子供のために書かれた物語で一番面白くないものは、教訓的なもの。
良い子はこうあるべきとか、予定調和的な勧善懲悪もの、修身的なものはつまらない。
最も面白いのは、やはり冒険物語。
子供を冒険に連れ出す一番手っ取り早い方法は、親と引き離すこと。
そうすることで否応なしに、保護者のいない日常生活は冒険世界へと変容するからです。
子供の頃に見たアニメのエピソードで忘れられないものがあります。
世界名作劇場ではない、別のテレビアニメ「ニルスのふしぎな旅」(1980) です。
スウェーデンの空を旅する物語
北欧の大国スウェーデンでは知らぬ者のいない「ニルスの不思議な旅」は、同国のノーベル賞受賞作家であるラーゲルレーヴ女史によって書かれた、スウェーデンの様々な土地にまつわる伝承や自然の厳しさやすばらしさを子供にも語り伝えてくれる名作児童文学の傑作。
いたずらっ子のニルスは妖精を捕まえて悪さをしようとするのですが、逆に魔法にかけられて小さな体に変えられてしまいます。そして、家畜だと野生の鴨たちに馬鹿にされていたアヒルのモルテンの背中に飛び乗って、空の旅に出るのです。
魔法の力で動物の言葉が分かるようになった、小さなニルスは動物たちの目線から、世界とは何かを学ぶ。
まさに親から切り離されて冒険に出かけてゆく児童文学の典型。
「ニルスの不思議な旅」がスウェーデンの国民的文学である理由は、もちろん少年の成長を描いた優れた児童文学であることですが、スウェーデン国内を旅するニルスは国中のいろんな街を訪れて、スウェーデンという歴史ある国の暮らしの全てを学んでゆくといった趣があることです。
沈んだ都イスの伝説
ニルスの物語に含まれている伝承はスウェーデン独自の文化が誇るべきもの。しかしながら、子供の頃にニルスのアニメを見た私の心を打った不思議な物語が一つありました。
アニメのニルスの第14話は「月夜に浮かぶ幻の街」。
それはフランスのブルターニュに知られる沈んだ都イスの物語。伝説のブルターニュの伝説がなんとニルスにも含まれていたのです。
それがわたしがこのブルターニュ伝説との生涯最初の出会いでした。
沈んだ都の伝説をご存知でしょうか?
大西洋に向かって突き出しているフランス西海岸の半島ブルターニュは、その地理的特異性ゆえにフランス文化上でも非常にユニークな存在。
英名のBrittany(フランス語でBretagne)はそのままBritaniaに通じます。ブリタニア島(つまり現代の英国)に住んでいた古代ブリトン人が対岸の半島に移りすみ、原住していた古代ケルト人と結びついてブルターニュが生まれるのです。
ジグソーのはまる英国側の一番下の部分はコーンウォール地方で、フランス読みするとコロヌアイユCornouaille=Cornwall。
そしてフランス側のコロヌアイユこそが沈んだ都イス伝説の舞台。
同じ名が対岸のブルターニュにも存在するのです(矢印の差している辺りがコロヌアイユ)。二つの地は間違いなく繋がりあっています。
ブルターニュはフランスの中心より最も遠い地であり、またイギリスと最も縁が深い地であるがゆえに伝説の地となるにふさわしいのです。
ケルト伝説の異郷ブルターニュはコーンウォールでありコロヌアイユなのです。
太古の昔には数多くのネアンデルタール人が居住していたことが考古学的に知られています。
ブルターニュは長らく独立国であり、フランスに併合されたのも15世紀も終わりの頃。独自の文化を育んできたことで今日のブルターニュがあるわけです。
ブリトン人とケルト人の文化の融合から生まれたブルターニュ文化の特徴は口承伝説。文字よりも口承を重んじたのです(聖なる事柄は文字にしてはいけないという伝統)。
ゆえに口承伝説がブルターニュ文化の真髄とさえなり、イスの伝説はブルターニュで最も大切な伝説の一つ。もうひとつの有名なブルターニュの物語は
トリスタンとイゾルデの悲恋物語
アイルランドのイゾルデ姫はイスの姫であるとも、イゾルデの夫であるマルケ王が伝説の都イスのグラドロン王の娘のダユーに呪われるなどというバージョンも存在するそうです。
イギリス側のコーンウォールは現在伝えられるトリスタンとイゾルデ伝説の舞台ですが(ヴァーグナーの楽劇も同様)、トリスタン終焉の地はフランスのブルターニュ。
ブルターニュには、トリスタン島なる名の島さえも存在します。しかしこのコーンウォール、もしかしたら、イスのコロヌアイユであった可能性無きにしも非ずです。トリスタン伝説には数多くの異本が存在するのですから。
