人間の矛盾を理解出来なくなった私達へ〜現状の日本の左派右派の間違い本質~(あるいは、東浩紀さんゲンロン、シラスと、堀潤さん「小さな主語」の共通点+最近の新型コロナやロシアに対する東浩紀さんへの強い違和感について)

※かなりの長文なので時間がある時に読んで下されば幸いです。
※「[表現場面]について」という1.に続く(あるいは2.も踏まえた)追論も別のnoteとして書いています。そちらも読んで下されば幸いです。
※「東浩紀さんゲンロン、シラスと、堀潤さん「小さな主語」、の共通点」については、「3-2.高度情報化での分断を乗り越える為の限定コンテンツ/小さな主語の方法論」で短く触れています。その意図は頭から読んで下されば伝わると思われます。
※「最近の新型コロナやロシアに対する東浩紀さんへの強い違和感」については、補論H-1~H-5にかなり長く書かれています。その意図も頭から読んで下されば伝わるとは思われます。
また補論H-1~H-5はかなり長いので、独立した別のnoteとしても抜粋しました
※補論はそれぞれの章の理解助けにになる論が書かれています。続けて読まれる事を望んでいますが、少し読んで興味が薄い場合は読み飛ばして後から振り返るのも可能かもです。
(※2-2.の説明に混乱があったので、図7を含めて少し修正しました。)

0.はじめに

私達人間は、背後にあるいく重もの矛盾に満ちた存在だと考えられます。
しかし特に今のSNS上の、右派左派関わらないやり合いは、この人間の背後にあるいく重もの矛盾を無視していると感じられます。
そんな表層的な思考がまかり通っていると思われます。

私達はここ最近、特にSNSの発展により、人間の矛盾を理解出来なくなっていると思われます。
その人間の矛盾の理解を取り戻す為にこの文章は書かれました。

人間は、[生産場面][寛容場面][消費場面]での、大きくは3つの矛盾を抱えていると思われます。
それに加えて[蓄積された法秩序]の4つ目の矛盾があります。
この人間の4つの矛盾を踏まえた上で様々な議論がされる必要があると思われています。

1.[生産場面]、[寛容場面]、[消費場面]、[蓄積された法秩序]について

1-1.[生産場面]について

まず1番目の人間の矛盾は、[生産場面]での矛盾です。

それを図式化すれば、下の図①になると思われます。
つまり、人間は自身の欲望を叶えようとすると、かえって<秩序>の中に入って行かざるを得なくなるという話です。
それが[生産場面]での「欲望と<秩序>」の矛盾です。

(※図の横軸・縦軸の説明:
図の横軸の<離脱/解放←→積極/秩序/(自由主義)>は、今の秩序から離脱するか、秩序に重きを置くか、です。
図の縦軸の<寛容/多様性/(民主主義)←→排他>は、寛容性があるのか、排他的か、です。
詳しい説明は、以前の「ゲンロンカフェ「東浩紀がいま考えていること・5」個人的解釈と感想~ゲンロンカフェによるSF的想像力での現在の揺さぶり~」や、「保守・リベラル配置図と、憲法9条について、など 問題は右か左かではなく、寛容かそうでないか、だ ~2017年総選挙に際して~」で説明しています。)

上の図①にある様に、私達は「欲望」を現実([生産場面])で実現させる為に、かえって図①右([生産場面])の<秩序>の中に入って行きます。

そして、その現実の[生産場面](職場や(その準備期間としての)学校)には、必ず<上下関係>が形成されます。
(図①ではその<上下関係>を三角ピラミッドで表現しています。)
この<上下関係>には、職場での上司や部下の地位の違いや、能力別の扱いの違いなどが当てはまります。また、学校での学年や、学力やスポーツなどの能力別の扱いの違いなどが当てはまります。
この<上下関係>には、会社や学校の中での個人以外に、業界の中の下請けなど、企業・団体・集団単位の場合もあります。
つまり、<上下関係>には個人単位も集団単位もあるという事です。

また、[生産場面]の個人(あるいは集団)は、「欲望」を全面的に解放する事は出来ません。
なぜなら、[生産場面]での個人(あるいは集団)は、必ず[生産場面]の<上下関係>の中で、<分業>された役割を果たす必要があるからです。
(例えば、仕事では部署の中での1つの役割、学校ではカリキュラムの中で、スポーツならポジション役割‥など)

<分業>されている限り、その個人(あるいは集団)は一部の役割しか果たせず、「欲望」を全面的に解放する事は出来ないのです。

つまり私達は、自身の「欲望」をなるだけ全面的に解放しようと思えば、この[生産場面]での<上下関係>の<分業>ピラミッドの中で、競争により上位に勝ち上がって行く(相手を蹴落として行く)必要があるのです。

すなわち、私達(人間)の[生産場面](現実)での矛盾とは、「欲望」の全面的な解放を望んで行動すると、かえって<上下関係・分業(一部)>の<秩序>にからめ取られて行く、という矛盾の中身になります。

更にだからこそ、[生産場面]では(個人や集団がその「欲望」を[生産場面]の中で全面的に解放したいと思うので)競争や【支配欲】が発生します。

この[生産場面]での(欲望/<秩序>という)矛盾(【支配欲】の必然)を、特に左派の人達は余り理解していない様に思われます。
なぜなら左派の人達は、[生産場面]での上下関係・分業<秩序>の(是正)問題にばかり焦点を当てていて、背後にある人々の「欲望」解放の欲求を見ようとしていないからです。

なので左派の人達が、[生産場面]での<秩序>是正の主張だけをしていれば、それだけでは人々は背後にある「欲望」を抑圧されてるように感じてしまいます。
なので「欲望」を抑圧されてるように感じた人々から反発を喰らうのは必然なのです。

つまり左派の人達は、この[生産場面]での(欲望/<秩序>という)人間の矛盾を、まずきちんと踏まえる必要があります。

[生産場面]での<秩序>是正には、並行して人々の背後にある「欲望」をも現実的に解放する具体的な代案が必要になります。
つまり[生産場面]での<秩序>是正には、(スローガン的に"改革"を唱えるだけでなく)具体的現実的な(「欲望」解放の為の)代案とセットである必要があるのです。


[生産場面]では必ず自身の「欲望」を満たす為に、逆に<上下関係>の<秩序>に入って行きます。
また、[生産場面]は<分業>であるので、自身の「欲望」をなるだけ全面的に叶える為には、そこでの競争に打ち勝つ必要があり、【支配欲】も出て来ます。

そして、行き過ぎた【支配欲】を避ける為には、私達はまず、[生産場面]での矛盾の中で立ち現れる【支配欲】の存在を肯定する必要があるのです。
その上で、自身の【支配欲】を意識しコントロールする必要が出て来るのです。

私達が現在、1番目に出会っているのは、[生産場面]での(欲望/<秩序>)の矛盾への(特に左派の)無理解です。
そしてその無理解から現れるのは、(他者ではなく)自分自身の【支配欲】をまず認められず、自分自身の【支配欲】から目を逸らし続けている間違った姿だと思われます。

※補論A:左派の【歪んだ支配欲】について

左派の人達が、[生産場面]での人間の(欲望/<秩序>という)矛盾を余り理解していないという話は、左派(の一部)の人達の【歪んだ支配欲】にも示されています。

【歪んだ支配欲】とは、【支配欲】を自身は本当は持っているのに、それを認めず人々には否定をし、結果、自身が醜い形で無意識に内側から起こす【支配欲】の事です。

例えば反差別(【支配欲】の否定)を表では主張していた、「DAYS JAPAN」元編集長の広河隆一氏による性暴力(BUSINESS INSIDER 2019年1月9日)も左派による【歪んだ支配欲】です。

『日本会議の研究』著者の菅野完氏による性暴力(週刊金曜日 2018年3月17日)、なども左派による【歪んだ支配欲】だと言えます。

最近では現代アート集団「カオス*ラウンジ」元代表の黒瀬陽平氏によるセクハラ退職強要問題(西山里緒、浜田敬子/BUSINESS INSIDER 2021年2月1日)も起こっています。

当然、この【支配欲】を他者には否定しながら、自らの【歪んだ支配欲】で逆に自身の【支配欲】を満たす左派の行動パターンの増幅は、歴史的にも、カンボジアでのポル・ポト政権による国民約170万人大虐殺(吉川慧/ハフポスト 2016年11月24日)や、ソ連でのスターリンによる約67万人処刑・約16万人獄死の大粛正(コトバンク)、日本では連合赤軍による山岳ベース事件(時事)などが起こっています。


もちろん、右派論客がこぞって擁護した、安倍元総理に近い元TBS記者の山口敬之氏が伊藤詩織さんに性暴力を行った(毎日2022年1月25日)(東京高裁判決でも地裁に続き「同意ない性行為」が認められる。最高裁でも2022年7月7日に上告が退けられ判決確定(2022年7月8日時事))、単に【支配欲】を満たす右派による行為もあります。
そしてこの右派による単に【支配欲】を満たす為の行為や、残虐行為は、世界的に(例えば後述するロシアやシリアや中国などの)全体主義的・独裁的な国家で、国民に対してその延長線上に今も起こっています。

この左派の醜い【歪んだ支配欲】と、右派の違法や残虐【支配欲】は、どちらも[生産場面]での人間の(欲望/<秩序>という)矛盾を良く理解していないのが発生の理由だと思われています。

1-2-1.[寛容場面]について

次に2番目の人間の矛盾には[寛容場面]での矛盾があります。

[寛容場面]とは、<上下関係>の[生産場面]とは別の、人との<寛容>を交えた関係性の場面のことです。

例えば、職場や学校などの[生産場面]に、いけ好かない上司や先輩がいたとします。
そのいけ好かない上司や先輩との会話の中で、彼の趣味や家族の話を聞いて、意外にこの人も別の面があるのだな‥と[生産場面]とは別の関係性を持つ場面が[寛容場面]です。

つまり、[寛容場面]とは、[生産場面]とは(その人の趣味や生い立ちや家族の話などで)また違った<寛容>ある関係性が出来る場面の事です。
それを図式化すると下の図②になります。

つまり[寛容場面]での矛盾とは、[生産場面]で感じた(<上下関係><分業>などの)関係性とはまた別の、(趣味や生い立ちや家族の話などの)<寛容>的な関係性が出来るという(それぞれの場面で同じ人物の関係性が違っているという)矛盾です。

しかし私達は良く間違うのですが、[寛容場面]での関係性があるからといって、[生産場面]での問題が無しになる訳ではありません。

例えば上の例で言えば、いけ好かない上司が、例えば[生産場面]において度を超えたパワハラセクハラの人物だったとします。
その上司と(趣味などの)[寛容場面]での関係性があったとしても、それはそれこれはこれで、その上司の[生産場面]でのパワハラセクハラ問題の責任が軽減・無化される訳ではありません。

逆に言えば、[生産場面]での問題ある人物だったとしても、その人の[寛容場面]での([生産場面]とは別の)寛容的な関係性を否定もしてはいけないという事です。

つまり、[寛容場面]の矛盾の本質的な意味とは、[寛容場面]と[生産場面]は矛盾しながら両立する、という事です。

この意味は、[寛容場面]があるから[生産場面]での行いは軽減・無化されたり、逆に[生産場面]で問題あるから[寛容場面]が無化されたり、しないという事です。

※補論B:cakesでのホームレス記事について

この[寛容場面]と[生産場面]が矛盾しつつ両立する(一方で一方を無化してはいけない)話を良く理解してない例として、以前に炎上したcakesでのホームレス記事「ホームレスを3年間取材し続けたら、意外な一面にびっくりした」(ばぃちぃ/cakes 2020年11月11日)があると思われます。

ライターの安田峰俊さんも似た見解を書かれてました(安田峰俊/文春オンライン 2020年11月18日)が、個人的には、このホームレスに関する文章でなぜ炎上批判されているのか、当時すぐには理解出来ませんでした。

なぜなら、ホームレスでの[生産場面]での社会問題と、ホームレスの人達がDIY的に工夫して生活している[寛容場面]とは、矛盾しつつも両立するというのは、当たり前の前提だと個人的には思われていたからです。

上に書いたように、[生産場面]と[寛容場面]の両者は矛盾しながらも両立し、また一方で、双方共に無化してはいけないのです。
つまり、ホームレスの人達のDIY([寛容場面])の話が書かれたからといって、直ちにホームレスの社会問題([生産場面]の問題)が無化される訳ではないのです。

逆に言えば、この記事を批判した人達は、[寛容場面]を認めない、あるいは[寛容場面]を認めた途端に[生産場面]の問題が無化される、と思い込まされ過ぎなのではと思われました。

個人的には、このcakesでのホームレス記事を読んでもなおホームレスの社会問題が無化されると考える事はありませんでした。
なぜなら両者は矛盾しながらそれぞれ無化される事なく両立しているからです。

※補論C:小山田圭吾氏のいじめ問題について

補論Bと似た問題に、小山田圭吾氏のいじめ問題があると思われます。

小山田圭吾氏のいじめ問題とは、彼が東京オリンピック開会式の作曲者の1人に関わった事で、『ROCKIN'ON JAPAN』1994年1月号、『Quick Japan』1995年8月号で彼が語ったいじめ告白記事が、2006年当時に恣意的にまとめられたブログから拡散された問題です。

