ピアノのバッハ 14: ピアノで奏でるコラール(2)
前回からの続きです。
カンタータ第147番より
ハリエット・コーヘンが反ユダヤ主義を掲げるナチスドイツに敵対してユダヤ人難民支援を行った理由はドイツ滞在中に大量のユダヤ難民がどこかへ列車で連れてゆかれる場面を目撃したことがあまりにも衝撃的だったからなどといわれています(連れてゆかれた彼らの終着駅は幾つも散財した強制収容所のひとつだったことでしょう)。
ユダヤ人排斥をドイツ国内で合法化させた1935年9月のニュルンベルク法が施行されたドイツを訪れていたコーエンが目撃したユダヤ人たちを見たことは、彼女の危険なユダヤ人支援への決意を固めさせた決定的な要因なのかもしれませんが、実のところ、ハリエット・コーヘンには本国イギリスに住んでいるユダヤ人の従姉妹がいました。
バッハの名編曲を通じて広く知られているマイラ・ヘス(Dame Myra Hess 1890-1965)です。
ヘスはハリエット・コーエンほどには世界的な名声を得ることなく、彼女の活動は主に英国内に限定されたものだったのでしたが、彼女の名声は現在においても、あるバッハ作品の編曲において永遠に不滅です。
バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」はバッハの全作品の中でも抜群の知名度を誇る作品。
いろんな編曲版があり、初心者でも弾ける、左手が単音のベース音、右手は単音のメロディなんていう楽譜でも、この曲はすこぶる美しい。
でもプロの演奏者が選ぶ編曲版の決定版はマイラ・ヘス編曲版です。
マイラ・ヘス版は、絶対に初心者には演奏できない、かなりの演奏技術を必要とする編曲。
四つのメロディを弾き分けるピアノ
四つのメロディを独立させてカンタービレで歌うのは容易ではありません。
「メロディと伴奏という音楽」という音楽であるかのように知られていた曲を、バッハ原曲に立ち返り、編曲者ヘスは「複旋律音楽」としてピアニストに提供したのでした。
このような編曲版はそれまでにはない画期的な「ピアノのバッハ」でした。
こんなにも心洗われるような美しい音楽はバッハにおいても数少ないのですが、多声音楽として各声部をカンタービレ(歌わせると)すると、音楽をし普段聞かない人の心さえ揺り動かす音楽。
ピアノはメロディ+和音の楽器かもしれませんが、一台のピアノでバッハを弾く醍醐味は横に流れてゆく複数のメロディを同時に奏でること。
強弱の引き分けができるという唯一無二の鍵盤楽器ピアノでしかできないことです。
この曲はバッハにとっても特別な音楽。
というのも、バッハがこの世で誰よりも愛したイエス賛歌であり、主イエスへの無上の愛の歌なのですから。
バッハが書いたラヴソング!
カンタータ22番のコラールは、「わたしを生まれ変わらせてください」という祈りの歌でしたが、カンタータ147番のコラールは愛の告白の歌なのでした。
バッハにとっても極めて珍しい愛の歌。
もちろんエロスの愛ではなく、アガペの愛。
性欲によらない愛をご存じですか?
イエスを信じていなくても、誰かを一度でも心から愛したことのある人ならばわかることでしょう。
この人のためならばなんだってできる。
この人の愛に報いられるほどに、自分はあなたを愛することができない。
この人のためならば自分の命だって惜しくはない。
あなたはわたしの全て。
わたしはあなたにすべてを捧げます。
ストイックな、またはプラトニックな愛。
利己のためではなく、利他の愛。
子どもへの子孫への愛は、ある意味で利己的な遺伝子保存の意思なのかもしれませんが、自分を捨てて誰かにわが命を与える愛はやはり我々にとって何よりも尊いし美しい。
そんな愛。
最愛の恋人や愛する妻や夫やこれまで自分を育ててくれた両親にでも。
子を持たれた経験のある方ならば、生まれたばかりの自分の血を引く我が子に対して、お前のためならば死んでもいい!なんて思いを一度でも持ったことがあるのでは。
親は臓器移植を必要とする我が子のために自分の肺や肝臓を与えてしまってもいいとさえ思う。
「神は愛である」という信条から生まれたキリスト教なくしてこの愛の歌は生まれなかったのですが、愛することのすばらしさを知る人ならば、音楽が赤裸々にうたい上げる愛の賛歌に共感しない人はいないはずです。
至上の愛の歌だから、バッハの全作品の中でも最も美しく、最も慈愛に満ちたメロディが歌われるのです。
慈愛のメロディを言葉で表現することは難しいのですが、主音のソから始まって音階を一段ずつ、時には一段飛ばして、また降りてを繰り返してオクターヴ上にたどり着くと降りてゆくというアーチ形のメロディ。
こういうメロディでは言いようのない優しさが表現されるのです。
受難曲やヘ短調の器楽曲などではアーチ型メロディはしばしば十字架を暗示する音型なのですが、この場合でも十字架を意味するのでしょうか。
