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過去から未来へ Vol.6 ~書籍『物語 日本のハンドボール』をもとに~

スポーツイベント・ハンドボール本誌で2021年9月号まで連載された「過去から未来へ」。日本のハンドボールの歩みを紹介した書籍『物語 日本のハンドボール』をもとに、ハンドボールの生い立ち、歴史に触れ、未来を切り開いていってほしいという願いをベースに、書籍に記された事象や時代背景をより掘り下げてお伝えした当連載を無料公開していく。第6回は著者・杉山茂さんに、杉山茂さんに、第2次世界大戦の暗い時代を経て、戦後、たくましく復活した1940年代を語ってもらう。
過去記事は→ Vol.1Vol.2Vol.3Vol.4Vol.5
著者:杉山 茂(すぎやま・しげる)スポーツプロデューサー。
元NHKスポーツ報道センター長。慶應義塾大学卒。オリンピック、主要国際大会などのテレビ制作のかたわら、スポーツ評論の著述を手掛ける。
近著に『物語 日本のハンドボール』

急速に歓び、明るさを取り戻す


――以前にもお話しいただいたように、急速に国際化し、1936(昭和11)年のベルリン・オリンピックで正式種目として実施され、前途洋々と思われたハンドボールの運命が戦雲とともに暗転していきます。今も見られる『送球』という言葉は、戦雲や国家からの統制を受けて生まれたものなのでしょうか。

『送球』は戦時下の外国語・外来語禁止によって生まれた言葉ではありません。

ベースボール=野球、テニス=庭球、ボート=漕艇のように、外来スポーツ語の邦訳の流れの中で考え出されたものです。一時期、手球と直訳されてもいます。

ゴールキーパーを門衛、フェイントをけん制、ドリブルを撥進などとしたのも邦訳で、外来語排除からではありません。

ただ野球などとは異なり、戦時中も東京の大学チームでは『送球』をあまり使わず、会話では『ハンドボール』を使い続けたと言われています。

――スポーツどころではない、暗く、閉塞感に包まれた時代を経て、ようやく光が差し込みます。

戦争が終わり、平和の日が戻ってからの各スポーツの立ち直りは極めてスピーディーでした。

1945(昭和20)年の9月21日には、京都で関西のOBたちによるラグビーの試合が行なわれ、このニュースでいっそう各競技が元気づけられました。

ハンドボールも関東で的場益雄さん(故人、筑波大の前身・文理科大OB、元・日本協会理事)、関西では馬場太郎さん(故人、元・日本協会副会長)らを中心に9月ごろから復活の動きが進められます。

そうした復活の動きの中では、大阪・豊中を拠点としたものが目ざましく、豊中は日本で最初のハンドボールタウンと言えます。

日本協会の『日本ハンドボール史』(1987年刊)によれば、45年11月には大阪・天王寺中学で大学、高専(旧制)など7チームで初の学生大会が開かれたとされています。

戦後まもなく、食糧の確保もやっとの時代を思えば、とてつもないパワーを感じます。

思い切りスポーツを楽しむことができる「歓び」が、こうした動きの原動力となったのでしょう。

――45年の12月には国体(国民体育大会)創設の動きも出てきますね。
 
平沼亮三さん(故人、日本協会初代会長。戦後は日本体育協会、日本オリンピック委員会会長などを歴任)らによる国体の創設は、新しい時代の動きを加速させました。

素晴らしい発想で、日本スポーツ界の中央・地方組織を強固にする多大な効果もありました。

現在も『スポーツの力』が提唱される場面は多々ありますが、スポーツができることの歓びや若者たちにスポーツの魅力を伝えていこうという情熱は、この当時の人たちとは比べものになりません。

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長年現場で取材を続けてきた著者だからこそ書けた、日本へのハンドボール伝来から現在までを追った力作。(杉山茂著、スポーツイベント・オンラインショップで発売中

――1946(昭和21)年1月には兵庫県西宮市で東西対抗(男子)も開かれていますね。

1月20日、西宮でこの大会が開かれたことは、当時、すべてのハンドボール人を感激させたと伝えられます。

この試合の前座に高等女学校(高女)の大阪・茨木高女-豊中高女、中学(旧制、男子)の大阪・北野-天王寺が組まれたことは、関西の戦前の活動のたくましさを示すものです。

平和の日が戻ったとはいえ、社会的にはとても苦しく、物資不足でスポーツ用品も配給制、国内の遠征には移動証明書が必要だった時代でした。

その中で歴史が浅いわりに、このようにハンドボールが力強く動いたのは、戦前の小さな灯を守った東京の大学OB、豊中を主軸とした大阪の旧制中学OB、高等女学校OG・関係者の力によるものでしょう。

1950(昭和25)年、第1回のインターハイ(全日本高校選手権)女子の部で、優勝・岡山操山、準優勝・倉敷青陵、3位・落合と岡山県勢が上位を独占したのも、高等女学校からの歴史、伝統があったからです。

教育、レクリエーションでなく、ハンドボールの競技化に目を向けた岩野次郎さん(故人、元・岡山県体育運動主事、のちに大阪、茨城でも普及に努め、日本協会参与も務めた)の存在も見逃せません。

また、この50年2月には、同年10月に国体(第5回)を控えた愛知県一宮市で全日本総合選手権(現・日本選手権)が行なわれています。

これで東京、大阪、そして名古屋(愛知)と、3大都市圏でハンドボールが根づいていくことになります。

今月のキーワード
送球

ハンドボールを『送球』と呼ぶようになったのは1936(昭和11)年ごろといわれる。日本協会発足の1年半ほど前だ。学校体操(育)の指導要領では『手球』と直訳していたが、競技スポーツの特性を“表現”したいとの声が高まって考案された。

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