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自由意志が幻想だったら何がまずい?

NHKの科学番組「ヒューマニエンス」で、「”自由な意志”それは幻想なのか?」の回を見た。今日はこのテーマについて少し考えてみる。

自由意志が幻想だという話はずいぶん昔からあるが、そうだったら超ガッカリだ!という文脈で言われることが多い気がしていて、ヒューマニエンスの出演者も同様の反応だった。しかし自由意志という言葉が、今からの行動を意識内で好きに決められること、また、無意識に頼らず決めなければならないことを指すのであれば、それは明らかに誰も望んでいない事態だろう。

我々は腹が減ってきたら何か食べようと思う。この欲求に逆らうのは理性の力だが、もし欲求がないとしたら、理性は自己管理能力によって食事の時間をスケジューリングしないことには何も食べられなくなってしまう。欲求を持っていることは自分で意識できるが、欲求を呼び起こしているのは無意識であり、これは要するに意識によらず裏で働くマシーンである。全てを自由意志で決めたい!というのは、食欲以外にも膨大な働きをしている無意識が不要だと言っているのに等しい。

我々は映画を楽しみたいが、その撮影や配給・上映の裏側ではたくさんの人やシステムが動いている。しかし供給側が見せなければならないもの、消費側が見なければならないものは基本的に映画の内容そのものであって、裏方の働きではない。映画の内容と裏方の働きを同時に見てしまうとぶち壊しになってしまうから、(あとで裏方に興味が湧くとしても)まずは映画に集中する。そのために裏方は裏方に徹しているのである。

意識と無意識の関係は映画と裏方の関係と似たようなものだろう。意識は人生という映画を上映しており、無意識や(そのマシーンに可視光線や音声などの信号を供給する)外の世界は裏方に相当する。

映画は受動的に見るものであり、いくら主人公に感情移入しているとしても、そのピンチを切り抜ける行動を自分の意志で決め、実行することはできない。一方で意識はそれが出来るように見える。日常の生活において問題が起これば、我々はその解決方法を考えて実行しているのだから。
しかしながら、ヒューマニエンスでも取り上げられていたことであるが、人間は「何かしよう」と意識した瞬間よりも前に無意識の脳活動が始まっている。つまりその行動を起こそうとしたのは意識ではなく無意識である、ということになる。

自由意志が幻想であるとは、このようなことを指しているのだと思われる。意識には自由意志という主体性が宿っているのではなく、受動的に見る映画に近いものだと。無意識が行動を起こそうとし、(例えばそれが望ましくない行動である場合に)意識はそれを自らの主体性によって抑え込むこともできるように見えるが、抑え込むのも実は無意識のほうであり、意識に上るのは「起こそうとした行動を抑え込んだ」という認識のみ、ということである。

しかしだ。本記事で私が言いたいことは、「だとしたら何なのか?」ということである。「自由意思が幻想だったら超ガッカリ」の理由は、「幻想は何も無いのと同じ」という認識から来るのだろうが、その態度は「映画は単に映写機が放つ光であり、実際に映画制作に関わっている人は全て裏側に存在するのだから、上映される映像は幻想であって価値がない」と言っているようなものである。

漫画やアニメは2次元という言い方をよくする。映画だって当然2次元だ。しかし我々は映画の世界を3次元の世界として認識する。陰影や遠近法が奥行きを感じさせるなどの効果でこういうことが起こるのだが、これも無価値な幻想か?
現実の世界は3次元だが、人間の目はカメラのようなものであるから、結局は外からの光を2次元の像として捉える。目は2つあるので、それぞれに映る像はわずかにズレ(視差)を生じる。このズレや、小さいものは遠くに、大きいものは近くに感じるなどの人間の認識作法によって、最終的に3次元のイメージが出来上がる。

この場合、3次元→2次元→3次元となっているわけだが、最初の3次元と最後の3次元が同じものでないことはお分かりだろう。リンゴに当たった光のうち、目に見える波長の光だけが目に入って2次元の像となり、脳が「小さいものは遠くに、大きいものは近くにあるものと思え~」などの自己暗示をかけて、散々加工されて出てきたものが最後の3次元イメージである。