しかし記事を恣意的にまとめたブログによって小山田圭吾氏が批判炎上した後に、特に『Quick Japan』1995年8月の当該記事全文が明らかになると、小山田氏といじめられた人とに、当時友人的な関係性などがあった事が明らかになり、まとめブログと印象が違う!と半ば掌を返した一部世間の評価になりました。
(小山田氏は、オリンピック開会式辞任の後、しばらくしてから謝罪。記事で語った内容は誇張だったと訂正)

しかし、ここでの評価の掌返しにも、[寛容場面](いじめとは別の関係性)と[生産場面](学校等でのいじめ)が両立する矛盾を、良く理解していない問題があると思われます。

現実には、[生産場面](学校等)でのいじめがある事と、いじめた側といじめられた側に別の[寛容場面]での良好な関係性がある事は(矛盾ですが)両立します。
なので、例えいじめた側といじめられた側に別の良好な関係性([寛容場面])があったとしても、いじめ問題([生産場面]での問題)は軽減・無化される事はないのです。

同様に、逆にいじめの問題([生産場面]での問題)があったとしても、いじめた側といじめられた側に別の良好な関係性([寛容場面])がないともならないのです。

この問題はいじめに限らずセクハラ・パワハラ問題全般にも言えます。
私達は、[寛容場面]での(良好含めた)関係性と[生産場面]の問題は、矛盾しつつも両立するという理解が必要になると思われます。
[寛容場面]と[生産場面]との、両者の矛盾に満ちた両立をきちんと理解しておく必要があるのです。

1-2-2.家族[寛容場面]について

ところで[寛容場面]には家族の関係性も含まれると思われます。
家族[寛容場面]として図式化したのが下の図③になります。

家族は、職場や([生産場面]への準備の為の)学校といった[生産場面]での個々の役割とは、違う関係性を家族の間で持っています。
この関係性が「家族[寛容場面]」です。

「家族[寛容場面]」での家族は、(職場や学校の)[生産場面]とは違った関係性を、矛盾しながら両立させています。

そしてこの家族[寛容場面]は、1-2-1での[寛容場面]の源泉にもなっています。

1-3.[消費場面]について

ところで、(家族含めた)2番目の人間の矛盾である[寛容場面](の両立)だけでは1番目の「欲望/<秩序>」の[生産場面]の矛盾を全て解消出来る訳ではありません。

もちろん私達は[寛容場面]によって、[生産場面]での競争や<上下関係>や分業や【支配欲】などの疲弊から、息つくことが可能です。
しかし、残念ながら[寛容場面]だけでは、人間の回復としては十分ではないのです。

私達は、[生産場面]での矛盾による疲弊、[寛容場面]での矛盾両立の息つきを離脱して、本格的な《個人の全体》を取り戻す時間が必要なのです。

そしてその《個人の全体》を取り戻す場面が[消費場面]になります。
加えて、それが人間の3番目の矛盾の起こる場所だといえます。
[消費場面]は、[生産場面][寛容場面]ともそれぞれ矛盾したまま両立し、3番目の矛盾した場面として存在します。

[消費場面]について図式化したのが下の図④になります。

[消費場面]に関しては、睡眠や休息も[消費場面]に含まれると考えます。
なぜなら、睡眠や休息する為に、お金を払って家を購入したり部屋を借りたり(消費)するからです。
なので、([生産場面]での疲労を、睡眠や休息で取る訳ですが)その睡眠や休息の時間や場所も[消費場面]の1つだと言えます。

次に1-1でも書いた通り、私達は[生産場面]では<分業>により、1個人の「欲望」を全面的に叶える事は出来ません。
なので、個人の全面としての「欲望」(《個人の全体》)を[消費場面]で取り戻す必要が出て来るのです。
それは食事をはじめ、ありとあらゆる消費行動へと繋がります。

ところで、この[消費場面]では、[生産場面]で稼いだお金を使って消費が行われます。

つまり、個人としては[消費場面]で全面的に「欲望」(《個人の全体》)を取り戻す必要があっても、それは[生産場面]で稼いだお金の可能な範囲内に限られるという事です。

[消費場面]での矛盾の中心は、[生産場面]の<分業>で限定された「欲望」を解放する(《個人の全体》を取り戻す)必要がありながら、[生産場面]で稼いだお金の範囲内でしかそれを叶える事は出来ない、という[消費場面]/[生産場面]の間の矛盾になります。


そして、[消費場面]では、家族や友人や仕事仲間といった集団で連れ立って消費される事も少なくありません。
この事は、家族や友人や仕事仲間といった[寛容場面]と[消費場面]が矛盾しながらも両立する事を示しています。


さて、図④では、[消費場面]は[生産場面]より大きく描かれています。

現在、先進国に住む私達は消費社会を生きています。
つまり、私達は現在、[消費場面]の方が[生産場面]より大きな影響力を持つ時代に生きているのです。

であるので、[消費場面]からの要望の方が、(商品やサービスの提供元である)[生産場面]より(先進国では)力が上になっています。

この事は、良い点としては、私達は[消費場面]でより全面的な欲望(《個人の全体》の取り戻し)を叶え易くなっています。
他方、悪い点としては、私達は[生産場面]にいる時に、[消費場面]にいる人達から心無いクレームやSNSから罵詈雑言・誹謗中傷書き込みの横行を受け易くなっています。

そしてこの事により、自身の[消費場面]でのクレームや罵詈雑言・誹謗中傷の書き込みによって、[生産場面]で自分自身の首を絞めている社会になっているとも言えます。
なぜなら、1個人は(双方矛盾した)[生産場面]と[消費場面]を行き来しているからです。

[消費場面]で消費する為には[生産場面]での稼ぎが必要です。
なので、[消費場面]でのクレーマーや罵詈雑言・誹謗中傷の書き込みは、回り回って[生産場面]での自分自身への圧力を高める構造になっています。

この悪循環回路(負のスパイラル)は、更なる[消費場面]からの圧力を[生産場面]に掛け、結果として[生産場面]の人々のストレスが高まります。
そして、彼ら(私達)が[生産場面]から[消費場面]に移った時に、より高まったストレス解放の欲求によって[消費場面]でのクレームや罵詈雑言・誹謗中傷の書き込みを悪化させて行くのです。

しかし、この(悪循環の)消費社会から抜け出すのはかなり困難です。
なぜなら現在の高度に発達した[消費場面]は、覆いかぶさるように既に[生産場面]に組み込まれているからです。

私達の仕事の多くは、既にこれは不要不急なのでは?と思われる仕事内容になっています。
つまり[消費場面]としては不要不急の商品(サービス)に見えても、[生産場面]ではそれで稼いでいる人が大半になって来ているので、これを止める事は出来ません。

また、クレームや罵詈雑言・誹謗中傷の書き込みを止めようとする為の、クレームや罵詈雑言・誹謗中傷の書き込みも増幅しています。

私達は、この悪循環を緩和させる為には、[消費場面]と[生産場面]は1個人として行き来していて、矛盾して両立している事を良く理解する必要があると思われます。

その上で、[消費場面]と[生産場面]との間に[寛容場面]のいわば緩衝材を入れる必要があると思われます。
[寛容場面]での記憶を含めた人間関係の蓄積は、[消費場面]と[生産場面]で起こっている悪循環のクレーマー・罵詈雑言に、ブレーキを掛けさせます。

私達は、[消費場面]と[生産場面]との間の緩衝材となる[寛容場面]の([生産場面]とも[消費場面]とも違う別の)人間関係の(記憶を含めた)積み重ねの重要性を、[消費場面]を考える上でも、良く理解する必要があると思われています。

※補論D:「フジロックに政治を持ち込むな」論争について

数年前に起きた「フジロックに政治を持ち込むな」論争(ハフポスト 2016年06月21日)も、実は[消費場面]と[生産場面]との矛盾した関係を良く理解していない、特に左派の問題があったと思われます。

あっさりと言ってしまえば、音楽やフェスに「政治」を持ち込むのが自由なのは、個人的には言うまでもない話だと思われています。
音楽だけでなくあらゆる表現には、その背後に広い意味での「政治」(そこからの影響も受ける日常)が関わるのは当然だからです。

あとフェスに関しては、ライブ会場は同時に複数あり([1][2])、あるステージでの演奏や催しが気に入らなければ、同じ時間帯にやっている別のステージに移動すれば済む話です。
つまり、この時の批判はフェスの構造を全く理解していないズレた批判も少なくなかったのも事実です。

しかし、「フジロックに政治を持ち込むな」で起こった反発は、実際は「政治」ではなく「党派性」に向けられたものでした。
そしてその(特に左派の)「党派性」からの主張のは、[消費場面]と[生産場面]との矛盾した関係性を良く理解していない所から出たとも思われます。

私達は、[生産場面]において<上下関係>や<分業>の中で、日々、具体的に問題の解決や場の改善も行っています。
そして、ようやく取れた休日に[生産場面]で稼いだお金を支払って、安くない値段のフェスに参加しています。

その時に、具体対案なき理想論・非現実的な「党派性」に安住した"政治"発言に出会えば、日々の[生産場面]で具体的に解決・改善を重ねている多くの観客や人々が反発したくなるのは、当然だろうと思われます。

「党派性」に安住した安易な"政治"発言をする人達は、観客の[生産場面]での(解決・改善含めた)日々の労苦への敬意がないと感じられるのです。
その上で人々は、お金を払う[消費場面]で、([生産場面]での<上下関係>や<分業>で失った)個人の全体性(《個人の全体》)の回復に来ています。

つまり、「フジロックに政治を持ち込むな」批判とは、日々の[生産場面]に生き[消費場面]で《個人の全体》の回復を求めている一般人々の水準に到達している、深い具体的「政治」解決策を、左派の人は提示出来ていなかった批判、だったのです。

これが現在も続く、多くの人々が左派に対して根本的に評価出来ていない理由だと思われます。
つまりは、フジロックでも左派の人達は、人間の背後にある矛盾を深く理解し、現実的な解決策(対案)を考え抜き現実的に対峙する姿勢(つまり一般の観客と同じ地平に立つ姿勢)が欠けていたと思われるのです。

1-4.[蓄積された法秩序]について

人間における最後の4番目の矛盾とは[蓄積された法秩序]における矛盾です。

私達は、[生産場面](あるいは[寛容場面])[消費場面]において蓄積された人間関係を、明文化してルール化しています。
その明文化された人間関係のルールは、法体系として歴史的に蓄積されて来ています。

現在の日本を含む民主主義の国では、その法体系を、民主主義によって選ばれた議員の議論(議会)を経た多数決によって日々更新(法改正)しています。

そして、その[蓄積された法秩序]によって、[生産場面](あるいは[寛容場面])[消費場面]を、法規制の形で縛る事になります。


この[蓄積された法秩序]を図式化したのが下の図⑤になります。

ところで、([生産場面](あるいは[寛容場面])[消費場面]での)矛盾に満ちた人間関係が、削ぎ落とされ明文化(文章化)され法体系化されると、両者には(ズレという)矛盾が生じます。
この、実際の人間関係と法体系との(ズレという)矛盾が、[蓄積された法秩序]における矛盾です。

このズレ(矛盾)を解消する為に(実際は矛盾はどこまで行っても解消されないのですが)日々、法改正が行われる事になります。


そして私達は、明文化(文章化)に限らず、(文字や絵などの)表現と、表現の内容との間に、矛盾を感じています。

本来は、[蓄積された法秩序]に限らず、表現されたものの背後に、([生産場面]、[寛容場面]、[消費場面]といった)表現とはズレている人間関係の矛盾を感じ理解する必要があります。

(※表現については、「[表現場面]について (人間の矛盾を理解出来なくなった私達へ〜現状の日本の左派右派の間違い本質~へ…の追論」として、別のnoteで短く触れています。
そちらも参考に下さい。)

しかし現在では、(右派左派関わらず)表層の表現されたものそのものを、矛盾なく短絡に受け取ってしまっている人が少なくないと思われます。
現在では、表現されたものの背後にある人間の様々矛盾を読み取れない人が、識者でも数多く出現していると感じられます。
そして今は党派性に別れ、双方醜悪の状態になっています。

[蓄積された法秩序]の矛盾を理解する事は、即ち、背後にある人間関係における、[生産場面]、[寛容場面]、[消費場面]での矛盾を理解する事と同義です。

私達は今、表層の短絡に突撃するのではなく、深層の人間における矛盾理解への迂回が必要だと思われるのです。

※補論E:国家について

国家についてここで議論されていない事に不満がある人がいるかもしれません。
しかし、現在の国家は、税を国民や住民から徴収する[生産場面]、政府などと近い業界関係などへの分配である[寛容場面]、社会保障や福祉の再分配などの[消費場面]、法律の制定などの[蓄積された法秩序]と、それぞれに横断的に関わっています。
即ち、直接、国家を扱わなくても、[生産場面]、[寛容場面]、[消費場面]、[蓄積された法秩序]を理解出来れば、間接的に国家を理解出来ると思い、今回は直接の言及はしませんでした。

2.寛容と秩序の根源グラデーション

2-1.〔根源安心〕、〔根源寛容〕、〔根源秩序〕について

1.の章で私達は、[生産場面]、[寛容場面]、[消費場面]、そして[蓄積された法秩序]での矛盾を見て来ました。
私達は、人や場所の表層の背後に、[生産場面]、[寛容場面]、[消費場面]やそれらを縛る[蓄積された法秩序]での矛盾に満ちた重層性を見る必要があります。


