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「練馬」 9/15

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              *
 
 いよいよ、当日になった。
 果たして彼女は本当に実在しているのだろうか。その答えはようやく今日出る。

 携帯電話のメモを確認する「十日十時ミスタードーナツ、十四日十時ミスタードーナツ」大丈夫だ。今から出て早すぎるということは無いだろう。時刻は九時を回るところだった。

 私は出来る限り身だしなみを整えた。昨日購入したシャツも着た。財布は持った。携帯電話も持った。鍵も、鍵が無い。
 私は部屋中ひっくり返して鍵を探した。
 鍵はあろう事か二つ折りの財布の隙間に挟まったままポケットに入っていて気付かなかっただけであった。時刻は九時半になるところだった。
 大事な日に限ってこれである。私らしい失敗だった。予め早めに準備しておいて良かった。今ならまだ遅刻もしない。部屋中を全力でひっくり返したせいで私は既に汗ばんでいた。次は前日に荷物の確認を済ませよう。これは未来の私と今の私との約束だ。

 私はもう一度所持品を確認して、一言よし。と声を上げた。何に対する、よし。なのかは良く分からなかった。
 自室はひっくり返したお陰で見るも無残な有様であったが、私はそれを一旦無視して家を飛び出した。自室が私をじとっとした目で見ているのを背中に感じてはいたが、頼む。今日だけは、と心の中で謝った。自室は舌打ちしながら言う。
「しかたがねえ野郎だ」
 どうやら許しを貰えたようであった。きっとこの恩は忘れない。
 今日はどうやら一日中雨らしい。先日話した台風とやらが今一番東京に接近しているらしかった。こんな日になんと不吉な事か。しかしお天とさんに文句を言っても何にもならないので私は傘を差して駅前に向かって歩き出した。
 街は昨日までの街と一つも様子は変わらなかった。道を歩く私でさえ昨日までと全く同じようであった。

 待ち合わせのミスタードーナツに着いた時、時刻は午前九時四十五分だった。危ない所だ。私はコーヒーを受け取って二階の喫煙席で待つことにする。待ち合わせ場所を決めた時はっきりと細かい席の指定まではしなかったが、きっと彼女はこの場所の事を言っているのだと勝手に思った。
 二階にはまだ彼女の姿は無かった。ミスタードーナツに来るのは数日振りだったが、特別に思う所は無い。ここもいつもと変わらない様子だった。

 私は今日の気持ちをメモ帳に書き込み始めた。
 とても不思議な感覚だった。あれ程楽しみにしていた今日が来たというのに、私の気持ちは今日の空模様とさほど変わらないような気がしていた。もちろん楽しみで無い訳ではない。緊張もしている。しかしどこか来るべき日が来たことに憂いもあった。数日間私の中で肥大し続けた由梨絵さんに、今日会ってしまうのが勿体無いような気がしていた。もしかしたら私はずっと彼女の事を夢のように感じていたいのかもしれない。現実を見なければならない事に憂いでいるのかもしれない。今もまだ私の中の由梨絵さんは、拡大し続ける宇宙が如く広がり続けていた。

 私は夢中になってメモを取っていたので、既に時刻が待ち合わせ時間を過ぎお昼前になっていることに全く気付かなかった。
 これは全くの嘘である。だとしても自分に対する見栄くらい張らせて欲しいと思う。

 由梨絵さんは待ち合わせ時間に姿を現さなかった。

 きっとそんな事を考えているからこんな事になるのだ。ご要望通り彼女は姿を現さない。良かったな私よ。良いわけ無いだろ馬鹿野郎。私は私自身を殴りつけた。殴った自分の手が非常に痛い。後悔した。

 しかし来ないものは仕方が無い。彼女の連絡先はおろか名前すら知らない私には、ここで待ち続ける以外に出来ることは無かった。
 普段から居座リストとして鍛錬を重ねておいて本当に良かった。長時間居座る事に関しては私において全く苦にならない。私は普段と変わらぬ様で居座り続けた。その姿は正に、居座リストの鏡であった。

 しかし困った事になる。このお店もお昼時はお客さんで一杯になる。ミスタードーナツはその名の通りドーナッツ屋さんだが、ランチメニューにリーズナブルな価格の中華に力を入れている。よってお昼には食事をしたいお客さんで一杯になる。
 一流の居座リストはお店の迷惑を考慮し混んでいるお店では居座らない。混んできたら場所を変える。それが居座リストとしてのマナーだ。
 私は先日池袋のマクドナルドで三時間居座った事を思い出した。記憶が確かであれば、店内は満席だった。バツが悪いのでこの事に関して一切の記憶を抹消することにした。記憶の抹消に成功した。

