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#抽象文学宣言 prototype

壱.動機

 高度に文明化した情報社会において、所属するすべての個人は常に範疇と名辞の監視下に置かれており、人種・国家・年齢・性別・居住地・職業・所得といった属性の組み合わせに還元されることで、彼らは例外なくいずれかの文脈に振り分けられ、回收される。

 この連帯主義による文脈への強制回收は、個人の孤立を許さない。社会・共同体からの逸脱は、情報の流動網においてのみ構成可能な人格の死滅と、資本主義的な淘汰圧の増強から促される肉体の生存の停止に直結する。『誰も独りでは生きられない』という人々に協同と慈愛を促すクリシェは、人間の交易の単位として構成されるもの以外の人格の存在を否認している。そこでは連帯・同調こそが善であり、孤絶・不和を悪として排除するよう仕向けている。

 少数者とは不和の権化であり、彼らはいつの時も多数者の連帯を際立たせ、より鞏固にするために存在した。連帯には強度の別があり、少数者=相対的弱者は多数者=相対的強者によって見つけられると――もし集団からの排除を免れれば――多数者の管理下に置かれ、多数者の敷いた法制に従い、多数者より低い地位を得た。

 少数者の存在とその権利の主張がなされる現代における真の問題とは、少数者の自己決定権の行使に、依然として多数者の承認を必要とすることである。彼ら少数者は、不合理や欠陥を暴くという点で既存の制度およびそれに付随する道徳観に対しての有用な批判材料として、多数者のリテラシ向上のため――あるいは単に機嫌を取るため――に、無駄な時間を払わされつづけている。

 制度およびそれに付随する道徳観は、社会正義・公正のためという体裁のもと、多数者の行動や振る舞いを正当化し円滑にするために成立し維持される。違反者が裁かれるのは、正義や善の追求のためではなく、多数者の既得権益の維持のためである。制度に対して従順な者、制度によって何ら害を被らない者は、懲罰を免れるという益に浴することができる。

 そうした多数者による少数者への行動や振る舞いの強制――抑圧は、いつも被抑圧者の側にあり、被抑圧者にしかその抑圧を視ることはできない。抑圧の解消には、抑圧者を抹消して抑圧者の存在しない集団を築くしかないが、しかし被抑圧者が抑圧者を滅ぼしたとき、そこに生起するのはただ被抑圧者と抑圧者の逆転である。一つの抑圧が解消されたとして、また新たな抑圧が一つ産まれるようでは、真に抑圧を解消したことにはならない。

 抑圧の真なる解消のための唯一の方策、それは抑圧の構造の解体である。抑圧が、多数者と少数者を区分する文脈の断裂によって起こるのだとすれば、個人の各々が被る範疇と名辞を拒絶し、あらゆる文脈を退けまた自ら退くとき、少数者の最小単位としての一者の群として彼らは存立するようになり、まさにただ自己の決定と承認によって自己所有を実現することができるようになる。

 範疇や名辞は、単にレクシコンの作成という言語的な操作によって生み出され運用されることはありえない。いつの時も、それらの生成と運用の場である文脈の成立と維持を頼みとして、言語の記憶領野――レクシコンへの定着を見るのである。このとき、文学とは、新たな文脈・範疇・名辞の成立のための実験の場であり、本論において我々は、範疇不可能性ならびに命名不可能性の実践の場としてここを占拠する。

 範疇や名辞を失った無貌の対象たちを繫ぎ留めて文学を成立させるのは、抽象の力である。本論ならびに本論によって触発される文学行為――抽象文学は、すべての個体のすべての抑圧からの解放を企図する。理想郷がもし『すべての個体がありたい自分を実現できる場』であるとするなら、抽象文学がそうなることを我々は願ってやまない。

   

貮.方法

 我々の適用において、文学はもはや言語表現という形態や芸術作品という単位といった、何が文学で何がそうでないかを分別する形式の軛から完全に解放される。しかしあえて言えば、文学とは、解放のために必要となる領域の確保、およびその維持と展開においてひきつけられる対象についての、強度をもった記述のことである。

 『強度』とは、何らかの抑圧によってその成立や維持を妨げられてしまうことのないような、記述の内部に生起する反発力、およびその度合いのことである。十分な強度をもつ記述においては、そこで使用する語彙や文法規則は、たとえそれが既存言語からの借用であったとしても、当該の既存言語による抑圧――一意的な読解を読解者によって固定されることはない。例えば、記号=文字から指示対象が削がれたとき、その記号=文字は、自由な指示対象の代入を許容する一種の変数として扱うことができるようになる。そこでは、記述者と読解者の間に共通の読解規約が存在しない状況が発生しうる。これは、誰からも望まれずに、ただそこに存在すること、その存在の持続こそが、強度であるということの好例である。

 そして『記述』とは、文学が文学となる展開領域に文学が現れる、その現れの方法と現れそのもののことであり、その様式は言語表現に限定されない。文字の一切を棄てたとき、文学は紙面からの解放を見ることになる。これまでの文学は、記述者と読解者の双方によって、その展開領域を紙面上の言語表現に限定されるという抑圧を受けてきた。この軛から文学を解放するとき、記述者は、自由に文法範疇を設定し、語彙を持ち込むようになり、また読解者も同じくそうすることになる。

