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真っ白な一日

 ヒトとは自分の場所をいちいち確認していないと安心出来ない生き物である。突然目隠しされ、耳も塞がれ、何かの箱に詰められて、どこかに運ばれている。そんな状況になれば皆不安になるしおかしくもなる。
 目で見て耳で聞いて、あるいは鼻や触覚も使い、今自分がどこにいるのかというのを毎秒毎秒確認しているのである。これは無意識化で行われる為に、殆どの人間はそれがどこから生まれる安心なのか気付かない。すべての感覚を奪われ初めて気付ける事がほとんどだろう。

 目覚めた私は、真っ白な部屋に居た。ベッド、壁、家財一式、お土産で貰った猫の置物、すべてが白かった。白くなっていた。世界で唯一白くないのは私だけであった。

 どんな状況に至ったとしても、今の私にはやらなければならない事がある、と思った。この白い世界を何とかする以前に、私は自分の仕事を片付けねばならない。すぐにでも病院に駆け込んで診てもらった方が良いのは分かっている。しかし今日は駄目だ。今日だけは会社に行かなくてはならない。例え今日病院に行かなければ明日には死んでしまう程の状態だったとしても、それでも今日だけは会社に行かなくては。

 今日は私が入社してから六年もの歳月を費やした総決算が迫っているのだ。何故こんな日に限って―と私は呟いた。体に満ちた不和を解消する為、様々な思考に身を委ねる。どんな人間でも、死とは平等に与えられる。普段通りに一日を終えて眠りに就く、そして二度と目覚めない可能性が、全く無いと誰が保証してくれようか。こうして目が覚めて、ベッドから起き上がる事も出来る。大丈夫だ。
 自分を慰め、鼓舞し、何とか身支度を整える気持ちを作った。着替えを済ませ家を出る。

 それにしても悪い予感ばかりは何でも当たるものだ。
 部屋だけに留まらず、マンションの外壁、ドア、駐車場、車、遠景に聳え立つ東京都庁、そして空までもが、ただただ全く同じ白色をしていた。私が何故、それらを見分ける事が出来たのかというと、どこにあるのかすら分からない光が、すべてのものに薄っすらと影を作っていたからだった。例えるならば、光源だけを設定したゲームの世界だ。すべてのテクスチャーは剥がれ落ちてしまっている。ある朝にプログラマーが、プログラムの大事な序文を一行消してしまったみたいな、明らかに間違った世界だった。

 しかし外に出て良かった事もあった。世界にはまだ臭いと音が消えていなかった。はす向かいの民家に咲いているキンモクセイの香りもするし、階下のゴミ捨て場に誰かがゴミを投げ込む音も聞こえた。
 これならば、今日一日なら何とかなるかもしれない。私は意を決して家を飛び出し、駅に向かった。

 駅に辿り着く頃には、真っ白な世界にも少しずつ慣れを感じ始めた。ただ一点、人間もまたそのすべてが白く、眼球すらも石膏で出来ているようにつるりとしているのはどうにも気味が悪く思えてならない。私の目がおかしくなったのだとしたら、自分の腕や足などに色が付いたままなのは何故なのか。駅のトイレで確認したところ、鏡の中に居る私の体は、着ている服が真っ白なのを除けば、何の問題も無かった。精神的な疾患なのだろうか。或いは脳に機能障害でもあるのだろうか。自らが培った常識では到底測りきれない事態に、成すすべなど何もない、と思った。

 妙に落ち着いている自分に違和感があったが、ある種の自己防衛なのだろうと結論付けた。解決すべき問題を先送りにしているのは明らかだったが、今はそれらに対する一切から目を逸らす必要がある。しからば気にしていても仕方が無い。虚栄だ。
 この感覚には少し覚えがある。子供の頃は怪我をすると叱られると思い込んでいて、転んで血を流したとしても、痛みを押し殺して平気な素振りで歩き続けた。怪我をする事で降りかかる、その後の面倒な手続きの一切を、放棄する為の虚栄であった。

 目覚めた時に比べて影が薄くなっていると、満員電車に揺られながらふと気が付いた。
 しかしこれも今は取り合えない。自分の脳の奥の奥にある戸棚に仕舞って南京錠を掛け、鍵は山積みとなっている仕事の下に滑り込ませておいた。戸棚には真っ白な世界についてとラベルを張り、これまでに判明したすべての事柄をここに押し込めた。

 満員電車とはとかく息苦しいものである。私は社会に出てからの十年間で様々な事に慣れたが、これだけは体質的な問題で、度し難い程の苦痛を感じ続けていた。午前七時の中央総武線は、三百六十五日、いつ乗っても混んでいる。最寄駅の武蔵小金井から十数分、吉祥寺を過ぎたあたりで私は気分が悪くなる。人と密着している不快感も勿論あるが、何よりも朝に酸素が薄い場所に押し込められるのが辛かった。そろそろ息苦しくなる頃合いだ、と慣れた気持ちで考える。
「次は、高円寺。高円寺です」
 聞こえてくるアナウンスに耳を疑った。高円寺?

