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吉村昭の「漂流文学」

久しぶりに日本語の小説を読了しました。

普段は英語の本ばかりを読んでいるのですが、数か月ぶりに読み通した日本語の本が、吉村昭の著した新書本。

電子書籍版でしたが、吉村氏の格調高い文体と、無駄のない文章に心打たれたのは、句読点の使い方がしっかりとしていて、区切るべきところをしっかりと区切ると読み易くなるということを改めて思い知らされたからです。

このNoteにこうして文章を書いていて、どこで読点(、)を打つべきか、時折悩んだりしますが、吉村昭の文章は、読点とは読み手に読み易さを与えるためにあるものなのだなということを教えてくれて、つくづく感じ入ります。

このウェブ空間では、多くの方が画面の小さなスマホでNoteを読まれるので、一行ごとに段落を設けられる方もいます(私も真似してます。原稿用紙に書くならば、こんなに段落を区切ることはありません)。

隙間だらけの文章は、確かに読みやすさを考慮したスマホ読者への心優しい配慮なのですが、読みごたえと感銘深さが失われてしまっているなと思わずにはいられません。

本格的な文章は、ウェブ上ではやはり難しい。英語はウェブでも書籍上でも似たようなものなのに。

資料を誰よりも読み込んで、昏い歴史の中に光を当てて、知られざる歴史を新しい視点から語る、失われた時代を蘇らせた、大作家吉村昭の文章を読めたことは幸いでした。

わたしは吉村昭が大好きですので、彼の遺した漂流文学または海洋文学の素晴らしさについて、少しばかり語ってみたいと思います。

吉村昭の海洋文学

吉村昭は、昭和二年 (1927) に生まれて、平成一八年 (2006) に他界した作家。

2011年の東日本大震災の折には、八十年前の津波の悲劇を克明に記録したノン・フィクション「三陸海岸大津波」がベストセラーになりもしましたが、わたしは資料を徹底的に読み込んでフィクションを書き加えることなく、森鴎外的な「史実そのまま」の立場で物語る吉村昭の海洋文学を愛読しています。

海洋文学は、漂流文学とも言えるもので、海洋国家イギリスで数多く生み出されたのは、当然ながらイギリスは四方を海に囲まれた島国だから。

デフォーの「ロビンソンクルーソー」やスウィフトの「ガリヴァー旅行記」のような作品は、海のない国や海の生活にあまり関連を持たない国からは生まれないものです。

日本もイギリス同様に海に囲まれた島国なのに、海の文学がほとんど書かれなかったことを訝しく思った吉村昭は、鎖国を国策とした江戸時代の漂流民の記録に注目して、日本にも海洋文学が存在したことを知らしめたのです。

昭和の大作家である井上靖は「おろしや国酔夢譚」という小説をものして、漂流してロシアのアリューシャン列島に流され、挙句にはロシアの女帝エカテリーナに会見したのちに帰国した大黒屋光太夫を主人公にしました。

映画も作られたほどに見事な井上靖らしい名作ですが、鎖国中の十一代将軍家斉の時代の日本に帰国した光太夫は、その後、自由を奪われて悲劇的な最期を迎えたように小説は描きます。

しかし2003年の吉村昭の小説「大黒屋光太夫」では、井上靖の目にしなかった資料を探りあて、光太夫の帰国後の生活は、ある程度の自由の与えられた幸福なものだったと書くのです。

別の昭和の大作家、司馬遼太郎の「菜の花の沖」は、北方領土の島々からの産物を本土へともたらす航路を開いた、淡路島出身の船頭の類稀なる生涯を描きました。この書において、そ江戸時代には一本柱で舵か不自由な千石船しか存在しなかったのは、江戸幕府の国策により、遠洋航海を可能とする複数のマストを持つ大型船を作ることは禁じられていたと論じましたが、吉村昭は別の学説と複数の資料を提示することでそうではなかったのだと喝破します。

色んな意味で、吉村昭は二十世紀の終わりから二十一世紀の初めに、新しいノンフィクション文学を作り出したのです。

司馬遼太郎は読んだけど、吉村昭は読んだことはないという方には是非とも吉村昭を手に取っていただきたいです。

私は学生時代に司馬遼太郎全集のほとんどを読破しました。吉村昭の著作は司馬遼太郎の小説の題材と重なることが多いのですが、吉村昭を読むと、司馬遼太郎にはどれほど多くのフィクションが紛れ込んでいるのかよく理解することができます。

日本の漂流者の記録である海洋文学

わたしが今回読んだのは次の作品です。

イギリス同様に日本にも漂流民による海洋文学は存在したと書き出して、ロシアより初めて日本へと帰還した漂流民大黒屋光太夫を論じます。光太夫は帰国できましたが、日本国の船舶は当然ながら一朝一夕では改善されず、日本船は定期的に遭難し続けていて、そのうちのいくつかは漂流したのです。

嵐に会い舵を壊され、黒潮に乗って光太夫同様にアリューシャン列島まで流された仙台の千石船の漂流民を、この書において吉村昭は描き出します。

当時の日本船はイギリスの遠洋航海に適した複数マストを持つ船とは全く違う構造を持つものでした。陸地に沿って大量の米俵を積んだ一本マストの、外海航海には全く向かない千石船でしたので、一度暴風雨に巻き込まれて黒潮に乗せられると、日本への帰国は覚束ないのでした。

ネタバレしたくないので詳細は誤魔化しますが、不凍港を獲得したいロシア帝国は南方の日本に興味を抱いていました。二十一世紀のプーチン・ロシアによるウクライナ侵攻も不凍港の獲得に関連したものです。

