「練馬」 4/15
それにしても、自分が妄想したことが現実になりかけていることに私は一人震えていた。事実は小説より奇なり、というか事実と小説が同じものになっている。
生きていればこんなこともあるのだなと思った。平たく言うと私は少しだけ舞い上がっていた。
私達は彼女の先導で練馬駅南の飲み屋街に向けて歩き始めた。
空は押し寄せる夜を退けられずにぐんぐんと暗くなった。私をさっきあざけ笑った夕日は明日の同じ時間になるまで来ない。
練馬駅南の飲み屋街は相変わらずだった。
私は以前喫茶店で隣に座っていたオバチャングループの会話を盗み聞きした際に聞いた話を思い出す。
練馬駅に飲み屋が何でこんなにも多いのかというと、練馬区の区庁舎から帰るサラリーマンや公務員の方が仕事帰りに寄るから、という話だった。
それを聞いた時私は隣の席で、そんなバカな。あそこに居る人だけで?と思った。しかし練馬駅周辺には区庁舎以外には大きなビルが無いことを後日自分の足で確認した。練馬駅周辺では、練馬区庁舎だけが他のビルに比べて著しく大きい。このビル一棟だけでどれほどの生活を支えているのか考えたら頭がクラクラしてきた。この街における生活の象徴そのものの様に見えた。そしてオバチャン達の話は信じてもいい話だと私の中で結論が出た。
その話を信じて以降、この飲み屋街に居るサラリーマン風の人は全員区庁舎で働いている人に見える様になった。流石にそれだけでは無い筈だが。
今日も飲み屋街はサラリーマン風の人達で賑やかだった。
どうやら彼女がさっきから携帯を弄っていたのは、お店を探していたからのようだった。私は今、背後から彼女の携帯電話を覗き見てしまった。飲食店を探すアプリを見ているようだ。
私に暇かどうか聞いてきた時には既に探し始めていたのかもしれない。まだ行くといっていなかったのに気が早いものだ。
店を決めて携帯電話を鞄に仕舞ってから、彼女の足取りは軽快になった。というか歩くスピードが早すぎて度々離されてしまう。たまに駆け足で追いついた。
彼女が案内したのは、練馬駅近くにあるチェーンの居酒屋だった。ちゃんと予算も聞いてくれて私が払える額か確認してくれた。こういうことに慣れているのだろう。手際が良かった。
私達は半個室のボックス席に座った。私達が座った後にカーテンが引かれる。店内は丁度稼ぎ時の時間なのだろう。大分混んでいて騒がしかった。乾杯をした後、彼女はいきなりこんなことを言ってきた。
「君ってきっとモテないよね」
急転直下だった。あっという間に死にたくなった。いっそ死んでやろうかと思った。しかし、今死んだら彼女に悪いから止めておく事とする。
モテないですね。よくわかりましたね。
「何て言うんだろう。滲み出てる!」
言いたいことがあったら全く我慢しないのが彼女の生き様なのだろう。はあ、かっこいいもんだな。私もこんな風に生きられたら、少しは違った人生になっただろうか。
そんな風に生きられなかったからこんな人生になっているような気がするので愚問中の愚問だった。
「でも、人は良いよね。きっと。隙がおおいっていうか、そういう感じはかわいいよ!」
急転直下からの大復活劇だった。落ちた先にトランポリンを用意しておいてくれたお陰でそのままの勢いで戻ってこれた。いやあ、ありがたい。
彼女とはこんな他愛の無い話を長い間した。
彼女の話はまるでジェットコースターのようだった。話題が今どこにあるのか気を張ってないと訳がわからなくなる。ちゃんと安全バーに捕まっていないとあっという間に吹っ飛ばされる。
吹っ飛ばされて落ちた先に何があるのか想像もしたくない。
とにかく会話の展開が速い。
私がこれまで話した事のある人の中で彼女は最速なのではないか。
「この間さあ、友達と買い物に行ったのね。電車で行ったんだけどね。大江戸線でね。私は出入り口のすぐ近くの席に座ってたの。隣に中々のイケメンが座っててね。あ、飲み物来たよ。君のだよね。あれ、どっちだっけ。あれ、そもそも頼んだっけ?頼んで無いっけ?関係ないけど君ってさあ、話に相槌打つの下手だよねぇ。下手っていうか何ていうか、タイミングが合わない?私たち気が合わないのかもね!あはは!」
ずっとこんな調子である。
話をする時彼女はジェスチャーも交えて大げさに話す。動く度に彼女のストレートヘアーはひらひら舞って綺麗だった。
