タイタンの彼女 5/8
それから暫くの間、僕は様々な事に後悔した。
彼女と話すべきことはもっと沢山あった筈だった。
家に居ても何処に居ても、彼女の存在がぱたりと消えてしまった事でより強く彼女の存在を感じた。
彼女はやはりとても不思議な人だったのだと思う。
自分の中にある彼女の記憶は、僕の意思とは無関係に毎日少しずつ剥がれ落ちていった。それは余りにも自然で気付くのも難しかった。彼女の事を忘れてしまうという事を勝手に受け入れている自分がいつの間にか存在している。
いつか彼女が言っていた事を思い出す。
「観測する事でより存在を強く感じられる」
隣に彼女が居ない今は、彼女を観測する事は適わない。日に日に記憶の中ですら弱く薄くなっていく彼女の存在が、心のどこかでまだかろうじて寂しく感じられた。
一週間経った頃、僕は彼女の顔を覚えていない事に気付いた。たった一週間前の事が何年も前、何十年も前のような、遠い昔の記憶の様に霞んでいく。
僕が思い出せる彼女の姿は今やほんの少しだけだった。
このままだと本当に忘れてしまうと不安に感じた僕は、彼女の事を強く思い出そうと試みた。すると幾つかの光景が脳裏に再生される。
雨の日、二人で下校した夕方、彼女は遠い空を眺めている。
それから、彼女は僕に何か言った。
体育の授業、彼女は走っている。何でだったか思い出せないけど、彼女の足は周りに比べてすこぶる遅かった。まるで重たい荷物でも背負っているみたいに。何かを背負っていたのだろうか。
夜、国道沿いのコンビニからの帰り道、彼女は国道の街頭を指さしている。そして彼女は僕に何かを話をした。
何を話したのかは、やはり思い出せなかった。
学校の屋上は、本来入ってはいけない事になっている。
鍵も掛かっているし、その鍵がどこに保管されているのか僕は知らない。しかし僕は屋上に居た。空は何千キロも先まで澄み渡っているみたいに青く高い。
目の前には、不思議な姿の女子が立っていた。
「想像してみて」
彼女は口を開く。透明の半球型のヘルメットで頭をすっぽりと覆っている。
「マモル、想像してみて。どこかここに似ていて全く違う世界の事を」
彼女は話を続ける。僕はどうしたらいいのか分からずにその場に立ち尽くした。
「マイナス百七十度の液体メタンの雨が降り、その厚いメタンの雲間から巨大な土星に見下ろされる世界を。地球の七分の一の重力、一日が十五日と二十三時間続く。少ししか届かない太陽の光。火が使えない世界」
彼女の言っている事は少しも分からない。ただ不思議と驚きは無かった。そして恐らくそれは彼女の故郷の話だという事も、何故か分かった。
「そんな世界を、どう思う?」
どう思うって、どう思えばいいのだろう。僕は何故こんな話を聞かされているのだろう。
「それでも、一緒に来る?」
一緒に。ここからは遥か彼方、遠く離れた場所へ。
脳裏にいつか見た夕焼けが蘇る。
タイタンガニを、
目が覚めると僕は学校の屋上ではなく自室のベッドの上に居た。
不思議な夢だった。傍らに置いてある眼鏡に手を伸ばす。眼鏡を掛けるようになってから半年は経ったけれど、未だに四六時中眼鏡と一緒の生活は慣れない。
それから一階に降りて朝食を取っている間、母による僕の偏差値に対する苦言を聞き続けた。
僕だってやれる事はやっている。どうやら母は僕がクラスで一番頭が良くないと気が済まないらしい。いや、それだったらまだ良い。学校で一番頭が良くなければ母の怒りは収まらないかもしれない。
だとしたら諦めて苦言を聞き続けるしかない。僕にはそれほど出来の良い脳味噌は無い。
しかし母が偏差値に対してナーバスになるのも理解は出来た。何しろ中学最後の夏休みは終わり、もうすっかり秋になっているのだ。僕の同級生達は皆進路の事ばかり考えていて忙しそうだった。勿論、僕も忙しくないといけないのだけれど。
登校中、通学路を歩いている間、僕は自分自身の事を考えた。
進路と言えば自分の未来そのものである。今頑張るかどうかが今後の人生を大きく左右する事はとても理解出来る。僕も周りに習って勉強もするし、進路の事を考えてもみた。
しかしどうにも自分の未来の事を考えている時、自分自身に対して妙な空々しさをずっと感じていた。
本気ではないというか、本物ではないというか。どう形容したら正解なのかは分からないけれど、自分の未来にあまり興味が無いと言ったら良いのだろうか。
中学一年生の二学期、後期のテストで努力したつもりだったのに好成績を残せなかった時の事だ。悔しがる僕に父はこんな事を言った。
失敗は人を強くする。
良い言葉だと思う。僕は辛いときによくこの言葉を思い出すけれど、ある日からその意味が僕の中で引っ繰り返って聞こえるようになった気がする。何があった頃だろう。
どこかで何かを失敗したという気持ちだけが強く心に残っていた。今の僕は何かに失敗した抜け殻なのだ。
自分でも良く分からない不思議な現象だった。まるでどこかで自分が他の誰かと入れ替わったみたいに。
僕はいつ、どこで、何を失敗したのだろうか。
こんなに心を支配している筈の経験が、僕には全く思い出せなかった。
著/がるあん イラスト/ヨツベ
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