 私は出社する際、必ず高円寺で一度下車する。これは武蔵小金井に引っ越してからの四年間、一度も欠かした事の無い日課だった。自らの意思で課しているものでは無い。出来るのであればそのまま乗り過ぎてしまいたいがそうはいかない。体がどうしても休息を求めるのだ。高円寺駅で一度下車し、ドリンクを一本飲み切ってから再び乗車する。それは身に染み付いた習慣であり、義務だった。しかし。
 たった今電車は高円寺駅に到着し、そして扉は再び閉まり、再び大量の人間を運ぶ為に車輪へとエネルギーが供給され始めている。つり革につかまりスピードを増す電車の衝撃に耐えながら、私は衝撃の中に居た。
 考えてみれば、確かに―と私は思った。車両の乗車率は普段と変わらない。百二十パーセントを超えている。隣の人間の肘が私の肩に当たっているし、背中は誰かも分からない人とぴったり合わさっている。しかし息苦しさをさほど感じていないのだ。

 どういう事だろうか。私は何となく、車両の出入り口上部に設置されている電光掲示板へと視線を移してゆく。
「あ」
 私は三度驚いた。驚いたというよりは、とてもよくない事に気付いてしまい、背筋に冷たいものが走った。モニターには次の停車駅等の情報が常に表示されている筈だった。しかしモニターは、私の目からはただの白い板にしか見えなかったのだ。
 私が声を出した為か、周囲に居る人達がこちらをちらちらと覗いた。普段であれば多少恥ずかしく感じるものであろうが、今日の彼らはただの石膏像だ。それどころでは無いというのもあり、何も感じなかった。
 モニターに何も映らないのは非常に困る。冷や汗が背中をじっとりと濡らしてゆく。

 会社のある四ッ谷に着くまで私はこの問題について思案したが、結局良いアイデアは出てこず、おずおずと下車し会社に向かう事になった。会社までの道すがらも、何とか今日の仕事をこなす為に、私は一体何をすべきなのか。その一点についてのみを考え続けた。

「おはようございます」
 背後から声が聞こえたので振り返ると、そこには白い石膏像の女性が立っていた。眼球まで白いのは、こうして近くで見るとやはり不気味でならない。初め、それが誰なのかはっきりと判別がつかなかったが、彼女の鞄に北海道のご当地キャラクターのキーホルダーが取り付けられているのを見つけると、黒崎さんであるとようやく得心した。以前飲み会の席で酔っ払った彼女は、鞄に取り付けられたそれの素晴らしさを私に語ってくれたものだった。酔った彼女が言う事は何一つ理解は出来なかったが。

 彼女は私の部下であり、今日まで長年共に同じプロジェクトを積み上げてきた仲間だ。普段から元々色白の女性だが、今日は一段と白い、と思った。
「おはよう」
「顔色が優れないようですが、大丈夫ですか?ちゃんと寝ました?」
 黒崎さんから見て、私には顔色というものがあるのか。
 私の目に見える黒崎さんはどこからどう見てもやはり石膏像のように白く、顔色などというものは何処にも存在しない。彼女の様子を確認してようやく私は得心がいった。どうやら世界が真っ白に変わってしまったのは、世界で私一人のようだ。世界がおかしいのではなく、やはり私がおかしくなったのだ。
「少ししか寝てないからかな」
 黒崎さんは少しだけ呆れた様子で溜息を吐いてから続ける。
「駄目ですよ。今日体調を崩されたら、すべてが水の泡です」
 彼女の言葉は私をぎくりとさせた。世の中には様々な「体調不良」があるが、今の私の状態はその中でも特に酷い部類だろう。こんな話、聞いた事もない。
 会社に着くまでの間、黒崎さんの話に適当な相槌を打ちながら、やはりこれから如何にして仕事をこなすのかという事だけを考えた。
 どんな手を打つにしても、しっかりと状況を把握してからだ。

