアノ演奏版など、本当にさまざまな解釈による録音が過去の20世紀の巨匠の時代から21世紀の最新の研究に戻づくものまで存在します。
二曲あるリチェルカーレは、フォルテピアノで演奏されるべきというのが、最新の研究に基づくバッハ研究者たちの結論です。
また大王に捧げられた献呈譜には
という副題が付けられていたといわれています(一般出版譜にはなし)。
この言葉の頭文字をつなげると
数字オタクのバッハらしい言葉遊び。
フォルテピアノで弾かれるべきリチェルカーレは実験音楽「音楽の捧げもの」を象徴する楽曲そのものなのです。
暗い色調の短調の音楽なのですが、悲哀や哀愁や寂寥感などとは無縁。
「音楽の捧げもの」は大王に聴かれて演奏されることを前提として作られた音楽なので、短調の調べは音楽の勇壮さの表現として使われます。
英雄の音楽は、明るい長調よりも、悲劇的な短調の調べが似合います。
音楽はテンポを頻繁に変えてしまうロマン的でゆっくりとした演奏では悲哀感が増しますが、リズムがしっかりと刻まれた生き生きとした前向きの演奏では、どんなに寂しげな短調の曲想でも、聴き手を落ち込ませたりはしないのです。
バッハの音楽とはそういう音楽なのでしょう。
大バッハの全ての作品の中の最高傑作の最有力候補である「音楽の捧げもの」。
聴く者を勇気づけてくれる力にあふれている音楽です。
歴史的録音の変遷
19世紀的後期ロマン派解釈によるモダン楽器演奏から、1960年代に始まるバッハ時代の複製楽器(古楽器)を経て、モダン楽器による古楽演奏解釈における演奏まで、バッハ演奏には本当にいろんなスタイルが存在します。
この曲を好きになれば、本当に多彩な演奏を楽しめるわけです。
編曲しないと演奏不可能な楽譜なので、どれが正統だとかなどという不毛な議論はわきに置いておいて、思い切り編曲を楽しめるといえるでしょうか。
ピアノのバッハが形容矛盾ならば、やはりモダンオーケストラにおけるバッハもまた形容矛盾(バッハの時代の楽器はモダンオーケストラの楽器とは全くの別物でした)。
モダン楽器のブランデンブルク協奏曲演奏は今日では全くの時代遅れ。
ピアノで弾く、鍵盤楽器をソロに持つ第5番など、その最たるものなのですが、未来志向の「音楽の捧げもの」はどのようなスタイルの演奏も許容するように思えます。
バッハの演奏様式の変化の歴史を辿ると、バッハ音楽の本質が理解できます。
「音楽の捧げもの」演奏史には、バッハ音楽の多彩さと可能性の在り方が詰め込まれています。
カールミュンヒンガー&シュトゥットガルト室内管弦楽団(1955年)
旧時代の典型的なバッハ演奏。オーケストラ版。
あまりにロマンティックで非十八世紀的。
ミュンヒンガーはベートーヴェンやブラームスの交響曲を演奏する同じ流儀でバッハを演奏。
バッハはいかに演奏されるべきか、まだ理解されていなかった、古き良き時代の演奏。
メンデルスゾーンがロマンティックな脚色を加えて、19世紀初めに忘れられていた「マタイ受難曲」を蘇演させた時代の精神そのままの演奏ともいえるでしょう。
カール・リヒター&ミュンヘン・バッハ管弦楽団(1963年)
バッハ時代の復古楽器が一般的に注目され始めたのは1970年代でした。
その少し前、モダン楽器でバッハを19世紀的な後期ロマン派スタイルで演奏することから峻別して、グレン・グールドのピアノ演奏同様に、強拍を徹底的に強調してリズムを際立たせることで、旧世代とは一線を画した、生命力あふれる大変に魅力的なバッハ演奏を行ったのが、カール・リヒターと彼の手勢のミュンヘン・バッハ管弦楽団(および合唱団)でした。
しかしながら、古楽器復興運動の隆盛によって、現代楽器でバッハを演奏することはアカデミズムから批判されるようになります。
