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「練馬」 10/15

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 あの日以降の私はというと寧ろ清清しい気分で一杯であった。
 清清しさに支配されて心が何でもかんでも許してしまいそうだ。今なら突然他人に殴られてもニコニコしたまま許してあげられる。なあにそんな気分になる時もあるよね。

 まあ、このような事が考えられるのだから私の精神状態はほどほど正常のようだ。しかし突然他人に殴られても良いなどとは、本当の所思っていないので殴るのは止めて欲しい。殴られた所で私は人を殴ったことがないので殴り返すことは出来ないと思われる。結局ニコニコへこへこやり過ごすのかもしれない。無念。

 十四日の待ち合わせに彼女が来なかったのは、ある程度私にも予想は出来た。心構えもバッチリ整えて、当日はミスタードーナツへ向かった。そのお陰か心に対するダメージはそれ程でもなかった。
 寧ろ心が平常で居ることに私の中の私はどうだ!と鼻を鳴らしていた。
 そんなことで威張られても私としては困る。
 以前のように十八時までミスタードーナツに居座り続けるのは流石に気が引けたので、昼過ぎの十四時頃には私はミスタードーナツを後にした。お店の売り上げについても思案し、お昼に中華メニューを追加オーダーもした。これに関しても私の中の私がどうだ!と鼻を鳴らしたので、私は鼻で笑ってやった。

 つまり初めの邂逅以来、彼女に再び会うことは叶わなかった。

 ひょっとしたら本当に幻覚だったのかもしれない。すぐに脳の検査をした方が良い。脳内議員の一人が議題に上げたが、予算会議でこれはあっけなく却下された。予算が果てしなく少ない予算会議だった。

 本当の所は、彼女に対して責める気持ちが全く無かったかと言うと嘘になる。このやろう!と思う気持ちもある。しかし過ぎてしまえば仕方が無いことだ。無力な私にはどうする事も出来ない。

 十四日以降からの私は急に地に足が着き始めて面白かった。まず私は万年床となっていた布団を洗った。シーツも久しぶりに洗った。私にしては良い判断だったと思う。洗って干した直後の布団とシーツの寝心地の違いに愕然とした。これからはちゃんと洗おう。
 そして求人情報の雑誌も買った。いや、半年前の私にしてみれば奇跡の様な出来事だった。

 何故そのように社会に対して前向きな気持ちになれたのかは全く解らなかったが、彼女がここに関わっている事は間違いないようだった。しかしどれほどそれが関わっているのかは知る由もない。彼女と会うことが無かったとしても、結局私はある程度同じ選択をしたかもしれない。いや、これはせめて彼女と出会えた事で変われたのだと思いたいだけなのかもしれない。
 しかし残念な事に仕事に関してはまだ求人情報を眺めるだけで、何もアクションを起こしてはいなかった。ゆっくりで良い。ゆっくりやっていこう。脳内議員達はこれには全員賛成のようだ。皆で励ましあっていた。

 日が経てば経つほど、彼女のイメージは薄らいでいってしまった。今では最初に出会った時の彼女すら、想像の中の彼女と同じくらいおぼろげで霞んで見えた。

 彼女と出会ったあの夏の日から既に一ヶ月程経っていた。

 そしてめでたい情報がある。

 私は本日やっと、私にとってのベストプレイスであるミスタードーナツ練馬駅前店二階喫煙席を精神的に奪還した。自意識過剰の怪獣を倒すことに成功した。最後の約束の日以降から実に二週間、苦しい戦いではあったが私は勝利した。しかし自意識過剰の怪獣は前も話したとおり貧乏だったので、時間の経過により空腹でダウンしただけかもしれなかった。しかし小さく戻れたので食費もこれからは大丈夫だ。安心していい。

 相変わらず私的メモにも没頭している。
 最近は、メモの中で自分を分裂させて話しあうのにハマっていた。

 ミスタードーナツの二人掛けの席に一人で座っていたつもりだったのだが、いつの間にか誰かが正面の席に居た。
 それは私自身だった。

 というような書き出しでそれは始まる。
 内容に関しては相変わらずうんこのような物だった。今日の彼は二百七十円のコーヒーが贅沢だと私に言い続けた。そしてそれに対して永遠に言い訳をして遊んでいた。その内容のメモは結局三時間程書き続けた。

 しょうもない。
 しょうもないが私にとっては今も欠かせないライフワークである事は変わらなかった。
 私は今日もしょうもないメモを満足いくまで書き続けた。

 今は満足したので煙草を吸いながら、椅子を少し回転させて外を眺めていた。窓際の席だったので眼下の駅前交差点を一望出来た。
 すでに空は暗くなりかけていた。練馬の街は何度も言うようだが相変わらずだった。変わらない生活が大挙して押し寄せていた。夏ももうすぐ終わってしまう。夏の終わりと共に、私も少しずつ変わっていく予感があった。それはきっと良い方向に向かうに違いない。

