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他人の言動に自分の感情を支配されるのって疲れない?

できれば好かれたいよね。人間だもの。というか、自ら嫌われにいく人は滅多にいないと思うけど。

偽って好かれるのと、ありのままで関心を持たれないのって、どっちが幸せか一概に言えない気がする。体裁を守るか、こころを守るか。

ありのままで好かれるのがベストだとは思うけど、じゃがいもだって土ついたまま食べないよね? 洗って、皮剥いて、茹でたり焼いたり炒めたりして、美味しくいただきたいじゃない。私はじゃがバターが好きです(世界一いらん報告)

コミュニケーションの方法は千差万別

自分にとって嬉しいことが、他人にとってもすべからくそうだとは限らない。言葉で好意を伝える人、言えないけど行動で示す人、行動ですら示さないけど深く相手を想う人。

昨日は嬉しく感じたけど今日はしんどいな、と思うこともある。ありったけの気遣いが沁みる日もあれば、そっとしておいてほしい日もあるように。

「悩んでいる人には自分なりの優しい言葉をかけなくちゃ」と気負って、無理やりにでも言葉をひねり出していたときもあった。でも、ただ話を聞いてほしい場面もあるよなぁと気づかされた瞬間があって、長文のお気持ちを述べるのは相手と場面を選ぶようになった。

それって本当に自分へ向けられてる言葉?

昔「空リプ」って文化が流行ったんだけど、いまもあるんだろうか。明らかに自分のこと言ってるな…と思うときはたしかにヘコむけど、本当にそうなのか?って冷静になるのも大切なんじゃないかな。自意識過剰なときもあると思う(おおいなる自戒を込めて)。

相手に「どうにかなってほしい」のは危険かも

「自分の望む反応が返ってこない」イコール「自分の望む関係になれていない」というのは、ちょっと傲慢かもね、って話。

相手が自分の思うように動いてくれないからって不満を感じるのは、相手のことを支配したがっていない?

全ての事象にリアクションしなければいけないというルールはないはずだし、すべてを自分の話に持っていく人には、なんて返せばいいか30年以上生きていても未だにわからない。

親のことを愛せるのは適切な距離を保てるようになったからで、それがものすごく近い人も遠い人もいて、みんながみんな同じ距離感で生きてないのは心に留めておきたい。それがもしかしたら愛される前提なのは皮肉な話だけど。

そして逆に、ときには自ら距離を縮めるのも大切かもね、ということも。

「好かれたいから好きでいる」なんて、苦しいだけよ。

こんな正直な話を長文で書けちゃうのが、noteでよかったこと、かもね。

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