リヒターはそのような批判を真摯に受け止めて、やがては演奏スタイルをよりロマンティックなものへと逆行させてゆきますが、急速に衰えてゆく自身の健康状態のために、これまでの自身のバッハ演奏解釈に疑念を抱きつつ、失意のなかで1980年に早すぎる死を迎えるのでした。
20世紀の最大のバッハ音楽の伝道者として、特に日本では、いまも深く敬愛されています。
いくつかの録音は全くの時代遅れとなったリヒターのバッハですが(モダンチェンバロ演奏など)過渡期の時代の偉大なバッハ演奏として、一聴に値します。
カール・リヒターはバッハ音楽の踊るような心地よいリズムを強調することで、時代を超越した稀有な名演を数多く残したのです。
「音楽の捧げもの」の録音もそうした素晴らしい遺産のひとつです。
ニコラウス・アーノンクール&ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス(1970年)
バッハルネサンス・古楽復興の最大の推進者の一人であるアーノンクールらによるチェンバロ演奏。
リチェルカーレはジルバーマンピアノではなく、チェンバロでの演奏。
どの楽器で演奏すべきなのか、学者の意見も一致していない時代でした(利用できる復元楽器の数も非常に限られていて、バッハ専門家であってもなかなか利用できなかったのでした。次に紹介するケーゲルは例外)。
バッハ時代の楽器でバッハを演奏すべきという運動を促進する、アーノンクールやブリュッヘンやレオンハルトたちの前衛的な演奏は、20世紀のバッハ演奏を一新します。
あまりに誠実な人柄のリヒターは、これらの新しいスタイルの録音のために自信喪失して演奏スタイルを変えてゆき、よりロマン的な演奏へと傾倒していったというわけです。
ヘルベルト・ケーゲル&ライプツィヒ放送交響楽団員(1972年)
ドイツが第二次大変後に東西に分裂していた時代、バッハの活躍していたザクセン選帝侯国領(現ザクセン州)は共産圏の東ドイツ側に属していました。
東ドイツでは、西側とは全く違う文化政策のために、面白いバッハ演奏が生まれました。
社会主義国家の親玉のソヴィエト連邦とは異なって、東ドイツにおいては前衛音楽の演奏や研究も許容されていたのです。
国家予算でドイツ音楽は聴き手の有無にかかわらず、国民を啓蒙する目的で国家予算で演奏さえもされていたのでした。
バッハは(東ドイツの主張によれば)西ドイツの作曲家ではなく、「東ドイツ」の大作曲家として、東ドイツが誇るべき英雄でした。
そのような東ドイツにおける無調音楽の擁護者だったケーゲルは、現代音楽以外はあまり演奏しない音楽家でしたが、バッハの前衛音楽「音楽の捧げもの」を東ベルリンの現代作曲家パウル・デッサウ(ケーゲルの師)による、合唱さえも含まれる斬新な編曲で録音。
曲順も大胆にトリオ・ソナタを曲中央へと入れ替えていますが、ロマン的な解釈による演奏で、交響曲のなかの悲劇的なアダージョといった趣です。
最後の「六声のリチェルカーレ」はアントン・ヴェーベルンによる珍しい編曲版を使用(恐らく世界初録音。ブーレーズの欄でこの編曲については後述します)。
続くカノン群は舞曲的で交響曲の第三楽章のよう。
終局のリチェルカーレなどは、まさにバッハ作曲の一大交響曲のフィナーレ。
大王の主題が次から次へと違うカラフルな楽器に受け継がれてゆく様は、対位法音楽を聴く醍醐味を存分に味合わせてくれます。
鍵盤楽器で演奏されるよりも、異なる音色と音質のさまざまな楽器たちのために、ダイナミックに、三次元的に、ドラマティックになるのですから。
わたしはケーゲルの名演奏のCDを所有しているのですが、
というマニア向けのドイツのマイナーレーベルの音源のためか、YouTubeでは聞くことができません。
ですので、残念ながら中国のサイト Billibili からしか音源はオンラインでは見つけることができませんでした。