人と会話するのは確かにあまり得意ではないが、彼女と話すのは難易度が高すぎるように思う。相槌なんて入れる隙間などない。風呂場のゴムパッキンのようにグリグリ詰め込んでくる。固まったあとから何かが入る隙間は無い。
彼女は自分の話をたくさんした。私としては綺麗な女性と二人で食事という時点で、本日の目標幸福獲得指数を大幅にオーバーしているので聞いているだけで良かった。良かったと言うか、彼女があまりにまくし立てるので良かったも悪かったも無い。初めから彼女の話を聞きに来たようなものなのだ。
彼女の出身は秋田県らしい。これを聞いたとき私はあきたこまちを連想した。中身はともかく外見は正にあきたこまちである。和装もとても似合いそうだ。では中身は何なのかという質問に対してはお答えできない。倫理的な問題が発生しかねない。
会話というのは本来キャッチボールで成立すると聞いている。相手が出身の話をしたら、私も出身の話をして始めてキャッチボール成立である。先に彼女の話を聞きに来ただけと書いたが、流石にこれでは彼女の情報ばかり受け取っているようで気が引けた。私も少しは私の話をしなければと思わせた。
しかし彼女はグローブすらはめているかどうか疑わしい。こっちのボールを受ける気があるのだろうか。もちろんこの時私も自分の出身の話をしようと思ったのだが、ボールを握った時点で彼女が当たり前が如く次の投球フォームに入った。しかもこれが剛速球なので私はすぐ持ちかけたボールを諦めてぽろぽろ落とした。地面は諦めて落としたボールで一杯である。後で話そうと思って落としたボールがどのボールだったかも最早分からない。大事なボールには色をつけておくべきだった。
そうしているうちに遂に仕事の話になった。彼女はこの話に限って私に色々と質問をしようとしているようだった。バツが悪い。ああ辛い。これはきっと辛いことになると私は心を落ち着かせ、何を言われても気にすることはないさ。大丈夫大丈夫と自分に言い聞かせて望んだ。対ショックシールドだ。スターウォーズでもこれが無い帝国軍のタイファイターは、あっという間に反乱同盟軍のXウィングに撃ち落とされる。
何しろ私は二十七歳で無職である。二十七歳で無職というのがどれほど恥ずかしい事なのか、私は無職になってからの半年間の中でしっかりと理解していなかったようだった。それは今、実感を伴って私の脳にしっかりと焼きついた。
私は万全の準備を整えて臨んだ。シールド展開。ゆっくりと慎重に話す。
しかし私はまた意表を突かれた。彼女は私が仕事のしている間、たまに質問をするくらいで他には相槌を打つだけだった。
私のこれまでの仕事の遍歴や、前の会社を健康の問題で辞めたことなど、彼女が聞く姿勢をとかないものだから洗いざらいすべて話してしまった。
結局それは私自身の人生の話そのものだった。
悲壮感を感じる内容も多かったと思う。
実際私も話している間、色々な事を思い出したりして言葉が少し詰まるところもあった。
そしてすべて話し終えた後、彼女は一言だけ神妙な顔をして言った。
「そっか。大変だったね」
いけない。いけないぞ。私よ。自我を大事にするのだ。今日会ったばかりではないか。ただお前は人に優しくしてもらって舞い上がっているのだ。
彼女の言葉の後、不覚にも涙がぽたぽたと、頬を伝って流れた。
ああ、恥ずかしい。私が飲んでいるウーロンハイに涙の雫が一滴落ちた。ウーロンハイは、この度めでたくウーロンソルトハイになった。おめでとう。そんなことを頭の中で考えながら色々な感情を水に流そうとした。ついでに、さっき養生テープで纏めたうんこも同時に流せないか考えた。これは無理だと実感した。思ったほど水流は強くなかった。
私は慣れない酒を飲んでいるのだ。酒を飲むと記憶を無くす程人が変わる人も居ると伝え聞く。それほどの劇物なのだ。私が酔っているせいでウーロンハイはウーロンソルトハイになった。決して私の意志がそうさせたのではない。分かって欲しい。
私が涙しているしばらくの間彼女は黙ったままで、私達の居るボックス席は水を打ったようであった。その時間は不思議と心が温まるものだった。
それからどのくらい経ったのか良く解らないが、私が落ち着いた後に彼女はこんな事を言ってきた。
彼女の話はいつも唐突のようだ。まさにジェットコースターだった。
「私、来月秋田に帰るんだよね。帰省じゃなくてね。地元で結婚するんだよね」