 私の世界は私のイメージ出来る範囲の中でゆっくりと変化していく。それが日常というものだと私は今思っていた。
 それは約束の日に彼女が現れなかった事で証明されたようであった。彼女の存在はそれほどに私にとって劇的だった。

 悲しい事では無い。人はゆっくりと変化している。変わらないように見える練馬の街も、知らない内に少しずつ変わっている。
 ここも百年前には農家しかなかったのだ。しかし一日でこのような郊外都市まで成長したわけではない。そうだ。時間は止まっていないし戻ったりもしない。この世にはデロリアンに乗って一分後の未来に到達した犬は存在しないし、未来のスポーツ年鑑を巡って過去が激変する事も無い。

 行き着けの美容室のおじさんも、その娘さんも、煙草のキャンペーンガールも、ドトールコーヒーのジジイ達も、隣の席に居た大学生も、本人には解らないくらいの速度でゆっくりと変化していく。私自身も自分では何もしていないつもりでも、何かに影響されて少しずつ変わっている。

 私はそんな事を考えながら過去に自分で書いたメモを見直す事にした。その中にこんな内容のメモの一片があった。

 明日の自分が突然殺人鬼にならない事を切に願う。おやすみ。

 これを書いた奴はアホだ。はっきりと言える。そんなことあるわけないだろボケナス!いや、ボケナスは言い過ぎた。あるわけないだろナス!これならその日の私もきっと傷つかない。
 しかしナスは特に目立って栄養がある野菜ではないらしい。寧ろ他の野菜の栄養分を殺す酵素を持っていると聞いた。したがってあるいはこれも悪口になるのかもしれない。しかしだからといってナスに価値が全く無いなどというのは暴論だ。ナスに失礼だ。焼きナスは美味しいと思う。

 それにしてもこのメモしかり、私は一体何に怯えているのだろう。それは私が前職を辞めた理由が、未だに自分でもはっきりと解らない事と繋がっているような気がした。
 前職を退職した理由を人に説明する時、私は健康状態を引き合いに出す。しかし当時の私は特に健康状態がのっぴきならない程悪かった訳では無かった。精神的にも肉体的にも万全とはいかないまでも、仕事を辞めるほどではなかった。私の脳内議会は本当に都合が悪いと感じると誰も何も発言しなくなる。今でもそれについては考えることを放棄しているようだった。何と都合の良い事だろう。

 ただ単に何もしたくなかったから辞めたのかもしれないし、向いてないと感じて未来を暗く感じたから辞めたのかもしれないし、あるいは自覚は無くても本当に健康状態が悪かったのかもしれない。

 前職は七年間続けた。二十歳で就職して七年間同じ職場で働いた。それなりに楽しい事も辛いこともあったが、今でも前職を選んだことそのもの自体に後悔はしていない。辞めた当時も辛いことだけが山積していた訳ではない。しかし突然辞めてしまった。

 辞めた理由だけは今考えた所でやっぱりはっきりしなかった。当時の私は既にこの世には居ない。彼に聞かないとそれは結局解らない。

 明日の自分が殺人鬼になっていないかと思うのは、自分に出し抜けな部分があるからかもしれない。
 突然社会生活を放棄する自分に対して信用が無いんじゃないだろうか。

 いやしかし安心してほしい。私は殺人鬼にならなかった。それどころか今は求人情報誌を眺め始めている!きっと昔の私は想像も出来ないだろう。新たな社会生活の幕開けはきっと近い。

 何があっても過去は過去。ここから一歩ずつやっていこう。
 私にしては珍しく前向きな事を考え始めた。
 僥倖僥倖。ミスタードーナツ練馬駅前店の窓から見える街が、今日は少し華やいで見えるような気さえした。
 私はうん、うん、と一人頷いて煙草を吸いながら外を眺めていた。

 きっとゆっくりと変われる。それもきっといい方向に。脳内の私達はお互いにそれを言い聞かせ続けていた。
 しかしつくづく人生とは解らないものだと思う。予想だに出来ないことも起こる。私は今の今まで考えていた大事な思考の卵を、次の瞬間金属バットでぐしゃっと潰されたような思いだった。

 私は椅子を回転させて外を眺めていた。煙草の灰を落とすために机に向き直った時、さっきまで二百七十円のコーヒーが贅沢だなんだと息巻いていた彼は、向かいの席には既に居なかった。

 
 かわりにあの夏の日の彼女がそこに居た。


11へつづく

著/がるあん
イラスト/ヨツベ

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