ところで、私達は、[生産場面]、[寛容場面]、[消費場面]‥での振る舞い方の〔原型〕を、それぞれの個人は持っていると思われます。
その振る舞いの〔原型〕が形作られる場所こそ、母胎の中~生誕~精神が自立するまでの場所、つまり多くの人にとっては家族の場所である、と考えられます。

その事を図式化したのが下の図⑥になります。

図⑥を説明すると以下の様になります。

私達はまず胎児として、A.母体の中(図⑥下部の青の部分)で、〔根源的な安心〕という基盤を得ます。
もちろんその母胎の状態は、個々人や時間経過でも違っているので、胎児(子)の〔根源的な安心〕は、(安心~不安の)グラデーションをもって形成されると思われます。
つまり人によって〔根源的な安心〕は、(安心~不安の)グラデーション的に違っていると考えられます。


次に、B.根源[寛容場面]<母型>(図⑥中央の緑の部分)の説明です。

私達は出産時に誕生する訳ですが、私達人間は、生まれ落ちてから単独では生き延びる事が出来ません。
つまり、生まれた赤ん坊は、周りに保護され養育されてようやく生き延びる事が出来るのです。
この、赤ん坊が成長し多少の放置があっても大丈夫になるまでの場面が、B.根源[寛容場面]となります。

そして、B.根源[寛容場面]で、<母型>と関係しながら育まれるのが、その人の寛容性の基盤となる〔根源的な寛容〕(寛容性の原型)です。
また、子が、B.根源[寛容場面]で関係性を持つ<母型>は、個々人や時間によって違っています。
なので、<母型>との関わりで形成される、子の寛容性の基盤となる〔根源的な寛容〕(寛容性の原型)も、(安心~不安の)グラデーションをもって形成されます。

ところで、B.根源[寛容場面]は<母型>と図⑥で書かれていて、ここでの子が関係性を持つ相手は<母型>です。
しかし現在では、<母型>は必ずしも女性(母親など)が全面的に形成する必要はなく、男性(父親など)が代わっても良いという時代の流れになっています。
もちろん現在では、<母型>の形成は、男性女性で分担する事が求められています。


次に、図⑥上部の赤の部分である、C.根源[生産場面](根源秩序)<父型>の説明です。

<父型>は、主に仕事の収入([生産場面])によって、A.母体や、B.根源[寛容場面](<母型>)を下支えします。
また、<父型>は、赤ん坊~物心つくまでの子の〔根源的な秩序〕を形成します。
つまり<父型>は、後の外の世界の<秩序>に対応する為の、秩序の原型(〔根源的な秩序〕)を形成するのです。
もちろん、子が、C.根源[生産場面](根源秩序)で関係性を持つ<父型>も、個々人や時間によって違っています。
なので、<父型>との関わりで形成される、子の秩序の基盤となる〔根源的な秩序〕(秩序の原型)も、(安定~不安定の)グラデーションをもって形成されます。

そして、C.根源[生産場面](根源秩序)は<父型>と図⑥で書かれていて、ここで子が関係性を持つのは<父型>です。
しかし現在では、<父型>も必ずしも男性(父親など)が全面的に形成する必要はなく、女性(母親など)が代わっても良いという時代の流れになっています。
もちろん現在では、<父型>の形成も、共働きなど、男性女性で分担する事も必要とされています。

以上が図⑥の説明です。

2-2.〔根源安心〕〔根源寛容〕〔根源秩序〕のそれぞれの精神的な基盤段階について

2-1.で私達は、〔根源的な安心〕(A.母胎の中)、〔根源的な寛容〕(B.<母型>)、〔根源的な秩序〕(C.<父型>)という、それぞれの段階を見ました。
ところで、それらの段階は、それぞれ次の段階への基盤になっていると思われます。

その事を図式化したのが、下の図⑦になります。

図⑦の説明をすると以下になります。

(図⑦1番下の青の部分の)1段目として、胎児は、A.母胎の中で、それぞれ個々人で違う〔根源的な安心〕の(安心~不安の)グラデーション地平を形成します。


次に、その1段目の〔根源的な安心〕を基盤にして、誕生後に、(図⑦中央の緑の部分の)2段目の、B.根源[寛容場面]である<母型>との関係性の中に入って行きます。
その時に、赤ん坊~子は、個々人で違う〔根源的な寛容〕(寛容性の原型)の(安心~不安の)グラデーション地平を形成します。

ところで、(図⑦中央の緑の部分の)B.根源[寛容場面]で、赤ん坊~子は、全面的に<母型>に従う訳ではありません。
一方で、赤ん坊~子は、全面的に<母型>に反発する訳でもありません。
つまり赤ん坊~子は、<母型>に対して、親和性を感じている時もあれば、違和感を感じている時もあるという事です。
(それは赤ん坊~子と、<母型>とで、お互い様なのですが‥)
これにより、個々人で違う〔根源的な寛容〕(寛容性の原型)の(安心~不安の)グラデーション地平が形成されるのです。

そして赤ん坊~子は、<母型>に対して親和性を感じた時に、安心感を得ます。
逆に赤ん坊~子は、<母型>に対して違和感を感じた時に、不安感や絶望感を持ちます。
その<母型>に対する違和感が極端になると、母胎の中への回帰願望が出て来ます。
また、<母型>に対する違和感への反動が、後の排他性の起源と言えると思われます。

<母型>に対する違和感から作られる不安感は、違和や絶望感や、行き過ぎると排他性や母胎への回帰願望を生み出します。
いわば後ろ向きな感情の根源です。

<母型>に対する親和性から作られる安心感は、次の[生産場面]に行く為の基盤になります。
いわば前向きな感情の根源であり、次の段階で前向きな欲望を発露する為の基盤となります。


この2段目の〔根源的な寛容〕(寛容性の原型)を基盤にして、次に(図⑦1番上の赤の部分の)3段目の、C.根源[生産場面]である<父型>との関係性の中に入って行きます。
この時に、子は、個々人で違う〔根源的な秩序〕(秩序の原型)の(安定~不安定の)グラデーション地平を形作ります。

C.根源[生産場面]での子と<父型>との関係もまた、親和と違和とのグラデーションとして形成されます。
つまり子は、<父型>に対しても、親和性を感じている時もあれば、違和感を感じている時もあるという事です。
(それは子と、<父型>とで、お互い様なのですが‥)

そして子は、<父型>に対して親和性を感じた時に秩序基盤(安定感)を得ます。
この時に得た秩序基盤は、さらに次(外の世界)の[生産場面]での振る舞いの基盤になります。
子は、この様にして精神的に自立して行きます。

逆に、<父型>に対して違和感を感じた時に、根源的な挫折感や離脱感(不安定感)を持ちます。
この感情こそ、挫折感や離脱の根源になると思われます。

私達は、この〔根源的な秩序〕のグラデーション地平を3段目の基盤にして、外の世界へと進んで行く事になります。

※補論F:マジョリティとマイノリティについて

ところで、マジョリティの感覚、マイノリティの感覚も、それぞれこの〔根源的な寛容〕(寛容性の原型)のグラデーション(安心~不安)、あるいは〔根源的な秩序〕(秩序の原型)のグラデーション(安定~不安定)、に関わっていると思われます。

結論から言うと、特に左派が声高に言っている、マジョリティとマイノリティとを明確に分けてしまうやり方は、人間理解としては間違っていると思われます。

私達は、マジョリティの立場にありながらマイノリティの感覚も理解しています。
またマイノリティの立場にありながらマジョリティの感覚も想像出来ます。
それはなぜでしょうか?

その理由は、マジョリティもマイノリティも、(度合いは違っても)<母型>で形成される親和(安心)~違和(不安)のグラデーションをそれぞれ持っているからです。
だからこそマジョリティは、マイノリティの感じている不安感(違和感)を理解出来ます。
またマイノリティは、マジョリティが持つ安心感(親和性)の感覚も持っているのです。
つまり、マジョリティもマイノリティも、(度合いは違っても)<母型>(〔根源的な寛容〕)を通して互いに相手を地続きで理解出来るのです。

またマジョリティもマイノリティも、(度合いは違っても)それぞれ<父型>で形成される親和(安定)~違和(不安定)のグラデーションを持っています。
<父型>(〔根源的な秩序〕)においても、マジョリティとマイノリティは、互いに相手を地続きで理解出来るのです。


私達は、表層でマジョリティと分類される人々の背後に、マイノリティと同じ感覚を見る必要があります。
と同時に、表層でマイノリティと分類される人々の背後に、マジョリティと同じ感覚を見る必要があります。

その上で、マジョリティとマイノリティは、それぞれ同じ地続きの人間として、様々な問題に総体で対応し解決策を具体的に創り出して行く必要があるのです。

(本来は地続きで両者の深層では交わっている)マジョリティとマイノリティは、共に相互に深層共感しながら、全体総体で、問題の解決策を創り出す必要があると思われています。

2-3.<母型>の欠如を他で置き換える硬直右派・硬直左派の問題

ところで現在の多くの一般の人々(私達)は、特にSNS上での極端な右派と極端な左派のそれぞれに対して、強烈な違和感を感じていると思われます。
それはなぜでしょうか?

極端な右派と極端な左派は、それぞれ(B.根源[寛容場面]で<母型>との関係性の中で作られるはずだった)<母型>が欠如してしまった状態(不安)を、別の形に置き換えようとしていると考えられます。
その間違った置き換えこそ、現在の多くの一般の人々(私達)が、極端な右派と極端な左派に対して抱いている、強烈な違和感の正体だと思われます。

その事を図式化したのが下の図⑧になります。

図⑧では、(中央の赤い大きなバツの)<母型>の欠如(不安)が、2つの大きな赤や青の上下の矢印によって置き換えられているさまを描いています。

まず、中央の赤い大きなバツから上に向かった赤の矢印は、(中央の赤い大きなバツの)<母型>の欠如(不安)を「(過剰な)秩序(<父型>)で置き換えている」、【排他硬直右派】(極端な右派)の振る舞いを表しています。
つまり、【排他硬直右派】は、自身の<母型>の欠如(不安)を、過剰な秩序(<父型>)への一体感に置き換えている、と思われるのです。

次に、中央の赤い大きなバツから下に向かった青の矢印が、(中央の赤い大きなバツの)<母型>の欠如(不安)を「秩序破壊の母胎回帰で置き換えている」、【排他硬直左派】(極端な左派)の振る舞いを表しています。
つまり、【排他硬直左派】は、自身の<母型>の欠如(不安)を、過剰な母胎回帰への願望(全面的な秩序破壊の欲求)に置き換えている、と思われます。


ところで、多くの一般の人々は、(図の中央緑の)B.根源[寛容場面]<母型>での〔根源的な寛容〕(寛容性の原型)を、(安心~不安の)グラデーションで持っています。
なので多くの一般の人々は、秩序(<父型>)への一体感への想いも、母胎回帰(離脱)の願望も、親和と違和(安心~不安)としてどちらも持っているのです。

つまり、多くの一般の人々は、秩序への一体感への想いも、母胎回帰への願望も、どちらも持っているので、互いに複雑に引き合って双方からのブレーキが掛かるのです。

なので多くの一般の人々は、ブレーキの掛からない双方両極端な【排他硬直右派】【排他硬直左派】に対して、言ってる事は分かるが、根本からは共感出来ない、疑問を感じる、という事になります。
その根本的な要因は、【排他硬直右派】【排他硬直左派】が双方とも自身の<母型>の欠如(不安)を別の物に置き換えているのが理由だと思われます。

この事は、たまに【排他硬直右派】だった人が【排他硬直左派】になったりする(またその逆)という、取り替え可能の現象の説明にもなっていると思われます。
なぜなら、彼らは<母型>の欠如(不安)を別の物に置き換えているという点では共通しているからです。

【排他硬直右派】【排他硬直左派】は双方とも、本当は、(他者や社会への問い掛けでなく)自身の<母型>の欠如(不安)に対する解明が必要ではと思われます。
多くの一般の人々は、双方両極端になっていてブレーキが掛からない【排他硬直右派】【排他硬直左派】に対して、あなたの<母型>の欠如(不安)に私達を巻き込まないで欲しい、というのが本音なのです。

様々な問題の解決には、(自身の<母型>の欠如(不安)の置き換えによる、夢想的な一挙解決を望む極端な思考、ではなく)まず人間の背後にある複雑な矛盾を理解し、横断する解決策(具体的対案)が必要になるのです。

なぜなら、1番大きな破局性とは、ブレーキが掛からずに全体で両極端に振れた時だからです。
私達は歴史的に、ブレーキを失い全体で<寛容性>を失って、右派左派の要因に関わらず悲劇を起こして来ました。
その底の要因には、【排他硬直右派】【排他硬直左派】による<母型>の欠如(不安)の置き換えがあったと思われるのです。

迂回し、人間の矛盾を深層理解し、ブレーキを掛ける重要性が今こそ問われていると思われます。

※補論G:ロシア・プーチン大統領の間違ったウクライナ侵略について

ロシア・プーチン大統領のウクライナ侵略が、なぜ直感的にダメと(一部例外を除き)大半の人が理解しているかも、B.根源[寛容場面]<母型>の重要性が関係していると思われます。
なぜなら、国家や主権は、国民やそこに暮らす人々にとっては、B.根源[寛容場面]<母型>と地続きだからです。

ロシア・プーチン大統領が行ったウクライナ侵略で、私達はウクライナ人でなくても、B.根源[寛容場面]<母型>を踏み荒らされた感情を持ちました。
私達がなぜロシア・プーチン大統領のウクライナ侵略を直感的にダメだと思うのかと言うと、B.根源[寛容場面]<母型>の大切さを多くの人々はしっかりと理解しているからなのです。

