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できないからこそ、努力するからこその天職
私は、看護師で看護教員です。
学生に看護を教え、病める人と健やかな人を助けています。
白状すると、苦手な範疇。
人を教えたり助けたりするのは、もともと全く不得意。
よくも悪くも表裏のない気の強い性格ゆえ、優しい看護師や教員のイメージは皆無なのです。もう少しいえば、厳しめ。
でも、正確だからしかたない。
「私は、そういう人だから」とうそぶいていました。
だけど、心の中はさざ波だらけ。
こんな私が看護師や教員でよいのか?
看護の仕事はとてもやりがいがある。
教育もです。
学生には、良いところは良いと伝えるし。
間違っていることは間違っていると伝える。
学生とともに、患者さんの看護を通して喜んだり悲しんだりしたい。
その結果、
先生に会って良かった。人生が変わった!
そう言ってくれる学生がいる一方で。
先生は怖いから指導を受けたくない・・・。
そう声をあげる学生もいる。
・・・なんだか、極端。
われながら、辟易する時があります。
わざと怖くしているわけでは全くないから。
.............................................
この仕事はこれまでずっと続けてきましたが、確かに、続けられることは天職の要件のひとつだろうと思う。
でも、ただ、続けているだけではダメなのです。
職業である限り、その「質」は大切だと思うから。
私の場合、学生が看護師として成長することが第一。
そのためには、「相手(私の場合学生)のことを一番に考え、とことん相手を尊重できているかどうか」が最も大切と気づきます。
時に、看護的な正しさを振りかざして、学生が「辛さ」を感じてはいなかっただろうか?
たとえ、こちらにそんなつもりはなくても、です。
そんな反省が湧き上がったうえで、天職について考えると・・・
時に心躍るような喜びを感じ、時に胸が潰れるような悔恨を感じ、それでも天職たらしめんと、自らが努力するのか否かで決まるのだろうと思います
。
情熱が続くのかどうか。
天職は、自分で決めるものではなく、文字通り天から授かった職業ですから、投げ出すことはできません。
そこには、喜びと悩みを支える努力が必要だと、自分自身をいましめます。
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