Ei blot til lyst: ただ愉しみばかりではなく
北欧デンマークのコペンハーゲンの王立劇場には
という言葉が舞台正面の上方に掲げられているそうです。
二十世紀の芸術映画
わたしは映画が大好きなのですが、当然ながら、どんな映画でも好きなわけではない。
好きなのは、製作者が映画を芸術と意識して制作しているような映画。
最近のコンピューターグラフィックで仮想な映像を機械的に作り出した映画よりも、CGが映画に使われるようになる以前の本物の舞台装置を作り上げて撮られた映画が好き。
全ての芸術作品は受容する側から見れば皆娯楽作品といえるけれども、質の高い娯楽作品は時代を超えて愛される普遍性を持ち、人生の大切な真理さえも語ってくれたり仄めかしたりする。
小説に喩えるならば良質な純文学的な映画。
純文学や大衆文学の区分は欧米にはない、日本独自の分類なのですが、自分はまさに「Ei blot til lyst」、たた娯楽快楽のためだけに作られてはいない映画が好きなのです。
ゲーテは伝記作家のエッカーマンに、閣下はどうして百万の人たちに読まれるような作品を書かないのですか?と問われて、一年に一万人の人に百年読み続けられるならば、百万人の人に自分の作品は読まれることになると答えたとか。ゲーテは大ベストセラーになったヴェルテルを除けば基本的に高踏過ぎて売れない作家でした。
そういう作品をわたしは好みます。
一年で百万人が視聴するような作品は往々にして数年後には忘れ去られるものです。
映画を一本見る時間はたかだか二時間、でもただ息抜きのために娯楽映画を見て、一日の大切な二時間を浪費したくはない。一度見て終わってすぐに忘れてしまうような映画ではなく、鑑賞後に映画から受けた感銘を誰かに語りたくなるような映画が好き。
つまらない時間潰しの映画は自分には人生の浪費です。多分自分の人生も後半戦に突入しました。残りの人生を無駄に過ごしたくはない。
音楽鑑賞にせよ映画にせよ観劇にせよ、「Ei blot til lyst」には心から共感します。
勉強のためではなく、誰かの違った人生を眺めてみることで、見てよかったなと思えるものがいい。悲劇でも喜劇でも。人生の糧になるような。食べ過ぎはダメだけど、ときどきこういう映画を心底観たくなる。
巨匠ベルイマン
ただの娯楽に終わらない純文学的な映画を作った二十世紀の映画巨匠がスウェーデンのイングマール・ベルイマン (1918-2007) でした。
代表作はたくさんありますが、1950年代の「第七の封印」や「野いちご」やイングリッドバーグマンを主演に据えた「秋のソナタ」などが有名。
わたしはベルイマンの大ファンです。
この投稿はベルイマンが最後の作品として彼の映画人生の全てを賭けて製作した大傑作「ファニーとアレクサンデル」について。
公開は1982年。まだ見ていなかった五時間にも及ぶテレビ放送版。2023年の初映画として二日かけて見ました。
上演に三時間かかる劇場映画版と、さらには劇場版では語られなかったエピソードを含んだ五時間にも及ぶテレビ放送版が存在します。劇場版はずっと前に見て深い感動を覚えたのでしたが、五時間のヴァージョンもずっと見てみたかったのに機会に恵まれず、今回ようやくこうして見ることができました。
ディレクターズカット版とも言える五時間もかかるテレビ放送版をDVDで鑑賞して、映画版ではよく分からなかった繋がりが分かるようになり、久々に素晴らしい映画体験を楽しめました。
劇場版では割愛された二時間に、劇場版では知ることのできなかった、この物語の大切な深みをより堪能できたのでした。
特に作品の終わりの部分が異なるのです。
三時間版と五時間版の二つの作品の違った余韻はそれぞれに良さがあります。
劇場版は司教の亡霊がアレクサンデルに不安を煽るアンチハッピーエンドな終わり方をしましたが、長い長い五時間版は劇場版の終結部の後にまだ続きがあり、最後はおばあさんの慰めに満ちた締めくくりの言葉をアレクサンデルが聞いて幕切れです。
やはり映画はカット・ペイストの編集の芸術なのだという感を強くしました。
映画の中の映画というべき作品
