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日本人が求めるべき”豊かさ”とは

「ゆたかさって何だろう」というコンテスト向けの記事を書いてみます。

アプローチ

 豊かさと言われても掴みどころがないので、言葉のイメージを探るためにまず印象から入り、続いて他の様々な関連ワードとの関係性を概観します。イメージが定まったら、自分にとっての豊かさを考えます。

”豊かさ”についての個人的印象

五穀豊穣とか言われるように、"豊か"というのは元々は物質的なことに関係する言葉だったのでしょうが、現代では幸せに言及することが多いように思います。しかし、"豊かさ"は物質的なものその他を含みますから、幸福度と豊かさを混同するわけにはいきません。

「幸福度=豊かさ」なのであれば、幸せとは何かを論じれば足りることになるので、豊かさを論じる必要がなくなります。五穀豊穣でも不幸せな人はいると考えられます。"幸福"と異なる概念として豊かさがあるからこそ、この言葉の有用性があります。ここを押さえておくことにしましょう。

贅沢感との関係

豊かさは、贅沢感と関係がある、という印象があります。このことについて見てみます。例えば、”贅沢な時間”という言い方があります。お金をたくさん使っているわけでもなく、カフェでほっと一息つくその時間などに贅沢さを感じる時に使う言い方です。

贅沢という言葉の意味を調べると、「実際の生活が必要とする以上の、分に過ぎた消費」とあります。なるほど、別にカフェでほっと一息つかなくても、生きられますね。豊かさは幸せと全く同一のものではないにしても、精神的な充実なしに語れませんから、やはり贅沢感と無関係ではなさそうです。

欲望との関係

とはいえ贅沢は、しようと思えばいくらでも求めることができます。どこまでの贅沢が豊かなのでしょうか?贅沢さの度合いとは無関係か?必ずしも、そうではないように思います。例えばミニマリストは物質的に贅沢な暮らしに苦痛を感じるわけですから、少なくとも物質的な豊かさには一定の幅があることになります。

収入のほうは、多ければ多いほどいいようにも感じますが、労働条件等はそのままで収入だけ無条件に増えるなどということは稀であり、特に一定の所得が既にある人にとって更に収入を上げることは何らかのトレードオフを伴います。地位や収入が上位の世界というのはそうではない世界に比べて狭いですから、一旦上位になった人は下位の世界に降りないと仮定すれば、身の振り方の自由度が低くなるということも有り得ます。

時間軸、心理状態との関係

幸せもそうですが、豊かさも一時的に満たされていれば良いわけではありません。将来に対して心配事があったのでは、仮にしばらく忘れていられたとしてもその状態を豊かとは呼び難いものがあります。今が澄み切った精神状態であり、それでもって将来を見通した時に「何とかなる感じがする」のであれば、これは豊かさの精神的側面として適切です。

社会との関係

自分だけ豊かであれば満足かといえば、そんなこともないですよね。家族も豊かでなければならないし、所属する会社が豊かでなければ自分も不満足でしょうし、ひいては日本が豊かでなければ会社の豊かさが将来まで安泰とは限りません。少なくとも、「何とかなる感じがする」ぐらいにはどのような関連社会も豊かである必要があります。

幸福との関係

豊かさは幸福とは異なる概念であることは既に述べましたが、ではどのように異なるのか考えておきましょう。私の説は、「豊かさは幸福の前提条件」というものです。

貧乏でも幸せは成り立つという人もいますが、やはりある程度以上の貧乏さは幸せを感じる人の数を減らすでしょう。しかし収入が多いからといって幸せとは限らない。だから、幸福な人はその人にとっての豊かさを満たしているが、単に”豊かな人”は必ずしも幸せではないわけです。

幸せは移ろいやすいものですが、五穀豊穣は前提としたい。豊かさだって、事業の命運みたいなことを考えれば、明日どうなるか本当は分からないものですが、少なくとも希望ベースの話としては、豊かさが移ろいやすいものであっては困るというのが世間の感覚ではないでしょうか。

今回のテーマで最終的に考えるのはあくまで希望としての豊かさですから、「豊かさは幸福の前提条件」であるのみならず、一度手に入れたら簡単に失われないもの、移ろいやすい要素を削ぎ落とした最低限のもの、それでいて”贅沢”の原義通り「実際の生活が必要とする以上の」ものということになります。

私にとっての”豊かさ”