 電光掲示板は真っ白であったのに、自分のパソコンだけはその限りではないというのはとても虫の良い話なのは分かっている。しかし一縷の望みに賭けたかった。なるべくこの事は、今日一日だけは隠しておきたい。
 会社に到着し、隣の席に黒崎さんは着席する。私は机に向かう前に必ずコーヒーを淹れる事にしているので、鞄だけを置き去りにして給湯コーナーへ向かった。自分のマグカップを手に冷蔵庫からインスタントコーヒーの瓶を取り出す。当たり前だが、勿論これも真っ白だった。私は牛乳のように真っ白なコーヒーを片手に机へ戻った。

 黒崎さんは既に仕事を始めている。抜かりない彼女の事なので、今日に至っては最終チェック以外にやる事はないだろう。彼女がまじまじと見つめるモニターには、やはり何も映っていなかった。
 そんなに甘い話は無い。私は自分のパソコンの電源を入れて、モニターに何か映るのをしばらく待ったが、一向にそこには何も映さない白い板があるばかりだった。他から見れば何の変哲も無いデスクトップ画面が表示されているに違いは無いのであろう。
 真っ白のコーヒーを啜る。コーヒーの味がしたように感じたが、普段飲んでいるものに比べて酷く薄い味だった。おまけに水分すらも薄く感じる。
 やはり、私は既に仕事が続けられる状態では無かったのだ。

 そう気付いた時にはすべてが遅い。タイムリミットは迫っている。
 私は椅子の背もたれに背中を預け、自身の浅はかさと、星の巡りを呪った。問題を先送りにして良かった試しなど、これまでに一度でもあっただろうか。虫歯は放置していても治る事が無いように、こんな状態になって尚仕事を続けようと考える方がおかしかった。
 両手で顔を覆うと、視界は真っ暗になってゆく。白ばかりの世界の中で、唯一感じられる闇とは、視界を遮ったその時だけだ。一体私は、この後どうなるのだろうか。すぐに病院で手当てをすれば、再び社会復帰を果たせるのだろうか。或いはあらゆる物理法則が通用しない宇宙的な何かに導かれ、私は遠いどこかへ旅立ってゆくのだろうか。

 瞬間脳裏で蘇ったそれは、小学生の頃に書いた文集のある一文だった。発想とは常に雑多なものだ。雑念とは尊い。未だ人の脳がAIの思考力に劣らない理由の根源。

 将来の夢、と書かれた枠の中に、私はこんな事を書いた。「何でも吸い込んでしまう、ブラックホールになりたい」。改めて読み返した時、私は思わず笑ってしまったものだった。当時はどんな成り行きでそのような事を書いたのか、今はもう定かでは無い。友達の注目を得たくてふざけたのかもしれないし、或いは思春期的な悩みの中にあった為に、感情のはけ口としてそう書いたのかもしれない。私が何故今になってそれを思い返したのか、それがとても重要な事に思えて、深く思索した。

 本当は今日、朝目覚めた時から薄々感じていた。これはきっと、避けられない運命というやつだ。極めて不可解な宇宙的な何かに、私はきっと導かれているのだ。閉じた筈の戸棚からはあらゆる情報が噴出し始めていて、私は凄然とそれらの一つ一つを眺めていた。
 何事も最悪の状況から考えるのは、私の専売特許だ。
 しからば。

「黒崎さん」
 声を掛けると黒崎さんはこちらを向く。世界にかかる影は更に薄くなっている。今では黒崎さんの輪郭もかすかにしか感じ取れない。表情は、もう正確には分からなかった。
「はい、何ですか?」
 極めて業務的な返事だが、ほんの少しだけそこに不機嫌な印象を掴んだ。あらゆる輪郭が曖昧になっていく世界の中で、はっきりと鋭角の形であるそれが、今は甘美ですらあった。
「多分、僕はもうすぐここから居なくなる」

 余りにも直球であったと私はすぐに反省する。時間が無いのは分かっているが、飛躍しすぎて伝わらないのでは本末転倒だ。
 彼女はこちらに少し椅子を近づけて、答える。
「はい?何ですか?」
 そして同じ言葉を繰り返した。今度は先達よりも更にはっきりと、色まで感じ取れるほどに鮮明な感情を掴み取った。いよいよ黒崎さんは、怒りはじめんとしている。
 時間があれば―と私は思った。
 怒った彼女も見てみたい。この真っ白な世界において、それは贅沢過ぎる程の体験だろう。
「ごめん、言ってる意味がよく分からないかもしれないけど、多分もうすぐわかる」
 どうやら私は、意識すらも混濁し始めているらしい。或いは危機的な状況を前に、正常な判断力を失っているのかもしれない。事実、背後から忍び寄っていた不安は私に追いつき、そして今はしっかりと体に纏わりついている。焦りは次第に恐怖へ変貌し、やがて来る未来がどんなものなのかを考えようとする度に、想像も付かずに怯えるばかりだった。世界に落ちる灰色の影は一秒ごとに色味を失い、コーヒーは最初に飲んだ一口とは比べ物にならない程に味気なくなり、おびただしい程に感じられる筈の人の気配すらも、今は黒崎さんのものしか掴み取れない。私は逃げるように自分の手の甲へと視線を送る。
 未だ生命を維持させるために脈々と淀まない血流を感じられて、今の私にとっては最早、それすらも恐ろしかった。

