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僕と弟

僕は弟にコンプレックスを抱いしている。僕より3歳下の方弟は、16歳以下の日本サッカー代表に選出され遠征試合や強化合宿で国内外を飛び回っている。
僕たちはどこにでもいる普通の兄弟だった。外で鬼ごっこをしたり、隠れんぼをしたり、時にはもちろん喧嘩もした。いつも一緒にいた。同じ家で同じものを食べ、同じテレビを見て、一緒に眠り毎日笑いながらすごした。同じクラブチームに通ってサッカーをするのも一緒だった。

僕が高校2年生になり、弟が中学二年生になったときのことだ。弟に日本代表入りの話が来た。あの青いユニフォームをきて日の丸を背負って弟がプレーをする日が来るなんて、僕だけでなく、家族中で、飛び上がって喜んだ。その時は本当に嬉しかった。自分のことのように、興奮して眠れないくらいだった。しかし、いつまでも嬉しいだけではいられなくなった。久しぶりに会う親戚たち、近所の住民たちは、こぞって弟の話題で盛り上がる。Jリーグのユースやサッカーの強豪高校などからの問い合わせや誘いも、ひっきりなしだ。ゴールキーパーとしての才能を高く評価されているらしい。次第にまわりから「○○君のお兄さん」というふうに呼ばれるようになった。僕は自分に自信がもてなくなった。弟のことを必要としてくれる人が、世の中にはこんなに大勢いるのに、僕ときたらどうだろう。僕もサッカーをしている。だが、高校のサッカー部では普通の一選手でしかない。なぜこんなにも僕と弟は違ってしまったのだろう。僕がやろうと誘って、一緒に始めたサッカーなのに、僕の方が上手かったはずなのに、弟に初めてボールの蹴り方を教えたのは僕だ。弟に対してコンプレックスを抱くようになった自分がたまらなく嫌だった。こんな気持ちを弟に知られてはいけない。もちろん親にだって知られたくはない。

そんな時だ。僕は部活動中に右肘に大きな怪我をした。右肘靱帯損傷、右肘脱臼骨折、橈骨頭骨折、僕はこの後、4ヶ月もピッチから去ることになる。大手術を終えて退院してから知った。もう右腕が動かなくなる可能性もあるくらい深刻な怪我であったことを。僕はどこまでもついていない。弟のように脚光をあびることはなくても、僕は僕なりにサッカーと向き合おうと考えていた。全力でプレーした結果がこれだ。それからリハビリの期間のことは、実を言うとあまり思い出したくはない。右肘の上下運動、指の開閉、筋力を取り戻すための運動の数々、痛いのはもちろん、本当にこの腕が元に戻るのか、戻ったとして、こんなに長く練習していない自分の技術はどのくらい落ちているのか、それをまた取り戻せるのか、僕は目の前が真っ暗になった。なぜだか僕は弟のことを考えた。僕は何をするにも中途半端で、飽きっぽい性格であった。弟は逆に、何をするにも一生懸命で、自分でやると決めたことは最後までやる男だ。弟は小さい頃からずっとプロサッカー選手になる、と言っていた。毎日努力して練習し、試合後のビデオを何度も見て、自分のプレーを反省したり、研究をしたりしていた。スポーツ選手だからと、炭酸ジュースは一切飲まない、風呂上がり、30分間のストレッチも毎日欠かさない、体づくりのためにご飯3杯を3食とにかく食べる。風呂では国歌斉唱の歌声も聞こえる。サッカーのためだけに生きているのかと思わせるくらい、ひたむきに努力している。僕はリハビリに励みながら、僕も弟のように人生を捧げられるくらい、一生懸命になれる何かを見つけたいと思った。そんな僕がようやく夢を見つけた。リハビリを担当してくれた理学療法士の方の影響で、スポーツトレーナーを目指したいと思ったのだ。絶望している僕を明るく励まし、何度も運動に付き合ってくれた。

僕は毎日のリハビリをこなしながら、少しずつ自分を取り戻して言った。弟のことを心から応援しよう。なんで弟と張り合おうとしていたのか、自分の心の狭さに気づき、そして弟に申し訳ないと思った。「弟さん凄いね」と誰かに言われると、素直に嬉しいと思えるようになった。そして何よりも、怪我をしたのが弟でなくて本当によかったと心から思っていた。僕は進学してスポーツトレーナーを目指す。選手から信頼されて、必要とされる、そんなスポーツトレーナーになりたい。リハビリを終えた僕はサッカー部に戻った。キャプテンを任されて、僕なりに一生懸命にボールを追いかけている。

いつかぼくの弟がプロサッカー選手になる夢を叶える時、僕はスポーツトレーナーとして弟の隣にいたい。