受難曲などでは、山なり音型の音符群の終わりに、必ず臨時記号のシャープが含まれるのですぐに見つけることができます。
十字架は受難ばかりではなく、最愛の我が子を人の罪の贖罪のために人類に与えたという神の愛の象徴でもあるのですから。
十字架上のイエスの死ほどに神の愛を象徴するものはあり得ないのです。
ドイツ語歌詞を世俗的に意訳してみると
これをチャットGPT3.5を使ってJPOP風(笑)にしてみると
あなたに夢中。あなたのためならばなんだってできるという(信仰=愛の)告白の歌。
これほどの愛にあふれているので、ドイツ語が分からなくても、素晴らしいメロディで歌われる真摯な愛の心情ゆえにこの歌は我々の心を打つのです。
これは編曲者マイラヘス本人の1957年のステレオ録音。
マイラは硬派なピアニスト、屈指のベートーヴェン弾きのピアニストとして、特に戦中の英国で行った慈善コンサートにおいて広く知られた名演奏家なのでしたが、やはり彼女の全盛期はステレオ録音時代以前だったので、彼女の演奏は日本では広くは知られていません。
AI技術による復刻が長足の進歩を遂げた2020年代。
二十世紀の音楽愛好家が楽しみたくても楽しめなかった古い時代の名演奏をわれわれは最新のAI復刻技術によって音声が鮮明になった数多くの伝説の演奏家たちの演奏をYouTubeやSpotifyなどから無償またはサブスクなどで聴くことができます。
でも今のところ、マイラ・ヘス録音のリマスターの良いものは少ないのは残念です。
次の演奏はどこかマイラ・ヘスに似た雰囲気を持つクララ・ハスキルによる名演。
この動画にはマイラ・ヘスの写真がたくさん含まれていて生前の彼女の姿を偲ぶことができます。
次はクラシック音楽の老舗ドイツ・グラモフォン社の提供する最新のデジタル録音による動画。
ダニイル・トリモフォフは中間部のコラールでは感情の昂ぶりを表現するに鍵盤を叩きつけるようにメロディを奏でて、そのあとまたコラールを静かな祈りに変えるのです。ユニークな演奏。
音による最高のラヴレター!
ドイツ語オリジナル「Jesu, bleibet meine Freude」は直訳すると「イエス様はいつまでもわたしの喜び」。
英訳は「Jesu Joy of Man's Desiring」。
邦訳は「主よ、人の望みの喜びよ」。
なんだかオリジナルとだいぶん違う印象を受けるのですが、いずれにせよ、この曲は聖書の音楽家バッハが作曲した最上の愛の歌なのです。
愛の歌に勝る人間の歌は存在しえません。
バッハ全作品を一曲で代表させる珠玉の一曲
偉大な作曲家の音楽を「珠玉の一曲だけで代表させよ」と問われると、
モーツァルトならば「アヴェ・ヴェルム・コルプス」
ハイドンならば「皇帝賛歌」
ベートーヴェンならば「バガテル・イ短調:エリーゼのために」
シューベルトならば「(ハイネの)セレナーデ」
シューマンならば「トロイメライ」
メンデルスゾーンならば「舟歌・作品19の6」
ショパンならば「別れの曲」
ヴァーグナーならば「(タンホイザーの)夕星の歌」
ブラームスならば「子守歌」
とわたしは答えます(私の独断と偏見ではこのような感じになります)。
もちろん、バッハならば「主よ、人の望みの喜びよ」。
歌詞のついていない「G線上のアリア」でもいいのですが、バッハの人生においてより深い意味を持った音楽はカンタータです。
だからわたしはこちらを選びます。
こんなに素晴らしい愛の歌はバッハの全作品を探しても他にはあり得ない。
この曲がクラシック音楽の枠組みを超えて広く愛されているゆえんです。
バッハ音楽の普遍性:マイラ・ヘスを超えて
例えば、ジャック・ルシエがジャズ・アレンジして、シンバルやトライアングルが鳴り響いても、スウィングしても、アドリブで変容しても、やはりバッハの愛の歌は愛の歌のまま、聴き手の心を打つ。
こちらはソロジャズピアノ(ドラムとベースとのピアノトリオ)。とてもロマンティックだけれども、バッハの世界はそのままに。
新しい録音ではジョー・バティステが素晴らしい。
バッハの愛の歌はジャズの世界でもスタンダード!
ヴィブラフォンでも美しい!
最後はまたクラシック。
合唱を八人の歌手だけで歌わせたヴァージョンも素敵です。
生涯の最期のとき、聴きながら逝きたいと思えるような音楽のひとつです。
この曲を生涯の最期の公開演奏会で奏でて、若くして死んでいった伝説の演奏家がいます。
享年33歳の彼が最期の最後に選んだ歌はマイラ・ヘス編曲の「主よ、人の望みの喜びよ」でした。
あまりにも有名なのですが、クラシック音楽の演奏家にまつわるエピソードの中でも最も感動的な実話。
次回はわたしが心から敬愛するディヌ・リパッティ(1917‐1950)のお話です。
リパッティはわたしの「ピアノのバッハ」の原点です。
ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。