本題であるイスの伝承に戻ると、伝えられる物語はこのようなものです。要約してみます。
これがイスの伝説。
海底から鳴り響いてくる鐘の音がイス伝説の象徴でしょうか。
イスにまつわる芸術作品
沈められた都の伝承は、古代ギリシアのプラトンが伝えるアトランティスにも通じます(アトランティスの起源は、紀元前17世紀のギリシア南のサントリーニ島のミノア噴火でヨーロッパ最古の文明であるミノア文明の滅亡が由来であるという説が濃厚)。
そして神の怒りを買った都というイメージは、バベルの塔を創り上げようとした旧約聖書のバビロンや天の火によって焼かれた、ソドムとゴモラをも想起させるものです。
アトランティスの場所を特定する試みは日本における邪馬台国の所在地探しにも似た所業にも思えるので、わたしは深入りしませんが、沈んだ都イスがブルターニュのどこにあったのかは、おそらく誰にも分らない。
波の音と共に響いてくる鐘の音が鳴り響く沈んだ都という物語に人々が魅了され、後々までに語り継がれていったという事実が興味深い。
海に呑まれた都伝説は、19世紀にフランスの作曲家エドゥアール・ラロによってオペラ化されます (1866–1888)。ラロは「スペイン交響曲」と呼ばれる名作ヴァイオリン協奏曲やチェロ協奏曲で最もよく知られている作曲家。
しかしこのオペラにおいては、悲劇に終わるべきイスの物語は王女の自己犠牲によって町は海底には沈みません。王女は人身御供となってイスの都を救うのです。
1884年にはエヴァリスト・リュミネによって「イスの王グラドロンの逃避行」が描かれます。
水没しようとせんイスより間一髪で逃げ出してきた、グラドロン王の白馬から海へと転がり落ちようとしているのは娘のダユー。隣の馬に乗るのは罪なき王を救出しに来た聖ゲノレ。
聖ゲノレは娘を見捨てよと王に告げる。ダユーは今まさに海に呑まれんとしている。こういうドラマのある絵画なのです。
リュミネ (1822–1896) もまたブルターニュの主要都市であるナント出身の画家。
また、沈んだ町が海底より浮上して姿を現す情景を見事に音楽化したのがフランスのクロード・ドビュッシーのピアノ曲「沈める寺」。
前奏曲曲集第一巻の10曲目です。海面下より月明かりに照らされるなか、浮上する寺院の姿がピアノという残響の楽器の特性を最大限に生かした形で、音として描写されるのです。1909年から1910年の作曲。
スウェーデンのラーゲルレーヴのニルスが書かれたのもドビュッシーの作品とちょうど同時期 (1907–1908)。
ルナンの回想録
ブルターニュ出身の宗教思想家エルネスト・ルナン Joseph Ernest Renan (1823–1892)の著書「幼年時代青年時代の思い出」(1883) にはこう書き記されています。
このルナンの記述はまさにドビュッシーの作曲「沈める寺」そのもの。
イス伝説には我々が望むロマンティックな幻想物語の全てが面白いくらいに詰まっています。
スウェーデンの沈める都
このようなロマンティックなイスの都の伝説が、スウェーデンのラーゲルレーヴの物語にも含まれているのです。
ですが、ラーゲルレーヴの解釈は大分、ブルターニュのオリジナルの伝説のものとは違います。きっとその違いの部分にラーゲルレーヴの想いが込められているのです。
ラーゲルレーヴ版ではこう伝えられています。
ニルスの物語には、イス(ヴィネータの都) が赦される可能性が示されているのです。
青空文庫に原作(第十四章:海の底の都)を見つけましたので、これをご紹介します。
ほんの10ページほどの短編ですが、味わい深い物語です。そしてここにイス伝説の本質が描かれていると思えます。
海の底の都(ニルスの不思議な旅より)
今まで知らなかった世界を、魔法で小さな体にされて動物たちと旅することで学んだニルスが見たもの。それは沈んだ都でした。
ニルスはこの沈んだ都と遭遇することで、人としてイスの都の運命を悲しみ涙する。
ニルスが浮上した沈んだ都に足を踏み入れたはとても彼の成長にとって大事なことだったと思います。
小さなニルスに委ねられたイス (ヴィネータの都) の運命は、ニルスには果たすことができない。
失われてしまったものは取り戻せない。
失くしてしまったもの。
人生は喪失によってできている。ニルスは喪失を学ぶ。大人へと一歩近づいたのです。
説教じみた教訓物語なんかではない、人生とは何かを伝える物語なのだと私は思います。忘れ得ぬ物語です。
参考文献: