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予感を胸に灯した夜

昨晩のnews23では貧困問題を取り上げていた。夏休みは給食がなく、一日一食になってしまっている子どもたちの話。朝昼を抜き、夜にスクランブルエッグとウインナーとごはんを食べる。

離婚した父親からの養育費は未払い、かつての我が家と同じ。

母親も日中おにぎりひとつで働いているという。栄養が足りていないことに気づいている。それでも子どもたちは母親の優しいところが好きだという。お母さんはストレスでお腹を壊してしまうときがあるのだと心配し、取材ディレクターが「いまは無理をしてるように見える?」と聞けば「見えます」とささやいた。

子どもたちが空腹を紛らわすためにやるのは、父親に買ってもらったというゲーム。楽しいから空腹が気にならなくなるという。半分は本当で、半分は嘘というか思い込みなのかもしれない。離婚前に買ってもらったものなら随分やりこんで飽きてしまってる可能性もある。それでもゲームをやりながら、時に水を飲みながら、彼らは空腹と時間をやり過ごす。

取材したディレクターは、支援サービスが必要だとしながら、そういうサービスを使うことで自分が貧困だと思い知る、人に知られることを恥ずかしいと思ってしまう状況がある。貧困層だけでなく全員が使えるサービスが必要だ、というようなことを言っていた(※大意)。"よく知っている"人のコメントだと思った。特に思春期の自分にも少なからずそんな気持ちがあったことを思い出した。

特集を見て、大きくふたつ思ったことがあった。

ひとつは、そういう子たちのための「ゲーム」は存在できるのか、その可能性を考えてみてはどうかということ。デジタルに限らず、心の拠り所になり、もしかしたら何か学びがあるような「遊び」に寄与できないか、と初めて考えた。

もうひとつは、いまでも一日二食くらいは工夫次第で食べられるのかもしれず、特に親のほうがそこに割く時間と思考の余裕がないのかもしれないということ。我が家も後になり知り得たことがあった。でも親は一生懸命働いているし、子どもはそれを「裏切れない」状況がある(全員がそう感じる訳でもないけれど)。そのやるせなさや悔しさが親に向かうべきではないのだと、今になればわかるけれど、当時はまるきりそうだとも思えなかったなと居た堪れなくなったりした。

全員が救われる訳でもないし、全員が何かできる訳でもない。それでも、小さなことからでもひとつひとつやってみる、あるいはやってみたいと思う、その心と身体の動きを失わずに生きていけたら。それがもしかしたら世界の争い事をなくすことにも繋がるかもしれない。そんな予感がすこしだけ胸に灯った夜だった。

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