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「練馬」 13/15

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              *
 
 今日も今日とてミスタードーナツ練馬駅前店で珈琲を啜りはじめてから、もう二、三時間は経っただろうか。メモを書くのも飽きてきたので私は本を読み始めた。現在読みかけの本は太宰治の「晩年」だった。
 ロマネスクという短編の「嘘の三郎」という章を読んだ。
 三郎という主人公が身の回りの人に嘘を付きまくる話だった。三郎の嘘は幼い頃から天才的で、それに気付く者は彼の周りには居なかった。後ろ暗い過去を背負い続ける主人公の話である。
 三郎の嘘は臨場感に溢れていてスリリングで読み応えがあった。中でも三郎が書生達の代わりに彼らの親に仕送りのお願いをしたためた手紙を代筆するくだりがとても気に入った。天才三郎が代筆した手紙は非常に効果的で、書生達は親からまんまと仕送りをせしめる。そして三郎が代筆した手紙の内容も細かく書かれていて、これに私は驚いた。
 その内容は、私自身がいつも親に仕送りをお願いするときに心がけていることとほとんど全く同じであったのである。ババン!
 ババンではない。ああ、何ということだ。情けない。
 しかしこの共通点に何故だか心はほっとした。いやこれも情けない。どれもこれも情けない。
 私はほっとしたのでコーヒーを啜った。更に深くほっとしてやろうという腹積もりだった。
 
 私の隣の席に若くて綺麗な女性が座った。
 細身で黒いストレートのロングヘアーに黒色の丈の長いワンピースを着た、落ち着いた感じの女性だ。
 断っておくが私はじろじろと彼女を見たわけではない。見たわけではないが解る。これは何故かと言うと私は日々、目の端で物を見る訓練をしているからである。この技を体得するための訓練は過酷を極める。一番良い練習方法は人と目を合わさずに表情を読む訓練をすることだろう。訓練することでやがて視界の端が良く見えるようになってくる。
 体得まではおよそ二十年は掛かると思われる。即ち今日から始めようと思ってもすぐ出来るものではない。つまり元来人の目を見て話せない人間にしか基本的に出来ない妙技である。
 女性は一人らしく、回りを穏やかに見渡しながら珈琲と煙草を楽しんでいた。
 私といえば、ただそれだけで中々心踊った。私のすぐ近くに美しい女性がいる。これは私の人生の中でもほどほどに幸福な出来事だ。
 私は視界の端で彼女を凝視していた。
 彼女の方も、こちらをちらちら見ていると私は気付く。やはり不審だったか!私はすぐに視界の端を使うのを止める。そして携帯電話を体の内側にこそこそと仕舞い込む。私の中の危険察知信号は既にイエローになっていた。
 こんなことを携帯で書き綴っているのがバレたとしら名誉毀損になりかねない。それは困る。しかし禁忌に触れているようでこれはこれで楽しいのも事実だった。私は一体何をしているのだろう。
 罪悪感と背徳感の狭間がスリリングで心地良い。
 
 
 あれから四時間後程経っただろうか。
 様々なことがあったので、書き留めておく。
 結論から言うと、隣の席から携帯が丸見えだったらしく、彼女の事をかいているのがバレてしまった。

 声をかけられたのだ。
 
              *
 
 携帯電話を渡された彼女は「何これ?」と言いながら読み始めて、途中に一言「長くない?」と文句を言ってきた。私がそれに何も答えなかったので、その後は真剣に読んでいるようだった。読み終えた彼女は、

「何これ?」

 と言う。結局何なのか解らないようだ。
 私は彼女との出会いの妄想をメモしてたという事を懇切丁寧に伝えた。最後に勝手にそんな事して申し訳無かったと謝った。

「なるほどねえ。でもこれ本当になったね。凄くない?」

 あっけらかんとしていた。全く責める気は無いようだ。そのメモ以外にも彼女が登場してくるメモは大量にあったのだが、そっちの方は見られたらかなりマズい気がするので携帯電話を手早く取り返した。

 もっと大事《おおごと》になるとばかり思っていた私は拍子抜けした。何も事件は起こらなかった。安心した反面、細く繋がっていた彼女との糸がぷつりと切れてしまったようでそれが少し寂しくもあった。

 それから私達は石神井川に掛かる橋の欄干に持たれかかったまましばらく話していた。
 本当に何でもない話しかしなかった様な気がする。私達の会話以外には水が流れる音だけが変わらず聞こえていた。夏も終わりかけ、緩やかな風が涼しくて心地よかった。
 彼女は私の他のメモに興味を持ったようで他のも見せてとねだって来たが、私は頑としてこれ以外のメモは見せなかった。
 時刻は0時を回る所だった。

「じゃあ、そろそろ帰ろかな」

 この日のデートは終わりになった。
 私達は次に会う約束はもうしなかった。

 練馬駅まで歩いて戻る間、彼女は自分の実家の話をした。おじいちゃん子だったからまた一緒に住めるのが嬉しいとか、妹が来年から東京に来るから入れ違いになっちゃって寂しいとか、実家は田舎だからコンビニが滅茶苦茶遠いとか、私は適当に相槌を打ちながら聞いていた。

 練馬駅に着いた私達はここで別れる事になった。どのみち帰り道がここで分かれていた。
 改札前の広場で向かい合った時、ドラマとか映画のワンシーンみたいだ!と謎のテンションの高ぶりを感じた。私はまだ少し酔っているようだ。

 時刻は既に0時を回っていた事もあり、練馬駅周辺は少し静かになっていた。
 最後に彼女は自分の名前を教えてくれた。私もそれに習って名乗った。しかし今となっては失礼な事に、一度だけ聞いた彼女の名前を忘れてしまった。
 由梨絵さん、だったか。いやそれは私が妄想で着けた名前だった。
 結局私達はそれから、あっけなく別れた。最後に彼女は、

「頑張れよ!」

 と言いながら背中を思いっきり叩いてきた。痛かった。
 私は結局彼女を見送るまでその場から動かなかった。叩かれた背中が痛くて動けなかったのかもしれない。

 颯爽と横断歩道を歩く彼女は恐らく時速三十キロは出ていた。彼女の心の様に真っ直ぐな髪は相変わらず歩く度にひらひらとして美しかった。彼女は見えなくなるまで一度もこちらを振り向くことは無かった。

 それが私が見た最後の彼女になった。

 それからの私はというとなんと単純な事か、彼女から頑張れと言われたので頑張った。
 彼女の最後の一言は私をシンプルな気持ちにさせたようだった。いくら一人で悩んだ所で私は何も変われなかったという事を実感する事になった。

 以前から前職に復帰しないかと前の職場の上司に誘われていた。私の仕事は在宅でも出来るものなので、そういった契約にしてもらって在宅で前職に復帰することになった。

 進み出せば加速度的に私の人生は変わっていく。あの引き篭もっていた半年間は一体なんだったのかと思うくらいに。

 私は社会復帰を果たした。

 そのきっかけをくれたのは今思い出してもやはり彼女のような気がしている。
 
              *

14へつづく

著/がるあん
イラスト/ヨツベ

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