さて「ファニーとアレクサンデル」。シェイクスピア劇のように五幕構成で、前後にはプロローグとエピソード付き。
一族の中で一番小さなファニーとアレクサンデルという兄妹の視点から描き出した、スウェーデンの大家族エクダール家の二年間の物語なのですが、妹のファニーにはこれといった役割はなく、大人の事情で変化してゆく環境の中で最も影響を受けてゆくのは多感な年頃の歳上のアレクサンデルで、彼が実質的な主人公。
映画は編集の芸術だと述べましたが、三時間の劇場版ではまさにアレクサンデル視点で物語が展開してゆくのですが、二時間も追加されたテレビ放送版では、アレクサンデルの周りの人たちのエピソードが充実していて、群像劇となります。
どちらが良いかは好み次第かもしれないのですが、劇場版の方がドラマチック。でもテレビ放送版ではエクダール家の一人一人をさらによく知れて、いろんな人生がこの一見幸せそうに見える家族の中に複雑に絡み合っていることが知れるのです。
パーティ大好きで、人生は短い、楽しめる時に楽しめというモットーのこの家にはたくさんの悲しみがあり、人生に疲れた人たちがいる。
でも見ていて気が滅入るわけではなく、彼らの喜怒哀楽にしみじみと共感してしまう。
この映画にはいろんなテーマが込められていて、誰もが作者ベルクマンが子供の頃に感じたであろう宗教へと不信と神の沈黙が主要テーマであると指摘できるでしょうが、それ以上にこの映画の大切な部分は慰めではないかとも思えます。
精一杯生きててどうにも上手くゆかない。そんな人たちの寂しさと優しさとお互いへと思いやりに心打たれます。
シェイクスピアの「ハムレット」の亡霊役を演じながら、ファニーとアレクサンデルの父親のオスカルは死んでゆきますが、印象に残ったのは「十二夜」の道化の歌に、アレクサンデルが真似して語った劇冒頭の言葉。
音楽が恋の糧ならば、奏で続けよ!
この言葉もやはり暗示的。シェイクスピアの十二夜を読んでからこの映画を見ると映画世界が重層化するようです。シェイクスピアを読んでてよかった。
ベルイマンは本当に引用が上手なのですね。
映画の見どころ
Spoiler ネタバレなしで映画を紹介したいで、ハイライトをわたしの独断と偏見から語ります。
映画はアレクサンデルが舞台の模型の中で人形を使って遊んでいる場面から始まりますが、映画の一番最初に出てくるのが上記のEi blot til lystという言葉。
この言葉は本当にこの映画のみならず、映画生活を三十年以上過ごした映画人ベルイマンの映画への想いが込められていますよね。
そして、この言葉を導いてくれるのが、素晴らしい音楽なのです。この映画は映像美と名優たちの演技が中心で、ほとんどBGMがない。だからこそ、この映画に用いられた二つの音楽たちが本当に印象深く耳に残ります。
良い映画にはムードを盛り立てる軽薄なBGMなんて必要ない。そう思わせてくれる映画の中の映画の模範的なBGMの使い方です。
ロベルト・シューマンのピアノ五重奏曲
映画はドイツロマン派音楽の作曲家シューマンの人気曲ピアノ五重奏曲から始まるのですが、第二楽章の中間のトリオと呼ばれる部分に置かれた世にも美しい音楽から始まるのです。
曲の冒頭からではなく、抒情的な中間部から始めるという発想。そしてやがて抒情的なトリオが已むと不安を煽り立てる主部になるのです。この部分の映像と音楽の組み合わせは天才的です。
この曲はシューマンの室内楽時代の屈指の名作 (シューマンはあるジャンルの作品ばかりを数年ごとに行った作曲家で、若い頃はピアノ曲ばかり、やがて結婚すると歌曲ばかり、そして交響曲の年、室内楽の年、オラトリオの年と、あるジャンルの創作を短期間に徹底的に行ったのです)。
こんなにも見事にクラシック音楽を映画に使った例をわたしは他に知りません。モーツァルトのピアノ協奏曲二十一番やラフマニノフのピアノ協奏曲を使って素晴らしい映画を作った例はありますが、ここまでぴったりな使用例は稀なのです。
この映画のために作られたかのような音楽。ベルイマンはクラシック音楽を知悉していた人ですが、そんな彼の理想的なBGMの選択ですね。