人間は誰でも似たような体の作りになっていて、2次元の像の加工のされ方が共通であるから最後の3次元についても共通の見解が得られる。だからリンゴは誰が見てもリンゴだし、その特徴について皆同じようなことを語るが、ここで語られるのはあくまで最後の3次元についてであって、最初の3次元についてではない。「リンゴそのもの」を捉えることは、我々人間には無理である。

ここで少し、目の錯覚を引き起こす「錯視図形」について触れよう。例えば下の図形はカニッツァの三角形と言われるもので、Wikipediaでは次のように説明されている。

カニッツァの三角形(カニッツァのさんかくけい、Kanizsa triangle)は錯視図形の一つで、イタリアの心理学者ガエタノ・カニッツァにより1955年に発表された[1]。周辺の図形とともに、白い正三角形が知覚されるが、実際には中心の三角形は物理的に存在しない。この効果は、主観的輪郭(subjective contour)と呼ばれる・・・(略)

この図を見ると、●が3つと△が1つあり、その上に重なるようにして▽があるように感じられる。これは私の解釈では、こういう図を現実世界で見るとしたら「●が3つと△が1つあり、その上に重なるようにして▽がある」ケースが多いからだと思っている。
本当はこの図には▽はなく、それどころか△や●さえない。あるのは、パックマンのように一部が欠けた●が3つと、3つの V の字だけである。しかしそのようなものが△や▽を構成するように絶妙な位置と角度で置かれることは自然にはありえないから、そのようには認識されにくい。

もっと身近な遠近法の例でも、このことは確認できる。例えば下図で、(あ)の人は(い)の人より近くにいるように感じられるが、(あ)の隣に背の低い大人が透明な足台の上に立っているような場合でも同じ図になり、同様に(あ)が手前にいるように見えるだろう(実際は等距離なのだが)。

この場合もやはり、脳は可能性が高い見方を選択している。大人は背が高いのが普通だし、足台の上に乗っていることもほぼない。(い)が子供なら遠くにいるのではないことはすぐ分かる。つまり、厳密に言えば上の図だけでは(あ)と(い)が等距離にいるのか離れているのか判断できないのだが、脳は現実的にありそうなほうで「まず決め打つ」性向(認識作法)を持つ。これによって素早い判断を可能にしていると考えられる。

我々が見ている世界は多かれ少なかれ錯視で成り立っている。わずかな2次元情報から周囲の状況を瞬時に把握する必要がある以上、無意識は意識に対して「あなたが見ているのはきっとこういうものでしょう、えいやっ」で認識を与えなければならない。

要するに、我々の認識は無意識によって作り上げられたイメージ、言うなれば幻想である。しかしこの幻想は十分役に立っているではないか?
どうして、無意識は自分自身だと認めたくないのか?無意識だって、様々な情報を比較しながら、あーでもないこーでもないと考えて意識にイメージを伝えてきているのだ。

我々の人生には、映画とは決定的に異なる点がある。無意識が作り出した幻想を見ているだけなのだとしても、無意識を含めた「私」が何か行動をしたとき、我々は自らの行動の理由を述べることができる。ヒューマニエンスでは、その理由は後付けだと言う。しかしそれも、だから何だ?予め理性的に計画された行動しかできない人間のほうが、よっぽど機械的ではないか。

映画の主人公が何らかの行動をした理由は、映画を見終わっても我々には分からない。それがドキュメンタリーであっても、想像することしかできないだろう。一方で現実における我々の行動は、予め自分で決めた計画に基づいて為されるものではないにしても、自分に関する豊富な経験と知識でもって、何故そうしたのかを他人より正確に分析することが可能である。

我々はちゃんと考えて生きているが、その全てを意識していられるわけではない。それでも、考えている無意識だって自分だし、何故そのように考えているかも説明できる。そもそも地球上に存在する全ての意味は、幻想という共通基盤の上に人間が構築したものだ。幻想は素晴らしい発明だと思うことはあっても、無価値なものだと絶望することは、私には考えられない。

ではでは。

ちょび丸(1歳)の応援をよろしくお願い致します~😉