 今の私に出来る事は、混濁した意識を何とか世界に押し留め、そして黒崎さんへバトンを渡す事だ。
 黒崎さんは私の様子からただならぬ何かを感じ取ったようだった。この辺はなんというか、彼女らしく、流石だと感じた。
「やっぱり、体調が悪いんですね」
「うん」
「どの程度ですか?仕事を続けるのは難しいですか」
「申し訳ないけど、無理だ。目が殆ど見えない」
「救急車を呼んだ方が良いですか」
 矢継ぎ早に彼女はそう言うと、既に携帯電話を握りしめていた。意思決定の早さ、行動する勇気、やはり彼女は優秀だ。
 しかし―。
「いや、救急車はいい。それよりも、何点か口頭で仕事を引き継がせて欲しい」
 私の提案に彼女は難色を示した。仕事をしている場合ではないと言いたいのだろう。その優しさが素直に嬉しく、そしてはっきりとした感情はやはり甘美であった。人が目で見たり、或いは聞いたり、嗅いだり、触ったりして感じている世界が唯一無二のものであると考えていた私にとって、それは極めて新鮮な感覚だった。脳内で処理された彼女の優しさは、まるで手に取って眺められるような、そんな気すらするのだった。

「申し訳ないけれど、お願いする。まず―」
 説明をし始めた私は、更に世界から輪郭が無くなったと気付く。オフィス内の雑音は殆ど無くなり、今は自分の周囲一メートル程の、僅かな範囲にあるものしか感じ取れない。
「吉村君からデータ受け取ったら再度確認して―」
 相槌を打つ黒崎さんの声を聴きながら、おそらく私が最後に聞く他人の声になるのだろうと考えた。
 机に置いてあったコーヒーを手に取り啜った。全く何の味も掴めなかったが、最後になるであろうコーヒーに舌鼓を打った。
「先方には既に連絡してあるから、午後五時までに必ず纏めて送信して。向こうが受け取る時間だから、注意するように―」
 私の隣に座っていた黒崎さんは、私の世界から消えていなくなっていた。自分の机すら見えなくなり、自分が座っていたのか、あるいは立っていたのかすらよく分からない。
「―それじゃあ、申し訳ないけれど、宜しく頼みます」

 すべてが言い終わった頃には、私は白い世界にたった一人で佇んでいた。

 試しに手探りで歩いてみようと試みたが、自分が歩けているのかすら分からない。地面に立っているのか、それとも宙に浮いているのかも分からない。やはり、どれだけもがいてもオフィスの壁らしきものは何処にもなかった。私は、元々居た世界には既に存在しないのだろう。

 どうやら私の予想は当たったようだった。或いは何かの病気で、五感のすべてが失われているだけなのかもしれないが、不思議とそれは無いような気がした。やはりこのような状況になって尚、自分自身の体だけははっきりと見えるのが、人知を超えた超常現象の中に居るという最大の証拠であるような気がしてならなかった。手首を掴むと、やはり明確な触覚を感じられ、そして尚、脈は振動を続けている。私は生きている。

 来るべき時が訪れた今、自身が妙に穏やかな気持ちでいる事に気が付いて、随分能天気な人間だったのだなと呆れる思いだった。或いは私が今日出社しなかったとしても、仕事は黒崎さんや他の誰かの手によって完遂されたのであろう。それでも、私には私の、守りたかった信念があった。
 それらを放棄せずに末期を迎えられたのは幸せな事だ。誰しもがそこへ向かいひたすらに答えを探し求める、人間が到達すべきある種の頂点。充足。
 私は良い人間のまま終われたという事実が、今は何より嬉しい。

 どこまでも白い世界の中で、私はゆっくりと目を閉じた。
 瞼の裏ははっきりと黒い。光しかない世界をさえぎると、深い闇がやって来た。こちらの方が幾分か馴染み深く私は安堵した。

 もし明日が来る事があれば、その時は病院へ行こう―と、私は心の中でひとりごちた。

 そしていつしか、私は眠りに就いたようだった。


著/がるあん
挿絵/ヨツベ

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