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スポーツと私(無気力時代)

前回は、小学生時代までのスポーツとのかかわりを書いた。
今回は、自分の人生の1回目のターニングポイント前までの高校2年生の夏までを。

 小学校をずっとサッカー漬けの生活を送っていたので、中学に入っても当たり前のようにサッカー部に入った。強豪校ではないが、たまたまその年はサッカー経験者の入部が多く、そこそこ強いメンバーがそろい、顧問の先生も鼻息荒かった。
 期待通り(?)か、中学生になった新人戦の市大会優勝。母校としては初の快挙。また中学生活最後の年も、市で優勝し、自身も市選抜に選ばれた。キャプテンも任されて、そこそこ楽しいサッカーライフを送っていた。普通は中学3年も夏が終わると、すべての公式戦が終わり、受験モードになる。ただ、自分は中高一貫の学校に通っていたので、秋からは高校のサッカー部に入って練習を送ることになった。
 学校始まって以来の成績を中学時代に成し遂げた黄金世代は、高校に行っても新しい顧問はじめ学校の期待を感じた。顧問の練習への熱気も感じるし、先輩の視線もビシビシ感じた。やっている自分たちも、高校レベルの差はそれほど感じず、少ししたら自分たち世代がレギュラーを取れると思っていた。ただ、まっていたのは自分たちが描く世界とは違った。。。
 待っていたのは雑用、さらには、なかばパワハラ的な顧問からの指導。顧問の先生は、監督でありながら、練習の時に必ず自分もプレーする人であった。部員も結構いたので、人が足りなかったわけでもない。自分がプレーするのが好きだったのだと思う。指導者としても、プレーヤーの個性を尊重するよりは、監督が理想とするプレースタイルを当てはめるタイプ。当然、練習で監督の理想と違うプレーをすると、指摘・指導されるのだが、それが罵声なのだ。自身もプレーしているので、どうしても熱がはいってしまっているのだろう。練習以外では、面倒見もあり、熱くいい先生なのだが、ピッチに上がると急変する。そんな先生であった。
 練習の中で、自分はどうしても自分がやっている事が間違っているとは思えない事が多々あった。僕はセンスでプレーする、というよりは、状況を把握して論理的なプレーをするタイプだったので、パスを出した理由も自分の中ではあるし、説明もできる。でも、それを説明する機会は与えられず、「こうしろ」と言われてきた。それがセオリーだと。でも、どうしても納得ができなかった。そんな指導が繰り返され、だんだんと自分の判断に自信をなくしていたし、なによりも楽しくなくなってきた。人に指図されてやるのはスポーツじゃないと感じた、最初の瞬間であった。
 結局、期待はされていた(だからこそ、色々指摘されていたはず、、、)とは思うが、耐え切れず、1年後の高校1年の秋にはサッカーをやめた。自分でもびっくりするくらい、スパッとやめた。顧問や先輩、仲間からは何度も説得してもらったが、気持ちが消えてしまったので、何も響かなかった。。。
 それから1年間は、まったくボールを蹴らなかった。急に放課後やることなくなったので、どういう経緯かわすれたけど、アルバイトを始めた。今思うと、17歳で、働いてお金を稼ぐ事を覚えたのはよかった。一生懸命働くと、お金がもらえる。これはこれで楽しみを感じた。もらったお金でバイト仲間と遊びに行く。。。悪行はしなかったが、部活をやめる事で社会勉強を早くから経験できた。
 ただ、当時とった写真を見返すと、締まりない体系に、目には光がない表情。自分の中で燃えるものがなくなっているのは明白だった。17歳。大学受験も控えているなかで、死んだ魚のような目をした、無気力状態。自分は、あのまま過ごしていたら、どういう人生を過ごしていたのだろう。。。
 そんな17歳の夏に突然、ターニングポイントがやってきたのである、、、父親の転勤であった。



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