映画の中では、のロマンチックの塊のような夢見る音楽が劇場芸術のロマンチックな場面を象徴する音楽として鳴るのです。第一幕のアレクサンデルの劇場芸術の神秘的世界への憧れを表現した音楽として最高です。素晴らしい映画導入部。
ベンジャミンブリテンのチェロ組曲
でも物語は母親の再婚によって、アレクサンデルの世界は一変します。
不安に満ちた世界には音楽も絵画もほとんどない。
再婚した母の住む、簡素で一才の飾りのない司教の館に鳴り響くのは司教の吹く木製フルートのバッハのト短調のシチリアーノ、
そしてアレクサンデルと母親エミリーの精神的不安を体現するような二十世紀英国のブリテン作曲の不協和だらけのチェロ音楽。
音楽不在の孤独な世界には夢見るロマンチックな音楽は必要ないのです。
ひたすら音と会話すらない映像の上に鳴り響く不気味なチェロの響き。
でも虐待と監禁の日々が終わると、やはりシューマンの愛に満ちた音楽の世界がもう一度蘇るのです。
わたしはたくさんの映画を見てきましたが、この映画は間違いなく生涯に見た映画の中のベストな作品。また数年後に見返したい作品です。
映画はただの娯楽ではなく、疲れたものに慰めと希望を与えてくれる。
疲れているのは自分一人ではないと思わせてくれます。忙しい日々に疲れていて、この休暇期間中にこの映画に出会えたことに感謝します。
是非ともお時間のある時に一気に三時間なり五時間なりの作品を手に取ってご鑑賞ください。
劇場版は英語字幕で無料で視聴できます。会話はもちろんスウェーデン語です。
1907年のスウェーデンのエクダール家。100年以上も昔でも人々の暮らしは変わらなかった。お金持ちでも心配ことはたくさんあり、希望を持てない人たちもたくさんいた。お金がなくても夢見ることを知っている人もいた。想像力の翼は何も持たない人達の方に備わっているのでしょうね。
贅沢な大邸宅も心を満たさない。どんな豪華な飾りや彫像も無機質な命なきオブジェでしかない。
幼いアレクサンデルは大邸宅の贅沢な調度品などを所有しないし、愛着も抱いていない。彼はそんな空間で生きていて、ここではないどこかを夢想している。だから想像力でアレクサンデルの世界では彫像たちさえも動き出す。
五時間のテレビ放送版は次のような言葉を祖母が孫のアレクサンデルに語ることで幕を閉じます。劇場版には含まれなかった部分。
映画は映像の芸術ですが、言葉なき映像に語られない言葉を読み取るのはわたしたちの想像力。映画という虚構の映像空間に何を読み取れるかは見る人次第だけれども、「ファニーとアレクサンデル」には本当にたくさんのものが詰まっている。
ユダヤ人ヤコブの人形だらけの家に吊るされた人形たちは生きていない。でもひとたび舞台に上がれば命を得て語り出して歌い出す。
映画もまたそんな世界ですね。日本語字幕付きのDVDを購入しましたが、DVDは死んだようなもの。でも作品を再生すると作品世界が蘇る。終わってケースにしまわれても作品を鑑賞した自分には作品の余剰に包まれていて、DVDを手に取ると作品世界がありありと完全に浮かび上がる。
動画配信で見ては味わえない映画の醍醐味かも。映画館ならばパンフレットを眺めたりして。
想像力の大切さ。
11歳にまもなくなるアレクサンデルから学んだこと。彼の見た数々の幽霊は想像力の産物なのだろうけれども、誰にとっても心に印象を深く残した人は何度でも、Inaginary friend 自分にしか見えない想像上の友達のように傍に寄り添ってくれる。
死んだ人もいつまでも一緒にいてくれるし、無機質なオブジェも命を得て動き出すのです。
こういう味わい深い映画に出会えることはあまりありません。
あなたにもこんな映画の体験をしてほしい。そう思って書きました。こんな映画を好きになれる人と語り合いたい。そんなことを思っています。
シューマンの大傑作、全曲聴くならばイレーヌ・グリモーはいかがでしょうか。こういう音楽や映画を聴ける時間を大切にしたいですね。
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