私は何故かパニックになりそうだったが、元々仕事の話の前に用意しておいた対ショック用シールドが無駄にならなかった。シールドのお陰で何とか死なずに済んだ。
しかし色々な機器にトラブルが発生してアラームが鳴り続けている。脳内では同乗しているチューバッカが修理に追われていた。
そうなんですね。おめでとう。
「うん。ありがとう。私はさ、君から見てどう?どんな人に見える?」
対ショックシールドがあったとはいえ、私はまだ次のボールに手を伸ばせるほどの胆力が無かった。次の言葉が出るまでにしばらくの時間を要した。しかし彼女は私の答えを待ったまま喋ろうとしないので何か言う他無い。
元気で明るくて正直で、僕では想像も出来ない人生を送っていそうだ。
どうやら私は飲みすぎて酔ってきているらしい。私のぼそぼそとした喋り方など全く関係なく、近くの席で宴会している人達は騒ぎ立てている。あそこに座っているサラリーマンのグループは一体何回乾杯をすれば気が済むのだろう。どういう文化なんだ。私は声のトーンを少し上げた。
何で結婚の話を今したのかはわからないけど、良い話だと思うよ。何でそんなに暗そうな顔して言うのかは分からないけどね。良いじゃない。うん。きっと良い事なんだよ。君は自分の事をどう評価してるのかは解らないけどさ、今日会ったばかりで君は僕に優しくしてくれたじゃない。優しいと思うよ。僕なんていうのは君にとって普段歩いていてすれ違うだけの存在だよ。正直、今日こうして遊んでくれて僕がどんなに嬉しかったか君には解らないと思うな。東京に来てこんな事が起こったのは初めてだよ。ああ、生きていて良かったとすら思ったのだからね。
火のついたガソリンの様に突然言葉をまくし立て始めた私に、彼女は最初、驚いていた。しかし途中から面白くなってきたのかくすくす笑い出した。くすくす笑っていたのは途中までで、笑い始めても私が喋るのを止めないので終盤は爆笑していた。
ひとしきり笑いきってから彼女は深呼吸した。
「ああ、面白い。私ってやっぱり人を見る目はあるんだなあ」
私はひとしきり言いたいことを言った事で悦に入っていた。ぐびぐび酒を飲んだ。ウーロンソルトハイはもう私の胃袋にしかない。
彼女は煙草を優雅に持ったまま私の目をじっと見て話す。私はどうやら酔っているらしく気が大きくなっていた。この時ばかりは彼女の目をじっと見つめてやろうと思った。しかし五秒ほどで動悸息切れの症状が出始めたので机の上にある骨だけになったホッケを見つめた。骨だけのホッケにはヒーリング効果があるようである。彼の目は死んでいた。
「ミスドでさあ、隣に居たじゃない?正直ね、あの時気になってたんだよね。風貌も謎すぎるし、何歳なのかも解らないし、携帯で何かずっと熱心に書いては笑っててさ。最初は正直気味が悪かったんだけどね。でも何か、楽しそうって思ったのね?そしたら段々面白くなってきてさ。流石に笑うのは失礼だって思ったの。で帰ったんだよね。外で会ったときはほんとビックリしたよ。あ、ねえねえ、あの時ミスドで何してたの?」
彼女のジェットコースタートークが急カーブしてきたので、危うく私は首が飛びそうだった。安全バーを掴むのを完全に忘れていた。私はかなり酔っていたけれどこればっかりははっきりと聞こえた。寧ろもっと酔っていたら良かったのかも知れない。
私はそれを言おうか迷った。喫茶店で隣に座った女の人の人生を勝手に頭の中で自分の都合の良い様に捻じ曲げて遊んでました。それを知ったら彼女は何と言うだろうか。私のその行為は人を踏みにじっているのと何が違うのだろう。
私は反省する。反省したのは良いのだけれど今は彼女の質問に答えなければならない。もうやりませんから勘弁してくださいでは通らない。やってしまった罪は償わなきゃならん。実刑になった私は獄中で何を思うだろうか。あんなことしなければ良かったと思うだろうか。やったことに対しては悔いは無いのだろうか。いや、待って欲しい。これは恥ずかしい事かも知れないが、実刑にはならない。犯罪ではない。
「大丈夫?」
いつもの様に癖で頭の中で遊んでいたら随分時間が経っていたらしい。くそ!大事なシンキングタイムを無駄にした。やはり人と話すのは難しい。余計な事を考えていたら着いていけない。どうにかこのピンチを乗り切らなければならない。どうしたらいいだろうか。