以上を考慮して、私にとっての”豊かさ”を次のように定義します。

「無理をするわけでもなく今の自分を肯定する気持ちを十分かつ持続的に保てること、またそのために必要な物質的裕福さ・収入を含めた生活基盤・人間関係・自由時間等があること。ただし後者(以下、裕福さ)に関しては、無くても自己肯定感を持てる分は必要とは見なさない。また家族や社会等の将来に関して過度な心配事がない状態。」

裕福さは、求めようと思えばいくらでも欲望を働かせて上を目指すことができます。しかしそのこと自体が自分を追い込み、家族など大事な人との関係を悪化させるのであれば幸福に繋がりません。また、ミニマリストの例から分かるように、ものごとをシンプルにすることは管理の煩雑さを減らしたり、将来的な見通しを良くすることでもあります。

重要なのは裕福さが支える「移ろいにくい何か」であって、移ろいやすいものが失われてもそれに引きづられて容易に失われないもの、大抵のことが起こっても、これだけあればすぐ再出発できると思わせるもの。私にはそれが、自己肯定感だと感じられるのです。

素直に今の自分に満足できており、仮に不満な点があったとしても、それを含めて普通の人間であることを、普通の他人を理解し理解されるために最善のものと考える。多かれ少なかれ、誰かの役に立てることを確信している。自分の意見や気持ちを我慢せずに言うことができる。生活をシンプルに保ち、自分にとって大切な人々や社会について考える余裕を持っている。正当化のためではなく、感情として自己肯定できており、そのことを分かりやすく説明できる。これらの条件が多く満たされてくことが、自己肯定感に関する”豊かさ”です。

なぜ、自己肯定感が重要なのか。それは、豊かな自己肯定感を獲得することは簡単なことではなく、しかも、それなしに幸せを感じることは無理だと思うからです。いつも隣の芝生を青く感じている人が、自宅の芝の青さに気づくことはできません。自己肯定感がなければ自分のことに精一杯になり、本当に他人のことを思って行動することもできなくなります。自分だけで完結する世界で孤独に生きていて、心から満足ならそれもいいでしょう。しかし私は、多くの人は持続的にその状態で満足することはできないし、結果的に経済が効率的に回らなくて豊かさの条件を毀損すると思っています。

重要であるのに獲得が難しい、幸せの絶対条件である自己肯定感。そうであるなら、豊かさの定義は十人十色でしょうけれども、他のことは気にしないで自己肯定感を豊かにすることに集中すべきではないか。これが、私が”豊かさ”の定義として自己肯定感を採用する理由です。

豊かな社会に向けて

日本人は自己肯定感が少ないと言われます。また、時代とともに学問や技術は難しくなり、貧富の差も激しくなり、やれスキルだ市場価値だと言われ、SNSで個人が台頭し、自分を他人と比較することが簡単にできるようになりました。このことが尚更、自己肯定感を貶める罠としてそこら中で待ち構えています。

そのような時代ですから、我々は自己肯定感を育んでいかなければなりません。自分は今の自分でいいと思い込むことではなく、「他人も自分も普通の人間としか言えない」という事実を知る、ということです。どのような天才も一人では何もできないし、科学技術が兵器に結びつくこともあるように、結果として人に良い影響を与えるとは限りません。確実に言えるのは、「我々は単に、影響し合っている」ということだけです。

日本はアメリカや中国のようにはなれないし、そうなる必要もないと思います。でも部分的に見習うべきところは多くあって、逆もそうであるはずです。そんな時に日本が自分のいいところや問題意識を見失っていたら、説明できるものも説明できず、協調もできず、存在意義を最初から消してしまうことになります。自己肯定感の低下とは、そういうものです。

ビジネスの世界では、問題意識を持っている人は最高の顧客になります。簡単に解決できない問題だから顧客は悩んでいるのであって、それは事業者にとってみればビジネスチャンスであるからです(顧客はビジネスメイクのパートナーとなります)。同様に、自己肯定感を低下させるモヤモヤが長年あなたを悩ませているなら、そのモヤモヤの輪郭を知っていることはいつか必ず誰かの役に立ちます。

自己肯定感を持つことの大切さ、少しは伝わりましたでしょうか。何をするにしても、日本人が自己肯定感を取り戻さないことには始まらないと思います。全員が取り戻したら日本は幸せだとまでは言いませんが、その前提である豊かな国にはなっているでしょう。そうなることを願いつつ、私も家族の豊かさを追求していきます。

ではでは。

ちょび丸(1歳)の応援をよろしくお願い致します~😉