3.分断を乗り越える為の限定有料コンテンツ/小さな主語と、日本の基盤問題

3-1.高度情報化で加速する表層での分断

私達は、2-3.で、<母型>の欠如を、別の物に置き換えている【排他硬直右派】(秩序への過剰適応)と【排他硬直左派】(全面的な母胎回帰(秩序破壊)願望)という、それぞれの両極端を見ました。
これは、いわば内面から見た【排他硬直右派】と【排他硬直左派】による分断の要因についてです。

しかし本来の私達は、1.で見たような[生産場面]、[寛容場面]、[消費場面]そして[蓄積された法秩序]での矛盾を背後に抱えています。
そして、2.で見たような〔根源的な安心〕、〔根源的な寛容〕、〔根源的な秩序〕という(安心~不安、安定~不安定の)グラデーションを内面に持っています。

つまり私達人間は、本当は単純に分けたり分断する事など出来ないのです。


しかし現在では、特にSNS上において、分かり易い表層での、特に【排他硬直右派】と【排他硬直左派】による分断が起こっています。

この【排他硬直右派】と【排他硬直左派】による両極端の分断を、外面から見ると以下の図⑨の様になると思われます。
(図⑨では、1番上の左側の青の部分に【排他硬直左派】、右側の赤の部分に【排他硬直右派】が配置されています。)

図⑨に描かれた(図⑨1番上)ア.分かり易い記号的表層の分断面では、【排他硬直左派】と【排他硬直右派】による両極端の分断が見られます。

つまり現在では、本来、背後の深層にあるはずの、それぞれの(図⑨中央の)今起こっているイ.現在の共時のグラデーションや、(図⑨下の部分の)さらに深層にある個々人の過去のウ.個人通史のグラデーションは、深層に見えなくなっているのです。

この現在の(図⑨1番上)ア.分かり易い記号的表層の分断面に見られる【排他硬直左派】と【排他硬直右派】による両極端の分断は、ネットSNS等による情報量の多さも要因になっていると思われます。
なぜなら私達は、現在の高度情報化社会の中で、多量の情報量によってかえって個々の情報をしっかりと吟味出来なくなっているからです。
なぜなら私達の使える時間は有限だからです。

本来の高度情報化社会では、実は時間を掛ければ、物事を深く知る為の情報は様々転がっています。
そしてしっかりと正誤を選り分ける時間を掛ければ、これまでよりも正確に深くそれぞれの情報に触れる事が可能です。

しかし、私達の使える時間は有限の為、情報量が増えると、それぞれの情報を正誤合わせて吟味する時間は逆に極端に減って行くのです。
すると私達は必ず触れる情報に偏りが出来たり、間違った情報に固執したり、浅くしか触れられなくなります。

これが【排他硬直左派】と【排他硬直右派】とに両極端に分断される外面的な要因です。


しかも、有限の時間という制約で偏りや浅さという弊害がありながら、高度情報化により情報に触れる時間が割合としては増えるので、私達は、実際の人間関係は昔より希薄になって行っています。

もちろんこの人間関係の希薄化は、煩わしい人間関係を軽減する事が出来、例えばパワハラやDV関係など問題の多かった関係性を軽減する長所もあります。

しかしこの人間関係の希薄化は一方で、1-2-1.で見たような([生産場面]とは違う)[寛容場面]での(趣味や生い立ちや家族の話などといった)その人の別の側面を知る機会を奪っているという短所もあるのです。

この[寛容場面]でのその人の別の人間性側面を知る機会を失う事は、表層での分断をさらに助長して行きます。


私達は、高度情報化によって、情報の偏り・理解の浅さ+[寛容場面]でのその人の別の人間性側面を知る機会の希薄化との両輪で、表層での分断を加速させているのです。
私達は、<寛容性>のブレーキを失ったまま、高度情報化により両極端の分断を加速させています。

3-2.高度情報化での分断を乗り越える為の限定コンテンツ/小さな主語の方法論

それでは、高度情報化によるかえっての、情報の偏り・理解の浅さ+[寛容場面]でその人の別側面を知る機会の希薄化との、両輪による分断を止める事は出来ないのでしょうか?

この高度情報化によるかえっての分断を止めるには、逆に情報を絞り、その小さな範囲でじっくりと人間の矛盾に対峙する方法があると思われます。

その情報を絞り、小さな範囲で逆に人間の矛盾に向き合う方法を図式化したのが下の図⑩になります。

図⑩では、(図⑩中央の)イ'.現在の共時のグラデーション(一部特化)での、対象を絞る事で、人間の深層を再び見ようとする様が描かれています。
また、(図⑩1番下の部分の)ウ'.個人通史のグラデーション(一部特化)でも、対象を絞る事で、相手の過去含めた人間理解の深まりが描かれています。

つまり、情報を絞って、逆に人間の背後にある矛盾やグラデーションを理解しようという試みです。

この対峙する情報を絞って、分断を止める為の試みを行なっている人物を、個人的には2人いる様に感じています。

1人は、有料化された視聴者限定コンテンツであるシラスという言論プラットフォームを立ち上げた東浩紀さんです。

もう1人は、「小さな主語」を使う重要性(東洋経済 2020年3月28日)を伝える堀潤さんです。


東浩紀さんは、言論プラットフォームのシラスの立ち上げに際して、現在のネット空間において「数だけが目標になっている」「友と敵の分断が深まっている」という 2つの問題点を批判的に指摘しました。(ゲンロンα 2020年10月27日)

東さんは、例えばYouTubeなどといった無料プラットフォーム(無料コンテンツ)は、広告費を稼ぐ為に数十万~100万以上の再生スケールを追わざるを得ない問題を指摘します。
そのスケールを追う為に、無料コンテンツでは炎上まがいの注目や、極端な表現や、紋切り型の結論で、注目を引く必要が出て来ます。
その結果、無料コンテンツでは中間がなくなり、「友と敵の分断」を悪化させる事になっています。

東さんは、その「数」(スケール)の目標で単純化された「友と敵の分断」から離れる為に、有料プラットフォーム(有料コンテンツ)であるシラスを立ち上げました。

有料コンテンツでは、視聴者からの直接の課金によって少ない視聴者数(無料コンテンツと比較して2桁少ない人数)で運営が可能になります。
さらにシラスでは、長時間話す事で登壇者の人間性を引き出します。
またシラスでは、視聴者参加コメントも会員ネームで固定され、かつ有料での参加なので、コメントの質も上がります。

さらにシラスでは、(月ごと支払い会員とは別に)都度課金という番組ごとの参加が可能で、自分が興味ある話題の番組のみでも課金可能にして参加し易くしています。
つまり有料でありながら、半分開いている仕組みです。

有料で話題や観客を限定し、極端にならない質を保ち、長時間配信で人間性に触れながら半分開いていて、人間の背後にある矛盾に満ちたグラデーションに出会い易くする仕組みです。


一方で、堀潤さんは「小さな主語」の重要性を指摘しています。
堀潤さんは「100人いれば、100通りの物語がある。」と指摘します。(東洋経済 2020年3月28日)
堀潤さんは主語を小さくする事で、より個別具体的に問題に対峙し、また背後に矛盾とグラデーションを抱える人間の深層に向かおうとしています。
そして主語を小さくする事で、大づかみの単純短絡による分断や扇動を回避する重要性を説きます。
この「小さな主語」の重要性の指摘も、人間の背後にある矛盾に満ちたグラデーションを理解する為の、1つの姿勢だと思われています。

東浩紀さんと堀潤さんは、互いに立場は違えども、その求める方向性は重なっている部分も大きいと思われています。

※補論H-1:東浩紀さんへの違和感、新型コロナに関する発言について

ところで、最近のゲンロン・シラスでの東浩紀さんの、特に新型コロナとロシアのウクライナ侵略に関しては、個人的な違和感がある事も事実です。

東浩紀さんは新型コロナに関して、政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会(尾身茂会長)にかなり批判的です。

東さんの当初からの主張は「三密を避ける。無駄に出歩かない。そのうえで無理なく日常を送ればよい」(東浩紀 2020年4月6日)で、文面からすると大まかに言うと分科会などの提言とそれほど違う訳ではありません。
ところが、シラスなどで繰り広げられる分科会や尾身会長への批判はかなり辛辣です。

もちろん、東さんが会場への観客も顧客としているゲンロン ・シラス経営者としての立場から、緊急事態宣言などで、飲食店や小売店、スポーツ・音楽・演劇・映画などの有観客産業を規制する事に、怒りを表明するのは理解出来ます。
特に飲食店への狙い撃ちは、クラスター(複数発生事例)が飲食店では昨年夏含めてほとんど起きていなかった事を考えれば、やり易い所から不公平的に規制したと政府や分科会が批判されても仕方がない部分もありました。

私個人も昨年夏に、尾身会長含めて分科会が病床数拡大を積極的に提言しなかった事を批判して来ました。([1][2]


しかしその一方で、東さんがシラスなどで展開した分科会や尾身会長への批判はやや一方的で粗雑だったのではとも思われています。
東さんのシラスなどでの主張は、新型コロナは最小限の対策以外はほぼ放置すれば良いとの印象で、個人的には受け取られました。

しかし例えば、当初トランプ政権下で新型コロナ対策に積極的ではなかった(時事)アメリカは、現在の新型コロナによる死者は総計で100万人を超えています。(WORLD METERS)
ブラジルのボルソナロ大統領も新型コロナは「ちょっとした風邪」だと対策に反対の立場を貫いていました(楮佐古晶章/東洋経済 2020年4月14日)が、現在のブラジルの死者は総計で66万人を超えていてアメリカに次いで世界第2位の死者数になっています。(WORLD METERS)

もちろん国や地域によって傾向に違いがあるので比較は難しいですが、1国で10万人以上の死者が出る可能性の現状の中で、新型コロナの対策をやらないで放置して良いとの判断は、おおよそ常識的ではないと思われます。
となると、どのレベルの対策が必要か、そのグラデーションの中での判断になります。

ところで、日本の新型コロナウイルス感染症対策分科会には様々な考え立場の人が入っています。

例えば、岡部信彦氏(川崎市健康安全研究所所長)は、分科会の前身の専門家会議からのメンバー(首相官邸)で、現在の分科会でもメンバー(内閣官房)ですが、当初から緊急事態宣言については慎重な姿勢の立場の人でした。 (BuzzFeed 2021年1月6日)

また現在の分科会の尾身会長も、2020年7月2日の時点で既に「強力な自粛要請を行うことは、国民的なコンセンサスが得られないと思う」 (NHK 2020年7月2日)と、経済との両立が国民コンセンサスで重要との見解を述べています。(当時の尾身氏は専門家会議の副座長)

そして現在の分科会には、経団連の代表や、2021年(昨年)8月に「コロナ医療体制、2倍以上の拡充を求める緊急提言」(東洋経済 2021年8月17日)を共同で出した経済学者の小林慶一郎氏(慶應大学教授)も入っています。

つまり、現在の新型コロナウイルス対策の分科会は、感染防御と経済との両立を、様々なグラデーションの中からそのバランスある対策を、決断するメンバーで構成されているという事です。

ここでの判断に対して、(個々具体的な対案含めた批判でなく)"分科会""尾身会長""(感染症)専門家"などを主語にした批判は、いささか粗雑ではないか、と個人的には思われています。

東浩紀さんやシラスでは、この様なやや粗雑な"分科会"や"尾身会長""(感染症)専門家"などへの具体性を欠いた辛辣な批判が継続していたと思われます。

もちろん、やり易い飲食店などが対策で狙い撃ちされた感への経営者としての怒りは私も共感します。
しかし社会全体としては、感染防御と経済とのバランスある対策をグラデーションの中で決断している分科会に対しては、ではどのバランスの対策なら良かったのかとの対案含めた具体的な批判が必要になると、思われていました。

以前ゲンロン にも出演していた八代嘉美さん(幹細胞生物学)は、
専門家の限界、科学的助言の限界についてはその通りと思いますが、端的に言い切ることは、責任を専門家に押し付けて切り離そうとする政権側の思惑通りになるのではないかと…」(八代嘉美 2021年6月22日)と、東さんの「専門家」への批判に応答しています。

また『ゲンロン11』でも執筆している作家の柳美里さんは、自身の新型コロナ オミクロン株への感染経験から
「オミクロンは、断じて、ただの風邪ではない」
「闘病中のわたしが感じたのは、体の弱い幼児やお年寄りや基礎疾患を持つ人が、わたしと同じオミクロン株の症状に襲われたら、果たして耐えられるだろうか?命の危機に瀕する人もいるのではないかということです。」
(NHK 2022年2月7日)
と取材に答えています。

事実、当初軽症との予測がされていたオミクロン株はその感染力も含めて、日本ではこれまでより新規で2倍以上の死者を出してしまいました。 (OUR WORLD DATA)

ゲンロン・シラスでも、新型コロナに関しては東さんと(恐らく)立場の違う例えば八代嘉美さんや柳美里さんなどを交えて、(安易に敵味方や、対策の放棄かそうでないかに分けない)感染防御と経済・日常生活とのグラデーションの中で、具体的なより良い対策とは何だったのか、を議論する機会が必要だったのではと思われています。