さて、話は前後してしまうが次に私から口をついて出た言葉について先に釈明したい。まず私は今日、普段飲まない酒を大量に飲んでいた関係でいわゆる酩酊直前であった。酒を飲んで記憶が無いからその間にしたことは罪にならない、何ていうのは甘えである。それはもちろん私としても理解している。しかし素面なのか酩酊状態なのかで言動や性格も多少変わってくる事も、これはほとんどの人間がそうだろう。
勿論私も例外ではない。つまり罪は消えなくとも理由にはなる。次に私は酩酊だろうがなんだろうが関係なく初めから舞い上がっていた。まるで夢を見ているような気分だったのだ。目の前に居る彼女のストレートヘアーは相変わらず動く度にひらひらして美しいので、どうやら現実らしい。現実らしいが酒の勢いも手伝って最早これは夢なのだと、私自身思おうとしていた。
つまり何が言いたいかというと、普段の私であれば絶対に口から出ない言葉が出たということを言いたいのである。本来はそんな軽率な人間ではない。何しろ私は半年間、ほとんど誰とも会わずに妄想を書き綴ったメモを大量にしたためて、時間が経って読み返してはほくそ笑んでいるだけの暗い生き物なのだ。先も彼女が言っていたではないか。正直気味が悪かったと。そう、そんな生き物なのだ。これを忘れないで欲しい。
一体これは何のための言い訳なのだろう。自分でも良く分からなかった。
じゃあさ、君が実家に帰っちゃうまでの間に、デートをしようよ。僕が心を許したら、きっとあの時何をしていたのか、明かすと思う。それまでは秘密だね。
彼女はそれを聞いて、今日一番の大爆笑をした。
途中で腹がよじれるーとか、息が出来ない!とか言っていた。時間にしておよそ二分間ほど笑い続けた。私はその二分間ほどの間に自分が言ったことに対しての罪を重く受け止めた。先にした釈明をずっと頭の中でしていた。
そして笑う事に満足した彼女は言う。
「いいよ。私は後は細かい仕事の色々で残ってるだけだから、旦那はもう向こうにいるしね。暇だからその遊びに乗ってみる。楽しそう。ふふふ、ね?」
遂に美女とのデートまで本日決まってしまった。私の脳内議会では祝いだ祝いだとクラッカーやらシャンパンシャワーやらで大いに盛り上った。いや待て。この人は決まった方が居る人なのだ。やっぱり旦那さんに悪いと思う。
自分から言っておいて何なんだけど、やっぱり旦那さんに悪いから止めておこうかなと思うよ。デートの話ね。
「旦那?ああ、大丈夫大丈夫。その程度だったら気にしない人だから平気だよ。どうしてもって言うなら先に本人に伝えておくけど?」
何という夫婦だろうか。新婚でその大らかさは驚きだな。そもそも私などで何か間違いなど起こらないと彼女に舐められているのだろう。
彼女に舐められているという言葉を、私はもう一度脳内で反芻した。そして若干興奮した。良い言葉なので覚えておこうと思った。
じゃあ、一応確認してもらっていいかな。殴られたりしないよね。
「あっはっは。大丈夫だってえ。まかしといて。」
時刻は既に0時を回ろうとしていた。気付いたら周りに居た沢山のお客さんも居なかった。皆、終電が近くなってきて帰ったのだろう。バックヤードで談笑している店員さん達の声が少しだけ聞こえた。
店内は静かで穏やかな空気だった。
「じゃあねえ」
彼女は携帯電話を見ながら何かを考えている。恐らく何時なら開いているか、スケジュール帳を開いて調べているのだろう。
私は携帯電話を取り出さない。何故なら私はスケジュール帳など付けていない。オールフリーだからである。そんな名前のノンアルコールビールがあった事を思い出した。今日飲んだのがノンアルコールで無かったことが良かったのか悪かったのかもう私には良くわからなかった。何しろ酩酊寸前なのだ。
その日は彼女と二回分のデートの日の約束をした。
これから何度も会うのだから、こういった場合は電話番号の交換をするものだと思っていたが、彼女はその事については何も言わなかったので私は拍子抜けした。ここまで来たのだから電話番号くらい手に入ると思っていた自分が恥ずかしい。その代わり日時と時間と待ち合わせ場所はしっかりと決めた。私は携帯電話にメモを取ろうと思った。
携帯電話のメモ帳を開くと、今日、ミスタードーナツで書きかけた彼女との出会いの嘘メモが表示されたままになっていた。
私は新規作成したメモに、「十日十時ミスタードーナツ、十四日十時ミスタードーナツ」と書き込んだ。
彼女はさっきから携帯電話をいじったままだ。旦那さんにメールでも書いているのかもしれない。