著作権のためにYouTubeやSpotifyでは公開できないのでしょうか。
リチェルカーレには、フリードリヒ大王が所有していたポツダム・サンスーシ宮殿のジルバーマン製フォルテピアノ(ドイツ語のハンマーフリューゲル Hammerflügel)が特別に録音に使用されました。
大王のフォルテピアノにおける「音楽の捧げもの」の世界最初の録音。
この楽器を選んだケーゲルの慧眼に脱帽です。
これもまた、フリードリヒ大王ゆかりのポツダムが東ドイツに所属していたからこそ実現した奇跡でしょう。
先に書いた例を再び用いれば、フォルテピアノのリチェルカーレは交響曲の導入部の序奏のようなものでしょうか。
デッサウとヴェーベルン編曲のバッハは近未来的。
復古運動によりバッハのオリジナル楽器で演奏されることが当たり前となった名曲「音楽の捧げもの」には、もはやこのようなスタイルの演奏はおそらく将来的にほとんどありえないために、20世紀という時代を記録する偉大な歴史的録音でしょう。
前衛音楽としてのバッハ。
私が最も好きな「音楽の捧げもの」の録音であるばかりか、わたしにとってすべてのバッハ録音の中でも最も大事なバッハ録音のひとつでもあります。
ピエール・ブーレーズ&ベルリンフィル(1995年)
セリエル音楽の推進者として知られた作曲家ブーレーズ (1925-2016) は晩年、ベルリンフィルなどの指揮者として活躍しましたが、アントン・ヴェーベルン研究者として、ヴェーベルン全曲録音なども行っていました。
そうした録音の一環としてヴェーベルン (1883-1945) による「音楽の捧げもの」の管弦楽版編曲を録音。
バッハは古楽器で演奏されるべきという風潮が全盛の時代に、非18世紀的なセリエル音楽開祖の作曲家によるバッハの編曲がこうして再び脚光を浴びたことは画期的だったでしょうか。
バッハをモダン楽器で演奏することが正しくないことならば、あえて編曲されたバッハを演奏しようという試みでした。
こういう風潮が生まれていたのが20世紀の最後の十年のこと。
ヴェーベルンのバッハは未来世界のバッハであるかのように、他のどのバッハ演奏や編曲版とも異質な美しさに彩られたものです(リチェルカーレは普通は鍵盤楽器で演奏されるのでなおさらです)。
モダンピアノによる六声のリチェルカーレ(2016):国際バッハピアノコンクールより
古楽器復古演奏の巨匠たちが大活躍して、十八世紀的なバロック演奏の在り方を世界中の音楽ファンに啓蒙したのが二十世紀最後の二十年ほどでした。
その反動なのか、ドイツバイエルン州のヴュルツブルクにおいては「国際バッハピアノコンクール」というコンクールさえ開催されるようになります。
1992年より三年ごとに開催されている音楽の祭典、演奏される音楽はオールバッハ(ピアノで演奏されるバッハの音楽だけのコンクール)!
ピアノのバッハという矛盾は、もはや古楽器復興運動により、バッハの時代の楽器と様式でバッハは演奏されるべきというアカデミズムを生み出しましたが、同時にバッハは幼少時代より平均律曲集を弾いていたというベートーヴェン以来、ピアノで弾かれ続けてきたことも事実。
ピアノで演奏されるバッハには二百年ほどの歴史が築き上げられているがゆえに、ピアノにおけるバッハ演奏には偉大な歴史が刻まれてきています。
チェルニーが校訂した楽譜のロマン派的なバッハから、二十世紀の即物的なバッハ演奏(バッハの楽譜には表情記号が書かれていないので明らかに数多くの問題があります)、やがてはグレン・グールド・チューレックによるチェンバロ的演奏の登場と後継者アンドラーシュ・シフの演奏。
間違った認識を正すべきなのか、ピアノで演奏されることを前提にされていなかった楽譜を「ピアノ曲」として美しく響くように演奏する技術を磨くべきなのか?