十八世紀、日本からの漂流民はロシアで優遇されました。ロシアは不凍港を得ようと日本にひとかたならぬ関心を持っていたからです。ですので漂流した者の幾人かはキリスト教に帰依してロシアに居残りましたが、祖国への望郷の念ゆえにキリスト教を拒み、異国にて苦しい生活を選ぶ者も多かったそうです。

ロシア永住を決めて洗礼を受けた漂流民は、日本語学校教師となりました。ロシアの国策は、将来の日本との交流のための人材養成要員を必要としたのです。鎖国していた日本に帰ることの困難さと、優遇された異国での待遇を天秤に掛ければ、帰国を断念するという選択肢は現実的なものだったことでしょう。

ですが、あくまで帰国を望む者もロシア帝国は利用しました。日本との国交樹立交渉の道具として利用価値ゆえです。

十九世紀初頭、若宮丸の乗組員は、苦難の末にペテルブルクの皇帝アレクサンドル一世と会見して日本へと送り出されるのです。1804年のことだそうで、皇帝は即位間もない頃で、中央ヨーロッパのアウシュテルリッツにおいてフランスのナポレオンと干戈を交えるのは、この翌年のことです。

帰国したいがためにロシアに馴染まず、異国にて苦しい暮らしを送っていた乗組員を送り返す使節団が組まれました。皇帝の名代はレザノフでしたが、使節団には、皇帝にロシアとの交易を開かせる道具として利用される帰国組以外に、なんと永住組の1人が通訳として含まれていたのでした。

こうして、異国における待遇の差より、犬猿の仲となっていた日本人同士が大西洋を超えて、南米の果てを横切り、さらには太平洋を北上してついには、ロシア領のアリューシャンまでまさに呉越同舟するのです。

最終的には通訳のキリスト教に改宗した日本人は帰国せず、残りの四人が長崎に帰り着いて、初めて世界一周した日本人としてのちに記録されることになりますが、この世界一周旅行中の日本人同士の醜い対立が心に残りました。

海外で助け合わない邦人たち

わたしは海外在住三十年近くになりますが、邦人同士だから海外において日本人同士が仲良くなるということがあまりないという実態に嫌というほど接してきました。

海外では日本人と関係を持ちたくないという日本人に本当にたくさん出逢います。「日本人だから」親切にしようとかいう感覚が海外の日本人には乏しいのです。

日本文化には、日本人同士助け合うという文化はほとんどないのではという実感をわたしは抱いています。

海外の中国人は、華人同士仲良くしよう仲良くなるべきと、誰もがすぐに親しくなるのを何度も目にしましたが、同じことは日本人同士ではなかなか起こらないのです。

十八世紀終わりのロシアにおける日本人漂流民たちも同様で、ロシアに残されたレザロフ使節による漂流民の記録からは、ロシア政府に厚遇される日本人と、そうでない帰国したい日本人たちが鋭く対立した様を伝えます。

二十一世紀の日本人の中にも受け継がれているらしい、日本人特有のグループ意識。

まさに日本文化なのですが、読んでいて辛くなり、悲しくなりました。

わたしには漂流して祖国に帰れないというロシアの同胞の哀れさ以上に、仲間間の、この厳しい亀裂に心が痛くなりました。

作者吉村昭も、このことを記録しておきたかったがゆえに、筆を取ったのだとも記載しています。

日本人論を作者はあえて論じはしませんが、久しぶりに読んだ、あまりにも痛切な日本人らしさの記述でした。

同胞とは何なのでしょうね。

人と人を繋ぐものとは

吉村昭文学の魅力は、徹底した資料を読み込んで史実を再構築する手腕の見事さです。

日本陸軍に取材した作品群はどれも迫真のノンフィクションですが、明治時代のヒグマと北海道開拓民の悲劇を描き出した「羆嵐」や蘭学者高野長英の伝記「長英逃亡」、またアイヌ文化を取材した漫画「ゴールデンカムイ」の愉快なサブキャラ白石の史実を描いた「破獄」なども、漂流物と同じくらいに素晴らしい作品たちです。

わたしは西洋文化のクラシック音楽や英語の歴史などの話をよく投稿していますが、時にはこういう読後感を書くのもいいものだなあと思います。

あるジャンルの本ばかり読み、そジャンルの知識を徹底的に極めることで、その分野に精通して専門的な知見を養うことは素晴らしいですが、たまには違ったジャンルの本に触れて、頭の中をリフレッシュすることは大切ですね。

好奇心を持ち続けること。自分の知らない世界と人生を知ること。

世の中、専門性を持つことの大切さをよく耳にしますが、よりよく人生を生きるには、広い分野に色んな関心を持つことが大切です。

人生に新しい関心を持ちたいなと思われる方には、吉村昭お勧めです。

人は自分の知らない他人に興味を持つとき、人生を広げることができそうです。同じような人生の関心を持つとき、我々はしばしば通じ合えます。でも人であるというだけで、日本人というつながりだけで誰かのことに関心を持てないのでしょうか。

特に漂流して、助け合わないと生きてゆけぬ極限に直面したとき、人は人であるというだけで助け合えるものなはず。だから見も知らぬ漂流民を無償で救出してくれる異国船の船乗りたちがいる。同国人でないから助けないということもない。

そして同国人だからこそ、対立してしまうこともあるのかもしれません。近すぎると憎しみ合うのかもしれません。

この「漂流」は、太平洋の火山島である鳥島に漂着した漂流民の記録。この本も人と人の助け合いについて考えさせてくれる名著です。

ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。