これが個人的な新型コロナに関しての東浩紀さん、ゲンロン ・シラスへの違和感です。

※補論H-2:東浩紀さんへの違和感、ロシア・プーチン大統領によるウクライナ侵略に関する発言について

個人的な東浩紀さんへの違和感は、今回のロシア・プーチン大統領のウクライナ侵略に関してもあります。

プーチン氏は当時のエリツィン大統領に後継者として指名され、副首長、首長となり、第二チェチェン紛争の成果で2000年の大統領選に勝利し大統領になります。

チェチェン紛争は、ソ連崩壊前後にソ連内のチェチェンが独立を宣言、それを認めなかったロシアのエリツィン大統領がチェチェンに独立阻止の為の軍事行動を行う所から始まります。(第一次チェチェン紛争1994~96年)
その後、1999年にプーチン首相(当時)が再び行ったのが第二次チェチェン紛争(1999~2009年)です。

チェチェン紛争での民間人の死者は、アムネスティ(2007年)によると、第一次チェチェン紛争で数十万人、プーチン首相(~大統領)が始めた第二次チェチェン紛争で2万5000人(+行方不明者が数千人)という凄まじさでした。(アムネスティ2007年5月)
(2005年のアルジャジーラ報道では第二次チェチェン紛争だけで20万人の民間人死者との話も(週刊文春 2022年3月9日))

特にチェチェンの首都グロズヌイでの空爆は悲惨で、国連は「地球上で最も破壊された町」と当時表現していました。(Newsweek 2016年10月14日)
(参考)
2000年、チェチェン首都グローズヌィにおけるプーチンの「特殊作戦」(常岡浩介 2022年3月7日)


ところで、この第二次チェチェン紛争は、合わせて300人以上の死者を出したモスクワなどでのロシア高層アパート連続爆破事件(1999年8月31日~9月16日)のテロ翻訳)が発端になっています。

プーチン首相(当時)は、この連続爆破テロはチェチェンによるものだと断定し、その怒りを背景にチェチェンに空爆などの軍事進行(第二次チェチェン紛争)を行います。

ところがこの間に不可解な事が起こります。
一連のアパート連続爆破のさなか、ロシアのリャザンのアパートの地下で爆弾が見つかり、テロを未遂で防いだ事件(リャザン事件)がありました。
ですがこのテロ未遂事件に、ロシア連邦保安庁(FSB、旧KGB)が関わっているという事実関係が出て来たのです。
(不審者の通話先がFSB、爆薬の工場がFSBの管理下、FSBがダミーの訓練だったと関連を認めるなど)
(「Russians wonder: Bomb plot or drill?」 ロサンゼルス・タイムズ 2007年3月4日(翻訳))
林克明/日刊SPA!  2022年03月12日
「プーチン・ファシズム」常岡浩介/月刊現代2004年11月号

つまり、連続アパート爆破テロにロシア政府(当時のプーチン首相)が自作自演で関わっているかもしれないという疑惑です。

疑惑はこれでは終わらず、後にアパート爆破事件にFSBが関わっていたかどうかを調査していた、セルゲイ・ユシェンコフ下院議員が2003年4月17日に射殺されます。翻訳

同様の調査していた独立系新聞ノーバヤ・ガゼータのユーリ・シェコチーヒン記者翻訳)も、2003年7月3日に「髪が抜け落ち、全身の皮膚が剥がれ、内臓が次々に麻痺」するなどして不可解に亡くなります。(COURRIER 2021年10月21日)


チェチェンによるとされたテロに関しては、2002年10月23日に起こったモスクワ劇場占拠事件翻訳)もあります。
死者は人質で約130人、犯人側で約40人に上りました。(死者のほとんどはロシア側が突入時に使用したガスによるものでしたが‥)

ところがこのモスクワ劇場占拠事件にも、ロシア政府あるいはロシア連邦保安庁(FSB)が関わっていたという疑惑が浮上します。

独立系新聞ノーバヤ・ガゼータのアンナ・ポリトコフスカヤ記者翻訳)は、それまでのチェチェンでのロシア軍などの蛮行を記事にしていて、モスクワ劇場占拠事件ではチェチェンの犯人側から占拠後に求められ、ロシア政府との間の交渉役として関わります。

ところが、このモスクワ劇場占拠事件の犯人側にいたはずのハンパシャ・テルキバエフという男が、なんと事件後の2003年4月にフランスで行われた欧州議会にロシア政府の代表団員として現れます。
「プーチン・ファシズム」常岡浩介/月刊現代2004年11月号
チェチェンニュース Vol.03 No.43  ※注2 2003年11月26日)

ポリトコフスカヤ記者はこのテルキバエフという男にインタビューします。
欧州議会ロシア政府代表団員となっていたテルキバエフは、モスクワ劇場占拠事件の犯人グループを先導し自らその一員として現場にいた事実を認めます。
そしてその証言の後の2003年12月に、テルキバエフはチェチェン首都グロズヌイで交通事故により亡くなります。

テルキバエフを取材したポリトコフスカヤ記者も、その後もチェチェンでのロシア軍を含めた殺害やレイプなどの蛮行の記事を書き続けプーチン政権を批判していましたが、2006年10月7日に射殺されます。( GLOBE朝日 2021年10月20日)



元FSB職員のアレクサンドル・リトビネンコ氏翻訳)も、ロシア高層アパート連続爆破事件とモスクワ劇場占拠事件は、双方共にロシア連邦保安庁(FSB)が関わっていると証言しました。

しかしそのリトビネンコ氏も、亡命先のイギリス・ロンドンで、2006年11月23日に放射性物質ポロニウム210により亡くなります。(産経 2016年1月25日)
その後、イギリスの内務省は2016年1月21日に、リトビネンコ氏の暗殺事件について「プーチン大統領がおそらく承認した」とする調査結果を発表しています。(日経 2016年1月21日)


個人的には、チェチェンが関わったとされる2004年9月1日に起こった北オセチアでのベスラン学校占拠事件翻訳)(ロシア側の突入により386人以上が亡くなる(うち186人が子供))も合わせて、例えエリツィン大統領とプーチン大統領がチェチェン独立を阻止する為に行ったチェチェンでの戦闘や空爆などによるチェチェン人への殺戮が酷過ぎていたとしても、テロで直接関係ない民間人を標的にするのは私は許されないと思っています。

しかし一方で、ロシア高層アパート連続爆破事件とモスクワ劇場占拠事件などに、ロシア連邦保安庁(FSB)やロシア政府(プーチン大統領)が関わっている疑惑が出て、それを調査していた記者や政治家や関係者が次々と殺されて行った事実は、異様を通り越して異常であると思われます。

プーチン政権に批判的な記者はその後も何人も殺害されています。(COURRIER 2021年10月21日)



プーチン大統領はメディア支配にも手を伸ばします。

実業家のボリス・ベレゾフスキー氏はORT(ロシア公共テレビ、現在のチャンネル1)の当時オーナーでした翻訳)が、プーチン大統領の圧力によりORT(ロシア公共テレビ)の経営権をほぼ強制的に手放さざるを得なくなりました。ORTの編集権はその後クレムリンに譲渡されます。
ベレゾフスキー氏はその後、2013年3月25日に亡命先のイギリスのロンドンで首を吊って死亡しているのを発見されます。(ロイター 2013年3月26日)

独立テレビ(NTV)の当時オーナーだったウラジーミル・グシンスキー氏翻訳)も、資金不正使用を口実に2000年6月13日に逮捕され、経営権の譲渡が釈放の条件になりました。
(「言論を支配せよ~"プーチン帝国"とメディア~」NHKスペシャル 2008年5月12日)
その後、独立テレビ(NTV)はロシアの半国営企業ガスプロムに強制的に買収されます。

こうしてそれまでは自由にプーチン首相~大統領を批判していたTV局(大場正明/Newsweek日本版 2022年04月07日)は、プーチン大統領の支配下に入ります。
そして、元あった国営テレビ(ロシア1)と、2005年に開局し特にプーチン大統領のプロパガンダメディアと指摘されているRT(元ロシア・トゥデイ)と合わせて、主要なTV局はプーチン大統領が全て意のままになる体制が出来上がりました。


その後プーチン大統領は、シリアのアサド政権の安定の為(BBC 2015年10月12日)に、2015年9月30日にシリアで空爆を開始し、シリアに軍事介入します。(BBC2015年10月1日)


シリアでは2011年のいわゆるアラブの春に民主化運動が起きました。
シリアでの当初の民主化運動は非暴力の運動でした。
その非暴力の民主化運動のデモに対してアサド政権は銃を撃ち、自国民を複数回、時に100人以上の死者のレベルで殺害します。
その結果、民主化デモの参加者は非暴力を諦め、アサド政権・大統領に対して銃を取って戦い始めます。
(参考:映画『それでも僕は帰る』2015年シリア)

その後シリアのアサド大統領は、拷問や殺害、子どもまでも拉致し殺したりとの国民弾圧を続けていました。
(「シリア 国民弾圧の実態」BS世界のドキュメンタリー2012年4月19日/ITN Productions イギリス2011年)
アサド政権は2011年からの5年間で1万3000人を絞首刑したとアムネスティから報告される国民虐殺も行っています。(「アサド政権「5年で1万3000人を絞首刑」 アムネスティが非難」 AFP 2017年2月7日)

元国際法廷主任検察官3人が2014年に出した報告書では、シリア内務省所属の憲兵隊から離反した人物から提出された、1万1000人の被拘束者の(中には目のない遺体や、絞殺や電気処刑のあとがみられる)遺体を写した約5万5000点のデジタル画像がある事を証拠として示されています。
(「「アサド政権による虐殺の証拠入手」元国際法廷検察官らが非難 シリア」 AFP 2014年1月21日)

プーチン大統領は、そんな国民弾圧と虐殺と徹底した反政府組織への空爆をしていたシリアのアサド大統領を助ける為に、2015年にシリアに軍事介入します。
そしてプーチン大統領は、アサド大統領と一緒になってシリアの反政府組織への無差別空爆を続けます。

元々はイラクやシリアなどで残虐行為を続けていたIS掃討の為の空爆だったはずですが、ロシアの空爆の比重は、ISに対してよりも反政府組織に対しての方が重点的でした。
(ISW 2015年11月20日)


ロシア軍はシリアの反体制組織への空爆を無差別で行い、それはチェチェンのグロズヌイでの空爆を思い起こさせました。
(参考:『アレッポ最後の男たち』2017年/デンマーク・シリア 監督: フェラス・ファヤード
https://www.youtube.com/watch?v=kTCd7BesU9g

その結果、シリアでは無差別空爆による破壊に次ぐ破壊で犠牲者は38万人を超えました。(朝日2021年3月25日)
反政府組織がいた地域に関しては、ほぼアサド大統領とプーチン大統領がやった事です。

プーチン大統領(当時首相)による1999年からのチェチェンのグロズヌイでの無差別空爆は、シリアでも反復されました。
そして今回のウクライナでもさらに反復されています。
(「ウクライナを見守るシリアの人々、アレッポでの惨状が再び」CNN 2022年3月21日)


ロシア国内では、ロシアによるシリア軍事介入の前の2015年2月27日に、プーチン政権を批判していたボリス・ネムツォフ氏(エリツィン大統領の時の第一副首相)翻訳
射殺されます。(ハフポスト 2015年02月27日)


2020年8月20日にはプーチン大統領を激しく批判していた野党指導者のナワリヌイ氏翻訳)に毒が盛られて(AFP 2020年8月20日)、9月8日に意識が回復するまで意識不明の重体でした。

ナワリヌイ氏は2021年1月18日治療を受けたドイツからロシアに帰国直後に拘束され(BBC 2021年1月18日)、過去の有罪判決の執行猶予が取り消され禁錮3年6カ月の刑を受けます。(BBC 2021年2月3日)
さらにナワリヌイ氏の罪は2022年3月23日に禁錮9年に大幅延長される判決を受けます。(BBC 2022年3月23日)


最近も2021年のロシア下院選挙にナワリヌイ派の女性候補者が選挙活動を妨害され、最後には立候補すらさせない決定がなされた事を伝えるドキュメンタリーが日本でも放送されました。
(「プーチン政権と闘う女性たち」 BS世界のドキュメンタリー2022年2月25日/イギリス2021年)


テロの自作自演が疑われ、その疑惑を調査したり告発した記者や政治家や関係者が次々に殺害され、TV局を強制的に国の配下に収め、チェチェンやシリアで数万~十万人以上の民間人合わせた死者を出す無差別空爆を行い、政権批判する政治家が殺害されたり毒を盛られたり拘束されたり立候補を出来なくさせられる‥
プーチン大統領はそれら全てに関わったり関わりの疑いが持たれています。

プーチン大統領への評価はもう十分材料が出揃ってないですか?
プーチン大統領への評価は、プーチン大統領によるウクライナでの蛮行の反復を待つまでもない話だと思われます。

方やウクライナやゼレンスキー大統領にプーチン大統領に匹敵する落ち度があったとは私には思えません。

東欧の国も、このような全体主義的なロシアか自由民主主義の西欧かのどちらを選択するか、自主的に選択して来たまでの話だと思われます。
東欧の国がEUやNATOに参加するかを決定するのは、その国の国民や政権であって(東野篤子 筑波大准教授)、(例えロシア、アメリカの双方からの働き掛けがあったとしても)決定するのはロシアでもアメリカでもないのです。