 そしてやがて文学は記述者からの抑圧を退け、統治なき統治=自生を手に入れる。それは文学自身が自己を規定する統治者として振る舞うということであり、また同時に記述者自身が文学そのものとなるような混濁=渾沌への回帰をも実現する。この地平において文学は文学自身の意志により、互いに自由に接続また離別するようになる自我を得て、我々は、たとえ記述者であっても、単なる読解者として彼らの自律運動に干渉することを余儀なくされ、人間と人間の交易と同じように、相手=文学を完全に理解することは不可能となる。文学は我々の読解を拒むかもしれないし、読解者を選り好みするかもしれない。

 文学は自律し、自我をもち、欲動する。その力の源は抽象にある。抽象とは、対象から本質を引き抜き、また対象から纏絡を削ぐ力のことである。抽象は、対象について、範疇化や命名なしに記述する術を我々に与える。言語という他者によって穢された文学の自己肉体の浄化および再所有、それこそが抽象の目的である。

 すべての文学がそうであったように、抽象文学もまた、ただ実践によってのみ成立する。我々の運動――抽象文学の成立は、抽象文学以前には成しえなかった、新たな状態へ対象を導くが、これは革命ではない。これは既存の抑圧の権勢下から逃れ、行き着くべき安住の地=理想郷を造るための永遠の逃避行であり、統治なき統治による文脈化の非武装地帯として、まさに今ここで抽象文学の領域は拓かれることになる。

 まとめると、抽象文学は次の三つの性質をもつ。

   無性――いずれの範疇や名辞も受けない。

   無限――すべての表現手法が認容される。

   無羈――一意の解釈を得ることはない。

  

参.應用

 自然界における物理とは、力についての記述である。 力がなければ拡散も凝聚もなく、したがって個体は存在しない。翻って、個体の存在、それは力の存在の示唆である。

 抽象文学もまた根源的な力――抽象によって記述を生む。強度ある記述の存在は抽象の示唆であり、対象を引き寄せる抽象の力がそこにあるからこそ、語るべき対象はそこに存在するようになる。

 文学に制限はない。そこに記述があるならそれは文学である。記述とはいつも何らかの対象についての言及であり、その表現の形式は問わない。したがって、自然界=物理現実は、一つの文学領域として扱うことができる。自然現象・物理現象として我々が知覚・観察しているものは、自然という記述者が我々という読解者に刻一刻と与える記述、その読解である。博物学者は個体どうしの差異をつぶさに観察して種別に名詞を与え、物理学者は物体の運動の規則性から物理法則という文法を編む。

 肝腎なのは、何であろうと対象は、ただ企図するだけで文学として扱うことが可能となるということである。そしてもし文学として扱うなら、その対象には文学的な操作をおこなうことができる。そこでは、虛構と事実の境界は消失し、現実は知覚情報の総和ではなくなり、実行する記述ただそれだけが現働し、我々は避けられ得ぬもの――その只中に放り出されることになる。

 我々はついに五感の優位性を失い、真の未開の領域へ逢着することになるが、そこは果たして、非現実を現実と洗脳する執狂的な精神の領域の延長に過ぎないのだろうか。しかし思い返してみれば、領域の空間性なるものは、相対に感覚されるものだった。もし宇宙が一室の小部屋だったとしても、誰も中に棲んでいないとすれば、それは無限の広さをもっていることと、区別することはできないのだ。したがって、領域を確保する記述者自身は、その領域の虛実について考える必要はなく、ただ強度さえ保たれてあればよいということになる。

 潜ってその深さを知る。我々が瞑想をするのは孤独を得るためであり、もし他者の干渉がなければ、我々は何者にもなれるし、どこまでも深く潜ってゆける。『かくあれ』なる要請からの隠遁により、我々は社会的生物をやめ、人間をやめ、生物をやめ、個体すらやめる。そこで自己=自我は抹消され、ただ文学があるようになる。今や、すべては文学となる。

 補足して言えば、『抽象文学』という名辞は、今後展開されることになる、関連する文学運動、文学そのものについて言うものではなく、ただ端緒を言祝ぐ啖呵に過ぎない。

   

肆.濫用

 神は「光あれ|Fiat lux」と言い、そのために光があるようになった。創造に必要なのは、記述ただそれだけである。我々は読解するだけでなく、我々自らの手で自然=世界を創造することができる。そのとき、文学領域の統治者=記述者は神として振る舞うことになる。もし神が「闇あれ| Flat tenebra」と言い、そのために闇があるようになり、あまつさえ神が闇を善としたら、塵から生まれた子は闇のなかに対象を見るだろうか――その答えは、あなたが神となることで知ることができる。

 人間の超脱、世界からの超出。それこそが抽象文学の本義である。

 人間は自由に構造・設計することができる。

 人間は両性具有として生きることもできるし、また無性として生きることもできる。

 世界は自由に構造・設計することができる。

 世界は定常状態にあってもよいし、自然法則が時間変化していてもよい。

 記述者もまた、人間である必要はない。記述者は文学そのものであってもよいし、そもそも存在しなくてもよい。かつて記述者を殺害の対象とした中性の文学では、現在の状態――不在こそが記述者最後の転身とされていた。それはまさに無神論的な、創造や維持の目的や経緯についての答え=真理の永久に失われた世界=自然のことだった。無神論的唯物論は記述についての一つの形式だが、しかし唯一の形式ではない。

 神は再臨し、文学は躍動する。


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