コンクールで演奏された六声のリチェルカーレのピアノ演奏。
バッハ演奏の二つの方向性
バッハはピアノという楽器を知っていれば「六つのパルティータ」や「イギリス組曲」のようにチェンバロ演奏のために特化した音楽は書かなかったはずです。
でもピアノという楽器は、オーケストラ同様に、楽譜に書いて音符にしてしまえば、どんな音楽でも演奏できてしまうという汎用性を備えた近代楽器。
そしてどんな音楽もピアノで弾かれると、何を弾いてもピアノの美しさを引き出すための素材となるのです。
バッハやモーツァルトの楽譜もまた、楽器を奏でるための素材でしかないという立場からすれば「ピアノのバッハ」はピアノという楽器にとっての最良の演奏素材なのでした。
ピアノで奏でられるバッハは、18世紀のバッハの時代のバッハではないけれども、ピアノが我々の文化の中の一部、日常の風景になった世界では、それがバッハ本来の音であるかどうかなんて、あまり重要なことではないのかもしれない。特に一般的な音楽愛好家にとっては。
例えば、こういう翻訳詩があるとしましょう:
ドイツ語で読まない日本語に翻訳されたリルケの詩からでは、リルケは正しく理解できないのでしょうか?
日本語とドイツ語はあまりに言語体系が違うので、逐語訳してしまったら詩の美しさは一切損なわれてしまう。
日本語は脚韻しない言葉なので、
などの韻の響きの美しさは失われてしまう。
日本語には強弱アクセントさえもない(アクセントがないことが日本語の個性で美しさ、でも西洋詩の翻訳には致命的)。
単語ごとに対応する言葉に置き換えるべきか、
または意訳して詩の含蓄する本質的な意味のみを伝えるべきなのか、
または失われてしまう韻やリズムなどの詩の音素が持つ美しさをどれほどに再現すべきなのか?
ピアノのバッハとはそういう問題。
ピアノという翻訳機を介して味わうバッハ。
それがピアノのバッハ。
ピアノとは18世紀の音を20世紀・21世紀の世界に蘇らせてくれる魔法の楽器のようなもの。
ピアノのバッハという矛盾
ピアノのバッハ。美しい日本語です。
英語に訳すとすると:
文法的にはどれも(おそらく)正しい「ピアノのバッハ」。
日本語の「ピアノのバッハ」という言い回しには、これらの英語のどのニュアンスも含んでいるように思えます。
バッハという古風でいて誰よりも音楽の本質を体現した音楽を現代に伝える翻訳機こそがピアノ。
バッハはモダンピアノを弾かなかった(モーツァルトもまた同じ)ことは歴史的事実。
このことを理解していることはとても大事。
けれども、だからといって、ピアノでバッハを弾いてはいけないというのはどういうことだろう?
「さくら・さくら・弥生の空は」という日本的な音楽をピアノで弾くと、例えば、幻想曲「さくらさくら」では東洋音階が西洋楽器のピアノで奏でられる不思議な音楽になるのだけれども、やはりどこかおかしい。
オーセンティックではない、けれども美しい!