個人的には、東浩紀さんの言うウクライナとロシアは「どっちもどっち」(東浩紀 2022年3月21日)という考えにはほとんど全く同意する事は出来ません。

20年以上に渡り粗雑に敵味方に分けて妄想的に敵を殺害などで排除して来た(訂正可能性を否定し破壊し続けて来た)のはプーチン大統領の方なのです。
東さんの思想からも、20年以上に渡り訂正可能性を否定し破壊して来た全体主義的なプーチン大統領こそ、まず批判され退けられる対象だと思われてなりません。

※補論H-3:橋下徹氏のロシア侵略に対する見解への違和感について

ところで今回のロシアによるウクライナ侵略に関して、東浩紀さんと近い考えとの個人的な受け止めの人に橋下徹氏がいます。

この件に関する橋下氏の主張には様々あるのですが、橋下氏の主張の根本は「NATOとロシアで政治的妥結をはかるべき」(橋下徹 2022年3月12日)だと思われます。

橋下氏は、オリバーストーン監督によるインタビュー映像を見て「NATOとこじれていくプーチンの怒り」(橋下徹 2022年2月27日)を感じ、NATOの東欧拡大が今回のロシア・プーチン大統領によるウクライナ侵略の要因と見ているようです。

しかし、自国民の敵対者や批判する記者を殺害したり、万単位の民間人を空爆などで殺害して行く(訂正可能性を否定し破壊して行く)全体主義的なロシア・プーチン大統領と、アメリカなどからも働き掛けがあったとしても自由民主主義の欧米とで、どちらを選択するかの権利は、東欧の国々にとってもその国の国民や政府にあります。
プーチン大統領が、東欧の国々がロシアを選択しなかった理由を理解せず、プーチン大統領自らが省みる事をしないで責任を他者に転嫁しているのであれば、個人的にはプーチン大統領は肥大した被害妄想に覆われていると言うしかありません。

また、今回のロシアの停戦条件は2022年2月28日の時点で、(ウクライナがNATOに加盟しない中立化だけでなく)ウクライナの非武装化や、クリミア半島のロシア主権の承認が含まれ(産経2022年3月1日)、NATOに関連しない項目もありました。
そして特に、ウクライナの非武装化や、クリミア半島のロシア主権承認は、ウクライナが到底受け入れられる条件ではありません。

また2022年3月7日の停戦協議では、ロシアの停戦条件に、東部のドネツク州とルガンスク州の全域での親ロシア派による主権承認も加わります。(AFP 2022年3月7日)
しかし、東部のドネツク州とルガンスク州の全域で親ロシア派による主権を承認する事も、到底ウクライナは受け入れる事は出来ません。
それは武力による侵略で主権国家の領土を奪う行為を、認める事になるからです。

つまり、橋下氏がいくら「NATOとロシアで政治的妥結」を主張しても、NATOとは関係のない、ウクライナが受け入れられない、クリミア半島や東部の領土をロシア領や親ロシア派領として認める事がロシアの停戦条件になっているのです。
つまり、その停戦条件の変更をロシアに促さない限り、停戦合意は不可能だと言う話です。

3月29日の停戦協議でも、ウクライナはクリミア半島や東部に関して15年かけて協議や交渉と譲歩していますが、ロシアは東部やクリミア半島に関して一切妥協していません。(東京2022年3月31日)


私個人も、戦争が早期に終結し停戦が早く行われる事を願っています。
しかし一方で、侵略した側の武力による領土割譲の言い分が全て通る停戦条件を飲む事など、ほとんど不可能です。
その中で苦慮している侵略された側の政権を単純化して批判する事など、さすがに許されないでしょう。
停戦協議でも批判対象は武力による領土割譲で妥協しないロシア・プーチン大統領にあるはずです。
また、ロシアの武力による領土割譲の要求に対して疑問や批判を持っている人を、"停戦を望んでない人"と単純化して批判するのも、粗雑に敵味方に分ける間違った考えだと思われています。


あと補足ですが、ロシアはこれらに加えて非ナチ化を停戦条件に加えています。(産経2022年2月26日)

しかしウクライナの極右政党は、2019年のウクライナ最高議会選挙翻訳)では、全ウクライナ連合「自由」(スヴォボーダ)翻訳)や右派セクター翻訳)などが統一名簿で戦うも、全450議席中で1議席しか獲得出来ておらず、極右政党は既にウクライナ国民の支持を得られていません。

またウクライナでは2015年に、(共産主義と共に)ナチス的全体主義を非難し、それらのエンブレムを用いたプロパガンダを禁止する法律が制定されています。(「脱共産主義法に関する考察」田上雄大、「共産党やナチのシンボルを使用することが禁止」アムネスティ 2015年12月25日)

あと、よく名前が上がるアゾフ大隊(連隊)も、当初は問題も指摘されていましたが、CNNの取材に対する声明で「ファシズムやナチズム、レイシズムに関する疑惑を否定」しています。
隊にはユダヤ系の隊員もいて、ゼレンスキー大統領がユダヤ人である事も指摘し、アゾフ大隊(連隊)がレイシズムやナチズムと結びつけられるのは全くばかげていると反論(CNN 2022年4月2日)しています。

ロシア・プーチン大統領による、ネオナチがウクライナを支配しているかの様な主張は、いささか針小棒大に個人的にも思われています。

反対に、チェチェン、シリア、そして今のウクライナで行っている民間人への空爆や射殺などによる殺害などの蛮行によって、ロシア・プーチン大統領の方がナチに近いとの評価は、おおよその国際理解なのではないでしょうか。

(※ところで、2014年から始まったウクライナ東部での紛争では、ウクライナ政府軍と親ロシア派武装勢力の双方による拷問や民間女性への性暴力が報告されています。

政府軍のある兵士は、「ウクライナに栄光あれ」という入れ墨を入れていた右腕を親露派におので切断されたと訴えている。また、ドネツク(Donetsk)で政府軍に拘束されたある親露派戦闘員は、顔にポリ袋をかぶせられて窒息させられそうになった上、繰り返し殴打されたと明かしている。」(AFP 2014年11月21日)
ウクライナ紛争で「政府軍と親露派双方が拷問」 国連報告書」 (AFP 2014年12月16日)
ウクライナ紛争ではびこる性暴力…政府軍と武装勢力双方による性暴力が吹き荒れている」(Newsweek 日本版 2017年12月18日)

当然、2019年までに報告されているウクライナ政府軍と親ロシア派武装勢力の双方の暴力行為は、許されない暴挙として批判する必要があるのは言うまでもありません。)

※補論H-4:東浩紀さんの新型コロナやロシア・プーチン大統領への発言と、オープンレター提出者との共通項について

ところで、新型コロナや、ロシア・プーチン大統領のウクライナ侵略における東浩紀さん発言への私的違和感は、歴史学者の呉座勇一氏のTwitter発言に関するオープンレター問題にも通じていると個人的には感じています。

呉座勇一氏のTwitter発言に関するオープンレター問題とは、呉座氏が自身のTwitter鍵アカウントの中で、イギリス文学者の北村紗衣氏を揶揄し中傷する発言をしていた所から始まります。
Twitter鍵アカウントとは、そのアカウントの持ち主にフォローを許可されたフォロワーしかツイートを見る事が出来ないアカウントの事です。

その呉座氏の鍵アカウントでの北村紗衣氏に対する揶揄中傷ツイートが、北村氏本人に2021年3月17日伝わります。(北村紗衣 2021年3月17日)
その後も同様の揶揄中傷ツイートが北村氏に伝わって行きます。([1][2][3]

その数日後の2021年3月20日に、呉座氏は北村氏に、
北村紗衣さんに対する一連の揶揄、誹謗中傷について深く反省し、お詫び申し上げます。…」(呉座勇一 2021年3月20日(アーカイブ))
と謝罪します。

私はこの件を随分後で知ったのですが、この呉座氏の謝罪の時点で止まっておけば良かったと思われています。
なぜなら、呉座氏の鍵アカウントでの揶揄や中傷は良くないと私個人も思われますが、一方で、内容自体は本人が謝罪しているのを超えてさらに批判を重ねる内容でもないと思われたからです。
私達は(良くないですし、私個人はほぼやりませんが)裏の仲間内で、相手の揶揄や中傷めいた事を憂さ晴らし的に発言する事も少なくないと思われます。
それは政治的な左派右派でそう変わらないとも思われます。

私個人は裏で中傷めいた事を言い合うのは好みでないですが、一方で(良くないですが)左派右派立場関わらずそう言わずにはいられない人間のサガを否定するのも違うと思われています。
そんな(左派右派など関わらず)ちょっとした裏側の憂さ晴らしまで、取り締まり的に発言を封じて行く社会の方が私個人は恐怖を感じます。

この呉座氏の謝罪の直後の2021年3月23日に、呉座氏が大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代考証を降板したと発表されます。(朝日2021年3月23日)

大河ドラマの時代考証の降板は呉座氏本人からの申し出との事ですが、私個人は降板の必要はなかったと思われます。

2021年3月24日には、呉座氏の所属先である国際日本文化研究センターから呉座氏への厳重注意と関係者へのお詫びのリリースがあります。
(「国際日本文化研究センター教員の不適切発言について」(※2021年3月26日追記)(アーカイブ))

そしてその後の2021年4月4日に「女性差別的な文化を脱するために」とのオープンレターが連名で出されます。(アーカイブ)
(このオープンレターは2022年4月4日に公開が終了しています。

このオープンレターは賛同者の署名が勝手に使われる(古谷経衡 2022年2月15日)などの問題も起こるのですが、そもそもオープンレターの内容自体も問題あったと個人的には感じています。

オープンレターでは、「中傷や差別的発言を、「お決まりの遊び」として仲間うちで楽しむ文化」を「男性中心主義文化」として厳しく批判しています。
そして「中傷や差別的言動を生み出す文化から距離を取ることを呼びかけ」ています。

この内容は一見正しい様ですが、しかしよく考えてみると「男性中心主義文化」の定義は大変曖昧で、さらに「中傷や差別的言動」の線引きも曖昧で、これでは恣意的にこれは中傷だ差別だとの指定が可能になり、一方的な言論萎縮効果を生み出しかねません。

これではちょっとした仲間内での揶揄的な発言も全く禁止されるというゾッとする話になってしまいます。
オープンレターの呼びかけ人や賛同者は左派識者も多いと思われますが、右派発言をしている人に対して全く揶揄や中傷などやった事のない人達ばかりなのでしょうか。
それとも左派界隈での右派への揶揄中傷は許されて他は許さないとの主張なのでしょうか。

個人的には、【裏での】揶揄や中傷は(良くない事だと思われますが)、程度が軽いものであればある程度は許される行為とも思われています。
もちろんそれが公になってしまえば、本人に謝罪は必要になる場合もあるでしょう。
その時は撤回謝罪あり以降改善されるのであれば、それで終わりにした方がいいと私個人は思われています。


オープンレターの後、呉座氏は2021年9月21日に所属の国際日本文化研究センター(日文研)から懲戒処分を受け(京都新聞 2021年10月20日)、呉座氏はその前の2021年8月に日文研の准教授の決定を取り消され、日文研に対して地位確認の訴訟を行います。(京都新聞 2021年11月25日)

裁判がどうなるかは不明ですが、私は日文研の処分はさすがにやり過ぎだと思われています。


ところでこの呉座氏に関するオープンレター問題と、新型コロナや、ロシア・プーチン大統領のウクライナ侵略における東浩紀さんの発言とが通じているとはどういう事でしょうか。

それは、オープンレター提出者と東浩紀さんは、双方共に自身の領域に踏み込まれると、相手を敵味方に分けて厳しく批判しブレーキが掛からない(掛かり辛い)傾向があるのでは、という話です。

それを示したのが下の図アになります。

しかしオープンレター提出者と東浩紀さんでは、その領域の立ち位置は違うと思われます。

オープンレター提出者は、図アの左下の青い楕円の「排他的な人権的自由」(左派的:排他的な「離脱」による回復)が領域だと思われます。
一方で、東浩紀さん(あるいは橋下徹氏)は、図アの右下の緑の楕円の「排他的な経済的自由」(右派的:排他的な「欲望」の解放)が領域だと思われます。

「人権的自由」、つまり「「離脱」による回復」については、1-3.[消費場面]についてで詳しく説明しました。
「経済的自由」、つまり「「欲望」の解放」については、1-1.[生産場面]についてで詳しく説明しました。

双方の「排他」性の意味は以下になります。
オープンレター提出者の「排他」性は、呉座氏が既に謝罪しているのにブレーキを掛けられず、「人権的自由」の領域に踏み込まれたと、相手を「男性中心主義文化」と粗雑に敵味方に分けて、相手の存在が無くなる域まで批判し続ける印象を指しています。
東浩紀さんの「排他」性は、自身の「経済的自由」の領域に少しでも抵触すると、相手のグラデーションある立場を具体的に踏まえないまま、粗雑に敵味方に分けて相手を批判し続ける印象を指しています。

東浩紀さんは新型コロナに関しては、様々な研究成果や、分科会メンバーの考えの様々なグラデーションある違いを踏まえないまま、グラデーションを踏まえた上での対案を示さず規制を全批判したり、粗雑に分科会のメンバーをまとめて批判したりして来たと思われます。
東浩紀さんはロシア・プーチン大統領のウクライナ侵略に関しては、そもそもプーチン大統領が20年以上粗雑に敵味方を分け敵を弾圧して来た(訂正可能性を否定し破壊して来た)蛮行の連続性に対して、グラデーションある苦渋の決断と行動をしているウクライナ側の具体的考えを踏まえないまま、ウクライナへの批判を行って来たと思われます。
また国際政治学者への辛辣な批判も続いていると思われます。

