映画「オッペンハイマー」:原爆の父は悲劇の英雄ではない!
作品賞に男優賞を含めた、七つのアカデミー賞を受賞したクリストファー・ノーラン監督の「オッペンハイマー」を映画館で観ました。
わたしは海外在住ですので、公開が見送られていた日本とは違って、いつでも見ることができたのですが、ずっと見ないつもりでした。
「バーベンハイマー」なる言葉が生まれたほどに、超話題の映画だったので、俗受けする映画を好まない事情もあり、ずっとこの映画を敬遠していました。
同時に、この映画を日本国内の映画館で公開しないことは日本人の良心であると内心ほっとしていたわたしでしたが、アカデミー賞受賞のニュースを受けて、日本における一般上映が決定したことで、ようやく重い腰を上げて、映画館へと向かいました。
以下の文章は、読む人を選びます。
一部の方、特にアメリカが大好きといわれるような方を不快にさせてしまうかもしれません。
以下の映画感想はわたしの独断と偏見ですが、日本という国を愛する方には共感していただけるのでは。
映画「オッペンハイマー」とは
芸術的映画としては、世界的に大変な興行成績を上げている、よく作り込まれた、映画的には優れた作品です。
既に多くの名作を送り出してきた著名なノーマン監督の作品ですので、作品としての「質」は保障されています。
専門的な映画芸術に興味のある方は映画館に足を運ばれることに後悔することはないことでしょう。
しかしながら、映画の中で登場人物たちの「思想」が糾弾されるように、この映画の「思想」は賛否両論に晒されて然るべき偏ったものです。
1940年代から1960年代にかけての、第二次大戦のころから米ソ冷戦初期のアメリカ合衆国の文化と思想そのものが忠実に描かれていると言えるので、映画はリアリズム映画の大傑作なのかもしれません。
しかしまともな歴史感覚を持った日本国を愛する日本人が不快になる場面が少なくとも数か所あり、わたしは映画館の大スクリーンに映し出される映像に対して
と何度も心の中で独り言ちました。
ああ「アメリカって最低」と久しぶりに思い知りました。
こういう郵便切手を二十世紀には何度も発売して、かの国はアメリカの思想を国民に広めて、自己正当化していました。
「超大国アメリカの政治とは、覇権国家アメリカの文化とは何であるか」という疑問を抱かない人にはこの映画の鑑賞をお勧めいたしません。
本作品は、普遍的な人類の悲劇を描き出す映画であるよりも、アメリカ合衆国という国の特殊な文化事情に関する映画なのだとわたしは理解します。
つくづく、自分はアメリカ合衆国に住んでいなくてよかったと、映画館を後にしてほっとしました。
ますます普段から敬遠しているアメリカ映画が嫌いになりました。
映画技術的にも、脚本的にも、美術的にも、☆☆☆☆☆(五つ星)の名作と呼べることでしょう。
ですが、無辜の日本市民に対するアメリカの原爆兵器使用を肯定して、原爆完成を無邪気に喜んでいたアメリカ市民の熱狂、そして原爆投下と水爆開発を推進したトルーマン大統領(1884₋1972)の姿は醜悪です。
トルーマン大統領はルーズヴェルト大統領が在任中に死去したので、昇格した副大統領でした。
選挙によって選ばれてはいない、アメリカ政治史上、最悪の大統領として常に挙げられる人物です(トランプ前大統領以外で)。
と、映画では善人として描かれた主人公ロバート・オッペンハイマー以上に、第二次世界大戦当時のアメリカ政治に憤りを感じずにはいられないのです。
典型的なブックスマートなわたしは、歴史を相当に学んだ人間ですが、改めてあの時代のアメリカ政治の赤裸々な描写を目の当たりにすると、どうしようもない不快感に襲われます。
「観なければよかった」と後悔しています。
Noteに楽しい映画紹介のお話を書くことができない時点でアウトです。
そういう映画です。
エンタメ要素は皆無。笑える場面が全くない。
ヌードとセックスシーンがありますが、オッペンハイマーの愚かさを表現するのに必要な場面で、エンタメには程遠く、多くの国でCGがかけられたり、R15指定となっています。
倫理観念の希薄な、女たらしで愛人を自殺させてしまうような不倫男を、ノーラン監督は悲劇的な英雄であるかのように描き出しています。
特定の分野において、天才的な頭脳を持った人間が最低限の倫理観や人間性や想像力を持ち合わせていない例は歴史上、いくつもあります。
オッペンハイマーは、物理学という極めて高い知性を必要とする特殊分野における、阿呆な天才の典型。
自分が率先して開発した原爆が大量破壊兵器として日本で二度も使用されて、その惨状を戦後になってようやく学びます。
映画では原爆被害者の姿は語られるばかりで映し出されることはありません、主人公があまりの悲惨に対して正視に耐えられないので、主人公視点のために出てこないのです。
やがては自身を苛んでやまない良心の呵責ゆえに、自分の犯した罪に恐怖するのです。
そしてオッペンハイマーは水爆開発推進に反対の意を表して、トルーマン大統領と会見して、自分の手は血塗られているなどと慄くオッペンハイマーは全く愚かな男です。
そしてトルーマンはそんなオッペンハイマーを冷笑するのでした。
オッペンハイマーは悲劇的なプロメテウスなのか?