古楽器とモダン楽器の違い
この言葉の意味を、古楽演奏の権威の言葉を借りて考えてみましょう。
そしてこの言葉が示唆するバッハの演奏の可能性を探ってみましょう。
世界的なバッハ演奏家の鈴木雅明氏は「語る音楽」であるバロックの不均等の美学を次のように説明されています。
すなわち、全ての音を均等に奏でようとするという発想はフランス革命以後の考え方なのです。
これは古楽復興運動を力強く引率したニコラウス・アーノンクールの言葉でもあります。
と表現したくなるバロック音楽の響きの不均等さは、ポピュラー音楽のドラムの
というビート感に通じてしまうことは偶然なのか、必然なのか。
20世紀になって、博物館から引っ張り出してきた17世紀や18世紀の楽器を復元して演奏してみると(アメリカのスミソニアン博物館やフリードリヒ大王所有だったポツダムの楽器など)不均等の美学はあの時代においては正しかったことが実証されました。
再現された当時の楽器を用いて、音階を均等な音で鳴らしてみると、それは物理的にあまりにも不自然だったのです。
つまり、弾きにくい!正しい弾き方ではない。
これがバッハの古楽器復古運動でした。
バッハやヘンデルやスカルラッティがどうして楽譜にあのような音符を書いたのか、なぜあれほどにショパンやシューマンやラフマニノフの音符とは異なるのか、いまでは解き明かされてしまったといえるのです。
ピアノでバッハを演奏するとは?
現代のモダンピアノのレガートの美学は、バロック時代の美学とは別の次元のものです。
「フォルテピアノ」から「ピアノフォルテ」を経て、やがてはただの「ピアノ」と呼ばれるようになった楽器は、ダイナミックな強弱表現と繊細なハンマーとダンパーの効果のために「歌う楽器」として、レガートする打楽器へと変貌しました。
歌のように音と音の間を作らないで全ての音を繋ぐ手法であるレガートは、チェンバロ演奏では、特別に意識して用いられる音楽表現のひとつでしかなかったものでした。
その特殊奏法だったレガート演奏を容易にしたピアノという楽器では、やがてレガートすることがピアノらしさそのものというまでに尊重されるようになります。
隣り合う音を鳴らすのに、吸盤のように引っ付けた指を鍵盤からギリギリまで離してはならないと。
レガートされたピアノの切れ目のないフレーズは息の長い歌になり、レガートされたピアノの奏でる音楽は、リズム感さえもあまり感じさせなくなるに至ります。歌う打楽器の誕生です。
ピアノ以前の楽器の音が伸びない残響の乏しいハープシコードは踊りを限りなく志向し、ピアノの足元に常設されるようになったダンパーペダルは、指が叩いた鍵盤の音を昇華させてカンタービレな歌へと限りなく近づいてゆくのでした。
ピアノがピアノ的であればあるほど歌になり、ハープシコードがハープシコード的であればあるほど舞踏となる。
でもピアノという高性能な歌える楽器は、叩く楽器として使えば、ハープシコードにも似た表現さえも可能にしてしまうのでした。
そのために、こうしてハープシコード(チェンバロ)は忘れ去られてゆき、バッハを正しく奏でる技法は百年以上も忘れ去られてしまっていたのでした。
翻訳文学としてのピアノのバッハ
バッハの楽譜 (原書) はオリジナルの言語で読むべき (チェンバロで奏でるべき) かもしれない。
でもオリジナルの言葉で読めないならば、翻訳 (ピアノ) を使って理解するしかない。
たくさんの翻訳家 (演奏家) がいるのだけれども、翻訳家の原書理解のレベルがあまりにも違うので(バッハ理解の歴史的相違)
原書の言葉を逐語訳的に訳すよりも(バッハのスタイルで演奏)
新しい言語で最も美しい言葉に意訳する人もいれば(バッハにピアノ的な解釈を加えて演奏)
原書らしさを活かした硬い表現で訳そうとする人もいる(チェンバロ的な音をピアノで演奏する)。
楽譜という曖昧極まりない記号を通して伝えられたバッハの音楽の言葉は、19世紀以降の音楽とは別の時代の外国語のようなものなので、翻訳されないと、もはや我々の耳にはバッハは届かない。
バッハを奏でる手法は楽譜には書かれていない。
鈴木雅明氏が語ったようなバロック音楽の不文律を理解しなければわからない。
それでもなお、いやそれだからこそ、バッハにはまだまだ解読されつくされていない忘れ去られた演奏技法があるのかもしれない。
われわれの翻訳には、まだまだたくさんの改良の余地が残されているのかもしれないのです。
(続く)
ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。