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身体の外から入れない

毎週火曜日はフリースクールにアルバイトに行く日です。
今日も行ってきました。いつも反省ばかりなのですが、今日は特に反省したことがありました。

Bくん、Cくん、フリースクールの代表の先生、私の4人でおもちゃで遊んでいました。BくんはCくんからおもちゃを勝手に奪うことが多かったので、代表の先生と私はBくんへの対応に追われていました。

そこへ急に、遠くで遊んでいたAくん(Bくんの弟)が来て、Bくんからおもちゃを奪おうとしました。
Aくんが何も言わずにBくんの腕からおもちゃをもぎ取ろうとしているように見えたので、私は「Aくん、貸してほしいなら一言言おうか」と言いました。
でも、フリースクールの代表を務める先生はAくんに、「どした?どした?」と聞くだけで、決してAくんの行動を咎めることをしませんでした。

代表の先生が「どした?」と聞き続けると、Aくんは小さな声で、「Bくんがお兄ちゃん(Cくん)のおもちゃを取ってたから、、、返してもらおうと思った」と言いました。
私はAくんの行動を単純で突発的なものと決めつけ、そこにどのような考えがあるかを考えていませんでした。また、考えようともしていませんでした。
きっと代表の先生は、常に子どもの行動の裏にある思いを汲もうとされているのでしょう。だから今回もAくんをはなから責めることはせず、「どした?」と優しく聴いたのだと思います。

私の好きなスピッツの「あかりちゃん」という曲の冒頭の歌詞は

身体の中から出られない
身体の外から入れない

プチリリ https://petitlyrics.com/lyrics/2847465

というものです。
いろいろな解釈ができると思いますが、私はこの歌詞を、
「魂や感情、考えが、人の身体の中から完全なかたちで出ることはできない。また、誰かがその人の魂、感情、考えを理解しようとしても(中に入ろうとしても)、完全なかたちでそれらを理解することはできない。」という意味だと思っています。
つまり、「人間は完全にわかり合うことはできない」という意味なのではないかと思っています。

私がアルバイトしているフリースクールには、自分の気持ちや考えをうまく言葉にできない子が多いように思います。というより、きっと子どもというものは自分を言葉で表現することが苦手なものなのでしょう。大人でさえ難しく感じるのですから、当たり前のことです。
もっと言えば、口からでる言葉は頭の中の気持ちや考えを「言葉」というツールを使って出力しているだけなので、「言葉」に縛られているという点で、「完全なその人の考え」からはほど遠いのかもしれません。そう考えると、「人間は自身を言葉で表現するのが苦手だ(完全な言語化は不可能だ)」と言ってもよいのかもしれません。

今までの人生でもそのことを幾度となく考えてきたのに、気を抜くとすぐに忘れて、隣人を自分と同化させ、わかったような気になってしまいます。
ただ偶発的に隣人となっただけであって、生まれてから死ぬまで一生赤の他人なのに、です。それは親子であろうがどんなに親密であろうが、変わりません。

私は、誰の身体の中にも入れません。
少しでもその人の身体の中にあるものを理解したい、その人に近づきたいと思うなら、丁寧に耳を傾け続けるしかないのでしょう。

子どもの行動の裏にある思いを考えるというのは、思いのほか疲れます。
考えない方が楽です。決めつけて、独りよがりに声をかけた方がずっと楽です。でも、私は子どもの本当の声を聴く教師になりたいです。

ここ一年ほど精神的に参ってしまい、誰かを丁寧にわかろうとすることを避けてきました。また人をわかろうとしすぎて疲れてしまうことが怖いからです。半分、もういいやと思っていました。
でも、怖がりすぎないで少しずつでも進んでみようと今日思いました。
進むことは私にとって意味をもつと思うからです。
うまくできるかはわかりませんが、子どもの声を聴く人になりたいという気持ちは、しっかりと今ここにあります。

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