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W.A.モーツアルト:歌劇「魔笛」K. 620

W.A.モーツアルト:歌劇「魔笛」序曲
指揮:リッカルド・ムーティ
演奏:ウィーンフィルハーモニー管弦楽団  2006年 ザルツブルグ音楽祭

ドイツ出身のソプラノ歌手 ディアナ・ダムラウ(Diana Damrau)による
衝撃的と謂われた「夜の女王」第2幕のアリア
:「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」


先ずは簡単にアラスジを。

時は、ラムセスが支配する時代不詳のエジプト。
夜の世界の支配者「夜の女王」は、昼の世界の支配者の祭司ザラストロの
神殿に囚われた愛娘パミーナを救おうと奔走し、助け出してくれる候補者を探していました。
たまたま道に迷い、ライオンに襲われていた王子タミーノを救出し、タミーノに娘を助け出してくれればお嫁にあげる、と持ちかけます。

パミーナの肖像画に一目惚れし、女王の願いを引き受けたタミーノは鳥刺しパパゲーノを伴い、祭司ザラストロの神殿に忍び込みます。

ザラストロの神殿で出会ったパミーナとタミーノは恋に落ち、共に愛を誓いますが、実は、夜の女王こそ悪者であると気付いたタミーノは、パミーナと共に神殿に留まって女王の元には戻らないことを決意。

が、突然、神殿に現れた夜の女王より、ザラストロを刺し殺せと命じられたパミーナは苦悩しますが、ザラストロに諭されて、タミーノと共に神殿にて入会の試練を潜り抜けようと決めます。

タミーノは愛するパミーナとともに試練を見事にくぐり抜け、ついに2人は永遠に結ばれるのです。パミーナの母の夜の女王は遂に地獄に落ちる運命を辿るのであります。

以上が、悪の権化:夜の女王の世界から逃げ出したパミーノに巡り合ったタミーノが、善の司祭ザラストロの知恵と支えによって目出度く結ばれる、という麗しい愛の物語のアラスジです。

( 脚本としては非常に荒っぽく繋がりがアライ点が沢山残っています。作者はシカネーダですので許しましょう )

劇中に溢れるアリアはどれも有名で、余りに多すぎ、全部をご紹介できません。ので、魔笛といえばコレという「夜の女王のアリア」をご紹介しておきます。(冒頭に附しました、実に見事な ディアナ・ダムラウさんの演技)

【復讐の炎は地獄のように我が心に燃え】
(Der Hölle Rache kocht in meinem Herzen)
夜の女王が娘のパミーナにザラストロを殺すように迫る第2幕の場面で歌われる、『魔笛』でもっとも有名なアリアでしょう。
ザラストロへの激しい復讐の念が、超絶技巧のコロラトゥーラで表現されます。


何故に舞台はエジプトなのか?については定説はありません。
フランス革命前夜の騒然とし始めた世相を皮肉つたモーツァルトのユーモアで、夜の女王を女帝マリア・テレジアの圧政に例えた、という説もありますが、断定までには至っていません。

さて、ともかくモーツアルトその人に話を戻しましょう。

1791年、金になる仕事だったら直ぐにでも跳び付きたいほど困っていたモーツァルトに、母国語ドイツ語で独創的な歌劇を書いて欲しいという、奮いつきたくなるような企画が降ってわいたように持ちかけられます。

企画者は、モーツァルトとはザルツブルク時代の知り合いで、当時ヨーロッパ各地を巡業していた旅一座のオーナーであったシカネーダー。

二つ返事で承知したモーツァルトは、劇場近くに小さな東屋を与えられ、3月から一心不乱に作曲に努め、7月には大部分を完成します。

が、プラハでおこなわれるレオポルト2世のボヘミア王としての戴冠式のために祝典歌劇「ティト帝の慈悲」K621を作曲し上演するため、同地へ赴かなければならず、一時中断。

さらに、突然 訪ねてきた「黒服に身を包んだ不気味な使者」からの強引な依頼によって「レクイエム」の作曲を引き受けることになります。

モーツアルトはこの黒服に身を包んだ男を父レオポルドの亡霊と信じ、恐怖に慄きながら、作曲を引き受けたらしい。
そして、依頼されたレクイエムは自分自身の葬送曲と信じ込んだ、らしいのです。

シカネーダーの「頼んだ曲はどこに在る!」という矢の催促の中、
「レクイエム」を書きつつ、プラハでの「ティト帝の慈悲」上演を準備しつつ、まさに狂奔のなか、プラハ公演後、モーツァルトは直ちにウィーンに
帰り、ようやく筆をついで、9月28日には、残る序曲と第2幕を仕上げます。

その二日後が「魔笛」の初演。

このオペラこそ、モーツアルトが長く求め続けてきた「自分にしかできない仕事」でした。

次々に現れる名曲は、何れも人肌の温もりをタップリと湛え、聴く者の脳裏に刻み込まれて行きます。

プラハとウィーンそれぞれの初演後、「夜の女王のアリア」は言うに及ばず「パパゲーノの唄」や、ザラストロの独唱メロディ等々が、街に溢れたと謂われております。

現世の支配者、皇帝や教会や貴族たちの為の音楽ではなく、民衆の音楽を書くこと、それこそが、モーツアルトが新たな目的とした夢でありました。

しかし残念ながら、民衆の賛美と歌声は、彼の耳には届かなかった・・・。

この、天才の脳をフル回転して生まれた世紀の傑作と引き換えに、モーツアルトは残り少ない命のロウソクの火を使い果たす寸前でした。

体調はガタガタで、体力は殆ど残っていなかった・・・。

父の亡霊が命じた自分自身の「レクイエム」をようやく半分近く書き上げた1791年も押し詰まった12月5日、モーツアルトは帰らぬ人となります。

葬儀は行われず、亡骸は、集団墓地の穴の中に合葬されたといいます。

現在も、モーツアルトの遺骨は発見されていません。

葬送に参列した家族・友人たちもウィーンの城外への葬送を認められなかった由。その理由は、今も不明です。


彼が最後の命の灯をともして書き続けた「レクイエム K. 626」を聴きつつ、こみ上げる感慨にうなだれるスピンであります。

モーツアルトご案内最後に番外編を用意しました。
⇒ W.A.モーツアルト番外編:映画「アマデウス」 を、どうぞ。



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