東さんは、ロシア・プーチン大統領に対して、今回のウクライナ侵略に対しては批判していますが、プーチン大統領の20年以上の蛮行についての明確な批判や否定は薄いと思われます。
そして、ロシア・プーチン大統領による粗雑に敵味方に分けて敵と見做した者を殺害したり投獄したり弾圧したり抑圧したりして来たりその疑いがある(あるいはプーチン大統領が助けたシリア・アサド大統領の)全体主義的体制を、東さんはしっかりと否定し退けられているとは感じません。

それは、中国政府が、香港での一国二制度の国際的な約束を反故にし言論の自由を明確に抑圧(BBC2021年4月17日)していたり、ウイグルでの裁判のない100万人の強制収容(BBC 2019年11月26日)や民族浄化の疑い(西日本新聞2021年2月4日)に対しても、同様だと思われます。

この理由は、東さんが、図アの右下の緑の楕円の「経済的自由」(右派的:「欲望」の解放)が守られるかどうかが第一の関心であり、「経済的自由」が守られさえすれば、東さんは結果的に(訂正可能性を否定し破壊する)全体主義的体制も容認してしまっている所にあると思われます。
(「経済的自由」以外の問題には関心が薄い「排他」性)
つまり、<他者を敵味方に安易に分けてはいけない>という東さんの思想の根本からの瓦解です。

なぜなら、今の全体主義的なロシアも中国も、政権に歯向かったり政権の領域に踏み込まない限り、「経済的自由」はある程度は補償されるからです。
そして「経済的自由」に重きを置く思想は、次第に全体主義的国家や政権を黙認し容認して行く事になると思われます。
いわば、全体主義を容認し全体主義の準備に手を貸してしまう危険性の話です。

(※「経済的自由」で全体主義的政権に歯向かい逆に制裁を受けた例としては、ロシアでは、ミハイル・ホドルコフスキー氏翻訳)が、2003年クレムリンでの新興財閥オリガルヒが集まった円卓会議でプーチン大統領に直接、ロシアでの賄賂横行やロシアの国営石油企業ロスネフチの不正を告発も、逆に脱税や詐欺で逮捕され10年間収監された例。翻訳)(VANITY FAIR 2012年4月号)
「経済的自由」で全体主義的政権の領域に踏み込んだ例としては、中国では、アリババグループが、アリババ副総裁の不倫に関する一般SNS発言を、アリババが出資するウェイボーから削除し、メディアと世論の監視を担当する中国共産党中央宣伝部から「中国共産党の領導を弱体化させる動きを断固防止しなければならない。資本による世論操縦のリスクを断固抑止しなければならない」と強い批判を受け、それをきっかけにモバイル決算や過剰な個人情報の取得などが問題視され、独占禁止法違反で182億2800万元(約3000億円)の制裁金を受けた例。(高口康太/現代ビジネス2021/4/16)
はあります。)

この、ロシア・プーチン大統領の様な、粗雑に他者を敵味方に分けて敵側を排除して行く(訂正可能性を否定し破壊して行く)全体主義的体制に、「排他的な経済的自由」の基盤によって引き寄せられてしまうのであれば、それは東さんの思想の弱点だと思われます。
そしておそらく東さん自身が1番その弱点を分かっていると思われます。

そしてその、粗雑に他者を敵味方に分けて敵側を断罪する「排他的な経済的自由」の感情は、オープンレター提出者が「排他的な人権的自由」に少しでも抵触した時に起こす感情と、残念ながらコインの裏表だと思われています。

また人々が妥協的に解決を求めて行く「民主主義」も、「経済的自由」を抑圧する一因にもなります。
東さんが「民主主義」を批判する(東浩紀 2019年9月26日)のもそこが根本理由と個人的には思われています。

ところで私達の多くは、「経済的自由」(右派的な「欲望」の解放)も「人権的自由」(左派的な「離脱」による回復)も、どちらも重要であると考えていると思われます。
そして「経済的自由」と「人権的自由」の深層は、(1-2-1.[寛容場面]についてで触れた「<寛容>的な関係性」や、1-4.[蓄積された法秩序]についてで触れた「(蓄積され)明文化された人間関係のルール」と相まって)矛盾に満ちた人間を形成していると思われます。

そんな重層的なグラデーションの中での不断の具体的な解決策の決断が必要になるのです。

その時、暫定的に「経済的自由」や「人権的自由」にも妥協が求められます。
それに対する批判は、もちろん具体的に対案が示される形でなされる必要が出てきます。
なぜなら対案なき批判は、スローガン的に敵味方を分けて敵を断罪して自己慰安を獲得する、多くの私達にとっては、一部の党派にしか有効でない不毛で害悪な主張だからです。

今回のロシアによるウクライナ侵略に関しても、例えば停戦を主張するのであれば、具体的にどの様な停戦条件が必要かを自ら示す必要があると思われます。
対案の必要性は新型コロナに対する感染防御規制への批判でも同様だと思われます。
その是非は、関係する全員にとって(ロシアのウクライナ侵略ならロシアとウクライナの国民や住民の全員にとって、日本の新型コロナ対策なら日本の国民や住民の全員にとって)よりベターなのかで判断されます。

そしてそれに対しての更なる具体的な反論があれば、更に議論を深めて行く必要があると思われます。
それが一般から識者に求められる姿勢なのだと思われています。

東浩紀さんの思想は本来、(私の感違いでなければ)そんなグラデーションの中での具体的決断(訂正可能性)の話をしていたのだと思われます。
(訂正可能性を否定し破壊する)全体主義的な政権の粗雑に敵味方を分けて敵の存在を亡き者にして来た思想や考えを、退け批判した上で、様々なグラデーションの中で具体的に(時に自らも妥協を引き受ける形で)議論が出来る場所に、東さんの思想が示していた本来の場所に、東さん自身が戻られる事を、東浩紀さんの思想の読者としても強く願っています。

そして東さんに近い人だからこそ、安易に敵味方に分けて相手を断罪する場所からの共の離脱を、促して欲しいと思われています。

※補論H-5:ゲンロン代表の上田洋子さんの重要な立ち位置について

ところで、補論H-4でも示した図アの左側にゲンロン代表の上田洋子さんを示しています。

上田洋子さんは現在、ゲンロン代表(中央公論.jp 2021年11月12日)を務めていますが、その発言や文章の内容から個人的には左派的で、「人権的自由」(左派的な「離脱」による回復)に共感ある人だと思われています。
いわば「経済的自由」(右派的な「欲望」の解放)に重心がある東浩紀さんとは逆の立場と言えます。

しかし上田さんは単純なスローガン的「人権的自由」を唱える「排他」的な人ではありません。
そして上田さんはロシア文学が専門でもあり、単純なロシア批判の人でもありません。
しかし一方で、20年以上に渡るプーチン大統領の(訂正可能性を否定し破壊して来た)全体主義的な言動に対して強い批判がある様にも伝わって来ます。

さらに上田さんはゲンロン経営者として、「経済的自由」(右派的な「欲望」の解放)の重要性も体感しています。

つまり上田さんは、プーチン大統領の様な安易に敵味方に分け殺害含めた敵の排除をし続けている(訂正可能性を否定し破壊して来た)全体主義的な政権や国家を無意識に肯定してしまっている東さんを、本来のグラデーションの場所に引き戻す重要な役割が出来る人とも思われています。

上田さんは、ゲンロンが明確に(訂正可能性を否定し破壊して来た)全体主義的な政権や国家を批判して退け、その上で「人権的自由」と「経済的自由」との間にグラデーションで存在する(もちろんロシアや中国などに暮らす一般人々を含めた)様々な人々を肯定する為の、大切な役割を担う人になると思われています。

3-3.人間の背後の矛盾とグラデーションを理解した先に見える運命的な日本の基盤問題と見えなくなっている構造問題

3-3-1.日本の基盤問題について

私達は1.で、[生産場面]、[寛容場面]、[消費場面]、そして[蓄積された法秩序]といった、それぞれの場面で人間(私達)が矛盾しながら両立している様を見ました。

また2.で、人間(私達)が、〔根源的な安心〕、〔根源的な寛容〕、〔根源的な秩序〕といった、(安心~不安、安定~不安定の)グラデーション地平の深層を持っている事を見ました。

そんな地続きの矛盾に満ちた私達人間のグラデーション深層を理解する事で、ようやく見えて来る問題があります。

それが運命的な(日本であれば)「日本の基盤問題」なのです。

その事を示したのが下の図‪⑪‬になります。

日本の基盤問題とは、
⓪行き過ぎたグローバリズムによる圧力
①超少子高齢化
②アメリカとの敗戦(日米同盟)+人権に問題ある中国との関係
③見えなくなっている構造問題
になると思われます。

3-3-2.行き過ぎたグローバリズム圧力について

⓪行き過ぎたグローバリズムによる圧力とは、行き過ぎた右派的な「経済的自由」(新自由主義)と、行き過ぎた左派的な「人権的自由」(ポリティカル・コレクトネス)の、右派左派両側からの行き過ぎたグローバルスタンダードの圧力の事です。
(「現在の日本の硬直化した左派と右派の間違い本質、私的解釈~現在の保守・リベラル配置図~」でも違う意味で触れましたが)
この右派左派双方からの行き過ぎたグローバリズムによる圧力によって、世界中でかえって反動的で硬直化した保守主義あるいは排外的な空気が蔓延して来ていると思われます。

とは言え、右派的な「経済的自由」も、左派的な「人権的自由」も、両方とも大切です。
しかし当然、行き過ぎては逆効果で、その国や地域でグラデーション的に積み重なった人間的文化的な矛盾の蓄積に対して、穏当な受け入れ方が重要なのです。

3-3-3.①超少子高齢化の問題について

日本の基盤問題の①超少子高齢化とは、日本は世界トップクラスの高齢化率の国(令和3年(2021年)版高齢社会白書 内閣府)で、その社会的経済的な影響問題の事です。

経済学者のクルーグマン氏翻訳)(ニューヨークタイムズ 2015年10月20日)や、当時の白川方明 日銀総裁(『金融研究』 2012年10月)も指摘していましたが、日本は生産年齢人口一人あたりのGDPや実質GDPで見ると、2000年頃からアメリカより成長しているのです。
つまり、未成年者や高齢者を除けば、2000年頃以降の日本はアメリカよりも経済成長して来たという事です。

なので、現在の日本の経済的な停滞の大きな要因は、生産年齢人口の割合が低下しているにも関わらず、高齢者人口が激増している所(総務省統計局 2022年4月15日)にあると考えるのが自然です。

即ち、生産年齢人口で生み出した資金が、高齢者への社会保障費に回されて(財務省 2018年4月11日)成長が阻害されているという実態です。

その日本の超少子高齢化による経済停滞を根本的に解決するには、大規模な移民を受け入れるしかないとも思われます。

クルーグマン氏は、少子高齢化の問題を抱える日本が期待レベルの経済成長をする為には「膨大な量の移民が必要」(WEB VOICE 2019年01月16日)と述べています。
若い世代の移民は税金を収める形で、日本の高齢化社会の社会保障費を支えてくれる役割も担えます。

しかし海外からの移民は文化的な摩擦も発生します。
その問題を解消する為にも、日本と移民の人々とが相互に文化を理解する<人間的な移民準備>の構えが必要になります。

現在、日本の入国管理局で起こっているスリランカ人ウィシュマさん死亡事件などの入国管理局による繰り返される死亡や暴行などの醜悪な事件(レジス・アルノー/東洋経済 2021年08月29日)も、この超少子高齢化の問題が濃縮していると思われます。

なぜなら、日本の超少子高齢化の問題を解決するには、大規模な人間的な移民受け入れしかないという結論になるからです。
その大規模な人間的な移民受け入れという結論から政府も国民も目を逸らし続けている所に、日本の入国管理局の醜悪さが濃縮してしまっている要因があると思われています。

また超少子高齢化の問題は、あらゆる資金が社会保障費に吸い上げられるので、社会保障費自体の給付や医療費が抑制され、教育費が抑制され、若い世代への資金も抑制されて来ています。

即ち、新型コロナで大きな問題になった保健所体制の貧弱さや、コロナ病床数が十分確保出来ない問題も、超少子高齢化が要因と言えます。
日本の大学含めた研究費に資金が十分回らないのも、超少子高齢化が要因と言えます。

しかし政府も国民も、<人間的な移民準備>から目を逸らし、人間的な大規模移民をやらないまま、日本のこのままの停滞を団塊ジュニアが死に絶える30~40年後まで誤魔化してやり過ごそうとしているのが実態だと思われます。

そしてこの様な状況の中で消費税を減税するというのもあり得ない話です。
そもそも日本の国民負担率はOECD加盟国でかなり低い国(財務省)なのです。

もちろん消費税増税はこれまで法人税等の減税の財源に主に使われて来ました。

日本の企業は「社会保障給付に対する企業の負担」(第6回社会保障制度改革国民会議 社会保障制度関係参考資料p.25/首相官邸 2013年3月13日)でも分かる様に、企業による社会保障費負担は大陸ヨーロッパで比較すれば軽く、法人税を合わせても負担が重い訳ではありません。
本来であれば、(大規模な人間的な移民政策が出来ないのであれば)日本では超少子高齢化の為に、法人税・消費税含めたあらゆる税や社会保険料はバランス良く増やす必要があります。