 私は迷った。人の迷惑を考えればここは一旦退散すべきだ。とうとうお店はお客さんで満席になっていた。こんなに騒がしいミスタードーナツは経験が無い。お昼時はこんな様相になるのか。初めて知った。
 しかし私は結局腰を上げることが出来なかった。お昼を過ぎて尚居座り続けた。それでも店員さんは私にコーヒーのおかわりは如何ですかと聞きに来てくれる。迷惑な客だと思うのだが、そう言って貰えて救われる思いだった。

 とうとう十五時を回ってしまった。きっと彼女は今日ここには来ないのだろう。
 もう解っていた。
 元々そんな予感があったから朝から舞い上がれなかったのかもしれない。これはいかにも全く私の世界らしかった。店内の窓から外を見る。相変わらず雨も風も強いようであった。傘を抱え込むようにして差しているサラリーマンの男性が見える。心の中で頑張れと呟いた。

 そう、きっと今日は台風だから中止にしたのだな。いくらなんでもこんな時間まで待つとは彼女も思ってはいまい。もう帰ってもいいような気がしている。
 それでも二階の喫煙席に向かって誰かが階段を登ってくる足音が聞こえると、私は毎度緊張させられた。今にも「本当にごめん!」と大声を上げて謝る彼女が目の前に飛び出して来そうだった。

 きっと来る。そんな淡い期待がまだ心の中にあった。
 結局この日は夕方の十八時になるまでそうしていた。お店を後にした時には、既に雨は上がっていて雲も無かった。私は不思議な気分だった。そんなに気分は悪く無い。それはしっかりと彼女との約束を守れた自分に対して引け目が無かったからかもしれない。
 ミスタードーナツに対しての引け目は当然感じていた。しかし今日だけ、今日だけ、と言い訳をして何とか許してもらった。実際にお店に直談判して許してもらった訳ではない事を断っておく。

 練馬駅前の大通りには、雨が上がったことで人が多かった。雑踏の中に彼女の姿を未だに探している自分が居る。全くおめでたい事だ。
 私は駅前のたこ焼き屋さんで、十個入りのたこ焼きを一パック買って自宅に帰る事にした。

 自室は今朝部屋を出たときのまま引っくり返った状態だった。
 私はその事をすっかり忘れてしまっていて、自室に対して申し訳ない気持ちになった。せめてもの罪滅ぼしをさせて欲しい。私は直ぐに部屋の掃除を始めた。それも徹底的に掃除してやろうと思った。
 自室は私に対して言う。

「当然だろ。寧ろ普段から綺麗にしろ」

 憎まれ口を叩いた。言葉とは裏腹に彼は嬉しそうだった。照れているのかもしれない。

 そして時刻は二十一時になろうとしている。私は部屋の掃除をやりきった。ぴかぴかになった自室で私は机に向かった。そして一本、煙草を吸うことにした。
 風の無い部屋では煙草の煙はゆらゆらと漂い続けた。綺麗にしたばかりの部屋ではそれがいっそう目立つ。私は唐突にたこ焼きを買ってきていた事を思い出した。もう冷めてしまっただろう。鞄にしまったまま玄関に置きっぱなしだった。
 思えば今日はまだコーヒーしか摂取していない。コーヒーだけは本日たらふく飲んだ。何杯飲んだか解らない。ミスタードーナツのコーヒー無限おかわりシステムのお陰で私はカフェインの権化と化そうとしていた。カフェインの権化となるのは困るので、私は冷めてしまったたこ焼きを食べた。大変美味しかった。

 今日が終わる。世界にとって今日が終わるのは昨日が終わる事と同じ事である。きっとそうだ。
 メモに関しては、ミスタードーナツで嫌と言うほど付けていたので今日はこれ以上携帯電話を見る事は無かった。

 私はベッドに横になって由梨絵さんの事を考えながら眠ることにした。
 今日の事に関して、彼女を責める気持ちは不思議と少しも無かった。

 これはきっと嘘では無い。せめてそう思わせて欲しい。

 私の脳内議会の議員の一人が、切にそれを願った。彼はどうやらうつむいて泣いているようであった。

 私自身が泣いていた訳ではない。
 

 彼女は結局十四日の待ち合わせにも、姿を現す事は無かった。
 
              *

10へつづく

著/がるあん
イラスト/ヨツベ

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