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卒業【修士課程を終えました】

2023年3月24日、小雨のぱらつく仙台にて、

私は大学院を卒業した。
工学修士の学位をもらった。

この6年間、仙台で、とんぺーで、いろんなことがあった。嬉しいことも、悲しいことも、頭に来ることも、驚いたこともあった。
その全てを置き去りにして、4月から上京する。

大学(院)、ならびに学生という身分を卒業するにあたり、その生活を構成していた学業とサークルという2つの大きな要素について少し振り返りたい。


①学業のこと


私はあまり真面目な生徒じゃなかったし、周りのレベルについていけるほどのおつむもなかったので、ほとんど周りに頼っての単位取得になってしまった。何が原因とは言わないけど、1セメ〜3セメまでと4セメ以降では気の楽さがまるで違かったように思う。3セメで電磁気基礎論を落として5セメで再履したのも今ではいい思い出...になるわけあるか。
とにもかくにも、課題やテスト勉強などに付き合ってくれた学科の女子と某ノッポには大変感謝している。

研究は新規テーマを選んだこともあり茨の道...でもなかった。論文もアクセプトされたし、めちゃくちゃ悩んでた他の同期よりは上手くいってた方だと思う。
指導教官が教授ではなく助教だったこともあり実験室も居室も1人異なり、研究室の他のメンバーとは疎遠...でもなかった。元々飲み会は多かったし、何よりM2になって今のB4が入ってからは毎週のように麻雀を打ちに行ったりしていたので、普通に不自由なく遊んでいた。

研究室というものは大体の人の場合自ら進んで行きたい場所ではないから、その場にいる人や環境によってモチベも変わるというのが私の自論だ。だから、先輩や後輩、同期がこの人たちで本当に良かったと心の底から思う。
今年は弊研が3次希望まで残りませんように。笑

②サークルのこと


高校同期に弱さをバカにされたのをきっかけに、見返してやるという半分ヤケクソも入った不純な気持ちで入部したかるた会。

はじめに書いた、仙台では悲しいことや頭に来ることもあったというのは、ぶっちゃけ大体がサークル起因だ。今更隠すことでもないので言うと、組織の人に対してそういう感情を抱いたこともあるし、自分に対しての場合も、どうしようもないことに対してもある。

これら全部を総合して、多くの人との付き合い方を考えるようになった。女子校、しかも理系特化クラス出身の私がいた世界は、良くも悪くも似たタイプの子が多く、勿論全員同い年だ。だが大学はそうではない。特にこのサークルは引退制度がないためB1〜M2まで所属し男女比も半々程度、さまざまな考えやバックグラウンドを持つ部員が集まっている。同期ひとつとっても、自分と全く同じような考え方をしている人もいれば、真逆の意見をぶつけてくる人もいる。だから、例えば10数名の同期で執行代として100人近くの組織を動かすという1つの目標に向かうのは当然難しいといえば難しい。が、結果的にはどうにかなった。

誰かの大きな尽力によるものなのか、はたまた全員が協力したからなのかは知る由もないが、個人的見解は互いが互いとのより良い関わり方を理解し、その通りに動いたからだと思う。

本当にそうだろうか?
少なくとも私はそうしていたつもりだ。

かるた自体はA級昇級なんて箸にも棒にもかからないレベルだったが、それでも拗らせていた無段状態からB級までは這い上がることができた。なにより、高校時代はかるたを(競技者として弱いという)コンプレックスの素としか感じていなかった私が、練習の時間を純粋に楽しめるようになっていた。そして、前述の通り「人との関わり方」という社会に出る前に必ず知らなければならず、また私が一番苦手な要素に対し、多くの教訓を得ることができた。全て、ひとえに周りの人のおかげだと思う。

かるた会でお世話になった人の数は100人を超えるだろう。先輩方、後輩、そしてなにより愚痴をたくさん聞いてくれた(笑)同期へ、6年間本当にありがとうございました。


どれもこれも、仙台で経験したこと。
6年前は誰も知り合いすらいなかった街が、たくさんの人と出来事との出会いにより、今や思い出の沢山詰まった第2の故郷になりつつある。
そんな仙台を、今日離れた。



私は今、仙台を出る新幹線に乗って新居に向かう道すがらだ。そろそろ降りる準備をしなければならない。ずんだシェイクのカップを車内のゴミ箱に捨て、最後の学割が適用されるきっぷを改札に通したら、あとは東京の社会人として生きていくのだ。


みんな、卒業おめでとう!
わたしも、卒業おめでとう。


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