これまでの法人税減税に偏ったやり方も問題だったと言えますが、一方で消費税を代わりに減税出来るという一部野党の主張も完全なまやかしだと思われます。

これが、日本の基盤問題の①超少子高齢化になります。

3-3-4.②アメリカとの敗戦(日米同盟)+人権に問題ある中国との関係の問題について

日本の基盤問題の②アメリカとの敗戦(日米同盟)+人権に問題ある中国との関係とは、まず例えば沖縄の米軍基地問題があげられます。

民主党政権に政権交代する直前の2009年7月に、当時の鳩山由紀夫 民主党代表は、普天間基地の移設を「最低でも県外」と明言します。
しかし様々な検討の中、アメリカも民主党政権のオバマ大統領であったのにも関わらず、鳩山総理は2010年5月23日に沖縄に行き、辺野古案への回帰(「最低でも県外」移転の断念)を謝罪と共に沖縄に伝えます。(読売 2022年3月23日)

その、普天間基地移設の「最低でも県外」断念の1ヶ月前の2010年4月12日には、鳩山総理はオバマ大統領に10分しか会談の時間を貰えず(J-CAST 2010年04月14日)、オバマ大統領に「きちんと責任取れるのか」(時事 2010年4月15日 )と、普天間基地移設の決着に関して強い疑問を抱かれる始末でした。

後にも、当時鳩山政権の外務大臣だった岡田克也氏は、「辺野古への移設が最後に残された唯一の選択肢」(岡田克也 2013年11月27日)と明言しています。

その後(私も期待したのですが)、元自民党の翁長雄志氏がオール沖縄として2014年11月16日に沖縄県知事に当選(日経 2014年11月16日)し、現実的なアメリカへのロビー活動を通じて普天間基地の辺野古移設を止める活動に出ます。

しかし、翁長 沖縄県知事は4度のアメリカ訪問を行いますが、そのいずれも既に日米政府で合意され終わった話としてオバマ政権含めてほとんどアメリカ政府には相手にされず退けられます。
訪米1度目(産経 2015年6月4日)、2度目(テレビ朝日 2016年5月17日)、3度目(沖縄タイムス 2017年2月22日)、4度目(琉球朝日放送 2018年3月21日))


現在の日本領で先の大戦で地上戦が行われた唯一の沖縄の沖縄戦(NHK)は悲惨だったと個人的にも感じています。
(参考:「戦争証言アーカイブス」沖縄戦 NHK)
そんな沖縄で未だに米軍基地の多大な負担が続いている事に個人的にも憤りを感じています。

しかし一方で、特に日本の左派政党や左派識者が、これまでの経緯や、現実的な解決策を言わないままで、辺野古移設に反対し続けているのも欺瞞ではないかと思われています。

私個人は辺野古移設はほとんど止められないと今は感じています。
であるなら、他の沖縄にある米軍基地の負担を普天間基地以外も合わせて軽減し、プラス沖縄の経済的な未来も構築する、現実的な沖縄の米軍基地負担軽減の方向性を示すのが、リベラル政党や識者の役割ではと感じています。


ところでそんなアメリカの横暴に反発して中国との関係の方にシフトした方が良いという考えにも、多くの日本の人々は乗れないと思われます。

なぜなら、中国政府は、例えば香港での一国二制度の国際的約束(日経 2019年11月29日)を破り、香港での言論の自由を破壊(BBC 2021年6月24日)しています。

また中国のウイグル自治区では、100万人以上のウイグル人の強制収容が伝えられ(BBC 2019年11月26日)、10万人単位の不妊治療強制による民族浄化の疑いも伝えられています。(西日本新聞 2021年2月4日)

そんな(訂正可能性を否定し破壊している)全体主義的国家である中国を、日本の人々の大半は選択する事は不可能です。

つまり、自由民主主義のアメリカか、全体主義的な中国か、を考えた時に、日本は政府も国民の大半もアメリカを選択せざるを得ないのです。
また地政学的に両国から等距離に離れる事も不可能です。


沖縄はそんなアメリカと中国に挟まれたいわば犠牲者だとも思われています。
左派の欺瞞や右派の冷淡さから離れて、一般の私達は沖縄に対して現実的な解決策を共に考える必要があると私は感じています。

この沖縄に象徴される問題が、日本の基盤問題②アメリカとの敗戦(日米同盟)+人権に問題ある中国との関係になります。

3-3-5.③見えなくなっている日本の構造問題について

そして最後にようやく日本の基盤問題の③見えなくなっている構造問題に到達出来ます。

日本の基盤問題の③見えなくなっている構造問題には、3-3-3.でも触れた、スリランカ人女性ウィシュマ・サンダマリさんが2021年3月6日に死亡した事件(時事 2021年8月29日)に代表される、日本の入国管理局の問題が大きくあります。
この日本の入国管理局の醜悪さの問題は、日本の国際的水準の難民受け入れや移民の人間的受け入れと合わせて、早急に解決しなければならない問題だと思われています。


日本の基盤問題の③見えなくなっている構造問題には、生活保護(あるいは貧困)に関わる問題もあると思われます。

2020年11月16日、バス停で殴られて殺された路上生活者だった大林三佐子さん(当時64歳)の事件も、生活保護(貧困)に関わる事件だったと言えます。
大林さんは広島出身で、2017年頃に家賃滞納で住居を失ってネットカフェで寝泊まりしながら、事件の年の2020年1月~2月頃までスーパーの試食販売員として働いていたのが目撃されています。
しかしコロナ禍もあり大林さんは仕事が激減し、春以降はほぼ仕事を失っていたと思われ路上生活者に。
そしてバス停で殺された2020年11月16日の時の大林さんの所持金はたった8円でした。
(「ひとり、都会のバス停で~彼女の死が問いかけるもの」NHK 2021年4月30日)

仮に生活保護が十分機能していれば、大林さんはその年まで勤労意欲もあり住居も確保出来、殺される事もなかったと思われます。

一方で、大林さんを殺害した吉田和人被告(事件当時46歳)は、20歳後半から引きこもりがちで、2015年頃に家の酒屋を手伝い始めるも2017年に父が亡くなり、母との偏愛の中でクレーマーへ。
そして吉田被告は身勝手な「彼女が邪魔だった」との理由で大林さんを殺害します。
(「〈被告死亡 自殺か〉渋谷バス停・64歳女性ホームレス殺人 “46歳ひきこもり犯人”は「窓から見える景色が僕の全世界なんです」週刊文春 2020年12月3日号)

そんな吉田被告も、今月(2022年4月8日)保釈中に投身自殺しています。(共同 2022年4月10日)

しかし、どんな経緯があろうとも落ち度のない相手を殺害する理由にはならず、最後まで罪を償う姿勢が必要だったと思われています。


生活保護が機能せず殺人の加害者を生み出した悲惨な事件もありました。

2021年12月17日に起きた大阪の北新地ビル放火殺人事件(時事)は、最終的には26人の犠牲者を出す悲惨な事件となりました。(時事 2022年03月07日)

放火殺人を行った谷本盛雄容疑者(61歳)自身も事件での一酸化炭素中毒で13日後に意識不明のまま死亡しています。
谷本容疑者は2019年の京都アニメーション放火殺人事件を模倣したとも言われており(時事 2021年12月21日)、また通院していたクリニックへの逆恨み犯行との推察もされています。

谷本容疑者は、2008年に妻と離婚、2011年に長男を刺して4年間服役、大阪市西淀川区の物件を所有も税金滞納で2016年に差押えられ家賃収入がなくなり、大阪市此花区の持ち家に戻るもトイレもない家で売る事も出来ず、生活が困窮、生活保護の申請をするも上手くいかず自ら取り下げ、その直後、放火したクリニックに通い始め、事件に至る経緯があったようです。(「預貯金1114円、借金50万円…“大阪放火犯”から相談を受けた行政書士の告白「もしあの時…」」週刊文春 2022年2月10日号)

仮に、大阪市浪速区、此花区で出されたという谷本容疑者の生活保護の申請がすんなり通っていれば、この放火殺人事件も防げたのかもしれません。

しかしいずれにしてもどんな経緯があっても、落ち度のない人達を犠牲にする理由には全くなり得ません。
個人的にも残忍極まりない犯罪だったと今でも思われています。

そして、生活保護の受け入れが厳しいのも、3-3-3.で見た、①超少子高齢化による社会保障費の抑制問題が大きな要因になっています。
なので、行政の生活保護の担当者だけを責めるのも根本問題からの逸らしになってしまうのです。

これが、日本の基盤問題の③見えなくなっている構造問題の1つ、生活保護(あるいは貧困)に関わる問題、になります。


日本の基盤問題の③見えなくなっている構造問題には、引きこもりに関わる問題もあります。

もちろん、引きこもりと事件を安易に結びつけての問題理解は批判も(ハフポスト2019年05月31日)あり、引きこもりの中でもグラデーションでの理解が必要です。

その批判を踏まえた上で触れますが、2019年5月28日、当時引きこもりだった岩崎隆一容疑者(当時51歳)が川崎市多摩区の路上で登校中の児童らを襲い19人が死傷、うち2人(39歳の外務省職員男性と11歳の女子小学生)を殺害した、川崎殺傷事件(AERA.dot 2019年6月3日)がありました。(岩崎隆一容疑者は事件直後に自殺)
この事件も理由はなんであれ全く許されない事件だったと思われます。

その川崎市の事件のわずか4日後の2019年6月1日に、当時引きこもりだった長男(当時44歳)を元農林水産事務次官の熊澤英昭被告が刺殺する事件が起きます。(週刊新潮 2021年4月23日)

この引きこもりに関わる加害者と被害者の事件は、共に日本の基盤問題の③見えなくなっている構造問題の1つ、引きこもりに関わる問題だと思われます。
どちらも悲劇的な事件になってようやく見えるようになったという事件だったと今でも思われています。
もちろん、引きこもりの問題を切り捨ててしまっているからこそ反動的に起こった事件だとも言え、事件を引きこもりと安易に結びつけて論じる事への批判は、当たっている面もあると一方では思われています。


日本の基盤問題の③見えなくなっている構造問題には、老老介護の問題もあると思われます。

介護している家族らによる虐待などで死亡した高齢者数は毎年15件以上という悲劇的な報道(産経 2021年4月29日)もありました。


日本の基盤問題の③見えなくなっている構造問題には、視覚障害者の駅ホーム転落死事故の問題もあると思われます。

視覚障害者の駅ホーム転落は毎年60件以上起こっていて、うち毎年2~4人の死者が出ているという報道もありました。(NHK 2020年10月15日)

視覚障害者が駅ホームから転落した経験がある人は37%にものぼるという報道も過去ありました。(産経 2016年10月17日)

日本の基盤問題の③見えなくなっている構造問題には、私が詳しく知らないだけでこの他にも様々あると思われます。


しかし一方で、これらの③見えなくなっている構造問題は、①超少子高齢化、②アメリカとの敗戦(日米同盟)+人権に問題ある中国との関係の問題と合わせて、そんなに簡単に解決出来ない事も私達は理解しています。
なので少しずつ改善して行く他ないのです。

また、硬直した左派が言うような、安易にマジョリティとマイノリティを分けてしまうのも間違いです。

なぜなら私達は、[生産場面]、[寛容場面]、[消費場面]、[蓄積された法秩序]での矛盾、そして〔根源的な安心〕、〔根源的な寛容〕、〔根源的な秩序〕での(安心~不安、安定~不安定の)グラデーションを背後に抱えていて、それはマジョリティとマイノリティとも地続きで連続しているからです。

また、硬直した右派の言うように、問題解決に対して冷淡になるのも間違いです。
なぜなら私達は、矛盾とグラデーションの中で、確実に(日本の)基盤問題を少しずつでも解決しなければならないと考えているからです。

私達は、自己や他者の人間背後の矛盾やグラデーションを理解する必要があります。
そしてまず前提として、矛盾やグラデーションを全く理解せず、短絡的に敵味方に分けて一方を否定破壊する(訂正可能性を破壊する)全体主義的な国家・政府や考えを、批判し退けておく必要があります。

その上で、様々違う人間背後の矛盾やグラデーションの存在を肯定しながら、それぞれで妥協点を探りながらも、不断に解決策を模索し構築する必要があると思われます。

そんな矛盾やグラデーションを抱えている様々な私達の存在を肯定しながら、当然自身の生活を第一に考えながら、時に息をついたり、離脱したり回復したりしながら、(硬直左派のように安易にマジョリティ・マイノリティと分けず、また硬直右派のように解決策を放棄する事なく)地続きでの解決策を創り出す日々の前進が、大切になると思われます。

また、その人が自身の生活を第一に優先している事を責めるのも当然ですが間違っています。
私達はそれぞれの持ち場で、出来る範囲で人生の喜びも肯定されながら、問題を解決し生きて行く他ないからです。
その人の心の中に他者への共感の波動が感じられないとすれば、こちらの受け手の問題が大きいのです。

様々な問題の解決策の為に、ここに書かれた、矛盾とグラデーションに満ちた人間の深層と、その理解の為の図式と整理が役立つのであれば、私自身も嬉しく思われます。

かなりな長文を最後まで読んで下さりありがとうございました。

<参考文献>

身体の比較社会学 Ⅰ』大澤真幸/勁草書房
共同幻想論』吉本隆明/角川文庫
母型論』吉本隆明/思潮社
ゲンロン12』「訂正可能性の哲学、あるいは新しい公共性について」東浩紀/株式会社ゲンロン

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