映画原作は「American Prometheus: The triumph and tragedy of J. Robert Oppenheimer」という題名の作品。
日本語にそのまま訳すと「アメリカのプロメテウス:J・ロバート・オッペンハイマーの大勝利と悲劇」ですが、邦訳はただ単に「オッペンハイマー」ですね。
プロメテウスの神話
ギリシア神話のプロメテウスをご存じですか?
映画においても、プロメテウスの物語が一番冒頭に文字で表示されて、物語が始まります。
プロメテウスはギリシア神話の巨人族の英雄。
プロメテウス(/prəmíːθiəs(米国英語), prəmíθjuːs(英国英語)/)の名前は
というように語源的に分解できます。
オリンポスの主神ゼウスと敵対する種族のプロメテウスは人類に肩入れして、神々の独占物だった火を神々の神殿から盗み出して、人間たちに与えたのはプロメテウスでした。
人々はプロメテウスの与えてくれた火のおかげで、冬には凍えずに、また火で調理もできるようになりました。
ギリシア神話においては、プロメテウスは人類の恩人なのです。
当然のことですが、火の力を独占していたゼウスは怒り、プロメテウスは捕らえて、絶対に外れることのない鎖で岩に縛り付けられて、大変な苦痛のなかで肝臓を食べられても、死ぬことはなく、やがて傷は再生して、再び大鷲に襲われ続けるという永遠の罰が与えられたのでした。
プロメテウスに擬えられるオッペンハイマー
原作(映画)は物理学者ロバート・オッペンハイマーをギリシア神話の英雄プロメテウスに擬えます。
火(原子爆弾)を人類に与えたけれども、そのために罰を受けた悲劇的人物として。
ですが、実際のところ、彼はギリシア神話の愚者代表のエピメテウスです。
エピメテウスは物事を前もって考えることなく行動して、起こってしまってから後悔する男。
そしてエピメデウスの奥さんは有名なパンドーラ。
だからわたしは、映画の中で描かれる主人公の苦悩に全く共感も感情移入もできないまま、真っ暗な映画館の中で180分という長い時間を過ごしたのでした。
アメリカ合衆国という国
第二次世界大戦後、赤狩りと呼ばれる共産主義者排斥運動が全米で繰り広げられて、数多くの映画関係者や著名人が公の場から追放されました。
映画にもあるように、原爆開発成功は戦争の終わりではなく、新しい冷戦という模擬第三次世界大戦の始まりだったのですから。
戦後のアメリカでは、共産党(アメリカに敵対するソヴィエト)に関係したとされる人物は公職追放を受けました。
赤狩りのお話は次のマンガに詳しいです。
ソヴィエトを排除するあまりに、無罪の人たちまでも巻き込んで無数の悲劇が引き起こされました。
自国第一主義が行き過ぎると、他の国を犠牲にしてもいいという考えにも辿り着く。
核戦争は地球そのものを再起不能なほどに汚してしまう。
映画でもオッペンハイマーが見る悪夢として表現される原子爆弾、水素爆弾による世界の消滅。
夢物語ではなかったし、これからもそうではない。
オッペンハイマーの原爆は、プロメテウスの火だったのか?
絶対にNO!
わたしの見解では、パンドラの箱(=原子爆弾の実用化)を開けた愚かな男がオッペンハイマー。
エピメテウスとパンドーラが二人合わさるとオッペンハイマーなのでは。
映画の中で、やはり重要な役割を担うアルバート・アインシュタイン博士との役割の対比が印象的でした。
原子爆弾の誕生を予見しながらも、自分は加担することなく、物理学者としてというよりも、人間的により賢明だったアインシュタインは、パンドーラの箱を開けなかった。
オッペンハイマーは科学的な可能性を学者として実証したかったがゆえに、マンハッタン計画の中心人物となり、砂漠での世界初の原爆実験「トリニティ実験」を成功させたのでした。
理論上は理解されていた核爆発を実験するには巨額の資金を提供するスポンサーが必要でした。アメリカ政府はオッペンハイマーの虚栄心を満たしてやったのでした。
もちろんアメリカ政府はオッペンハイマーを利用しただけだったので、戦後、水爆開発に反対した彼を弊履のごとくに切り捨てました。
オッペンハイマーはプロメテウスでしょうか?
世界に原子爆弾という火を与えた英雄なのでしょうか?
映画をご覧になられる方は、心してご覧になってください。
映画「オッペンハイマー」を既に観た、世界中の数百万の人たちは何を思ったのでしょうか?
興行収入が五億ドルを超えているのは、ロシアがウクライナで核を使用するかもしれないという危機感に駆られて、世界中の人がこの作品を見たという相乗効果のためであるとしても、オッペンハイマーを悲劇的な人物だと認識されるようになるのならば、大いなる錯覚と誤解です。
二重スパイとして暗躍した武器商人の坂本竜馬が、歴史学者ではなく、歴史小説家のペンの力を通じて英雄と認識されるようになったように、オッペンハイマーもまた英雄に祭り上げられるのでしょうか?
フィクション(映画)の功罪が問われるところです。
世界唯一の被爆国日本が、このような映画を喜んで受け入れて、アカデミー賞を総なめしたからなどと無批判に映画館に行列して、これ以上の興行的成功に加担するようなことはあってはならないとわたしは思います。
自分の言葉でこの作品を批判したかったので観てみましたが、やっぱり、こんな映画、見るべきではなかった。
追記:
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