「君、お金無いんだよね。うーんどうしようかな」
どうやら彼女が当日もエスコートしてくれるらしい。いたれりつくせりだな。私は行くだけで良いのか。
まだ多少蓄えはあるからね。少しくらいなら大丈夫だよ。
私はここで大見栄を張った。何しろ真実は経済的に行き詰って親に仕送りを受けている身なのだ。罪悪感が高波になってどっと押し寄せてきた。強い波だったので私はもがき苦しんだ。
ぐるぐると波にかき回され、水面はどっちなのかすら解らない。やっとの思いで見つけた水面にたどり着く頃には、「私の人間性を変えるチャンス」という建前文句を思いついていた。
これを自分自身に対する言い訳として押し通す。それは建前でもあるが事実でもある。私は期待していた。こんなに未来が待ち遠しいのは久しぶりか、もしくは初めてだった。
「なるほどね。うん、うん。じゃあ当日ね。初めの一回は私が色々考えてあげる。次は君に考えてもらおう。楽しみだね」
そういうルールだったのか。二回目のデートまでまだかなり先ではあるが帰ったら色々参考資料を集めようと決心した。今から準備して間に合うかどうかギリギリといったところだろう。何しろエスコートするのが私なのだ。
随分飲み食いしたと思っていたが、会計は大した額にはならなかった。彼女の店の選び方が良かったのだろう。私は一時酩酊寸前だったのだが、今は少し落ち着いてきた。昨日までの私の世界と今日の私の世界の色の違いをぼんやり見比べていた。本当に不思議な感覚だった。意識はあるのだけれど肉体と上手く噛み合っていないような、浮き足立った気分だ。
そして私はビンタされた。
「おい!聞いてる?大丈夫?飲みすぎた?」
私は帰り支度を済ませ、立ち上がろうとする彼女に思いっきり殴られた。話を聞いていなかったのは悪いと思うけれど流石に強引すぎないか。
ここまで他人に思いっきり殴られる経験は、これまでの私の人生で一度でもあっただろうか。滅茶苦茶痛い。私は自分の顎がちゃんとはまっているか手でさすって確認した。彼女の話を聞いていないとこうなるのか。
これは辛い。これからは絶対に意識だけは失わないようにしようと心に誓った。
そして居酒屋を後にした。店を出るまでに通る席には客が一人も居なかった。もう閉店時間だったのかもしれない。
外に出た私達は向かい合った。真夏ではあったが今日は期待通り涼しい夜のようだ。風が少しだけ吹いていて心地良い。向かいの居酒屋のテラス席では、まだ若者達が騒いでいた。
「じゃあ、また今度ね。絶対忘れないでよ」
彼女は相変わらず私の目をじっと見たまま話す。私はというと見られていることは解っているのだが地面を見ていた。商店街のウネウネしたタイルの形が面白くて阿弥陀くじをしながら彼女の話を聞いていた。
うん、大丈夫。絶対。
麻薬の防犯ポスターみたいな言葉が出てきた。全く関係無いけれど、帰りに煙草を買って帰らないといけない事を思い出していた。
「よし!それじゃあまたね」
彼女が一歩一歩後ずさりながら手を振ったので、私は彼女の姿をもう一度しっかりと見る事にした。今日私の身に起こった事が嘘じゃなかったと最後に確認したかった。
彼女は白い肌を少しだけ赤くほてらせていて、ニコニコしたまま目線ははっきり私を見ていた。
一歩一歩後ずさりするたびに黒くて長いロングヘアーはひらひらしている。相変わらず綺麗な人だった。これは恐らくどんな男でも惚れる。私が惚れているかどうかという話では無い。そこは注意して欲しい。
今日の色々な事が嘘ではなかったのだと思った。私もそれに習って手を振った。
うん、また。
彼女は勢い良く振り向くと威風堂々と歩いていった。背筋をぴんと張って真っ直ぐ前を見て歩く背中には自信が溢れている。その姿をもう少しだけ見ていたくて、私は彼女の背中を見たまま立ち尽くした。人と目を合わせるのが苦手な人間でも背中なら凝視できる。人間は背中に目があるわけではないからだ。背中に目が付いてる人間にはまだ出会ったことが無いので、恐らくどんな人も目は前にしか着いていないのだと思う。
頭の中で話が脱線し始めてからも、私は見えなくなるまで彼女の背中を見ていた。
*
5へつづく
著/がるあん
イラスト/ヨツベ
「練馬」BOOTHにて文庫版販売中です。
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