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世界は分断されているのか

敵と味方に分けると話はシンプルだ。だから、ジャーナリストもドキュメンタリー作家も、そういうストーリーを組み立てようとする。分かりやすく伝えることが仕事だし、どれだけインパクトのある伝え方ができるかで評価されるからだ。

だけど、現実というのはもっと複雑なもの。情報が単純化されると見えなくなることも多い。分かりやすく説得力ある説明には注意したほうがいい。

例えば、平均値は重要な指標だけれど、それだけで断定できることはあまりない。分布はどうなっているのか、外れ値はないのか。データを本当に正しく読み解けているのか疑わず、結論だけ聞いて納得してはいないだろうか。

「ファクトフルネス」を読んでいると、身の回りに起きていること、別の話題と紐づいて、いろいろ考えてしまう。統計とは少しずれるけれど「分断」について最近気になった話がある。

Weekly Ochiaiで議論されていた、教育格差と自己責任論。そこで知ったのは、山辺さんという長崎の高校生が書いた、社会の分断についてのnoteが「バズって」いるという話。80万人以上の人に読まれ、彼女のもとには毎日50人くらいの人からメッセージが届いたという。

山辺さんの問題提起は、格差そのものより、格差の存在を認識していない、しようともしない分断の存在だ。自分の「普通」を基準に論じるから、教育格差についても自己責任論みたいな話になってしまうのではないか、という視点だ。

一方、落合陽一さんは、山辺さんの話は非常にリアリティがあるけれども、その当たり前の現実に対して何故それほど大きな反響があるのか、「共有できる普通」を持つ者同士が、どうして横でつながっていかないのかが、理解できないという。

山辺さんと同じような地方出身で、首都圏で働いて30年になる私としては、彼女の気持ちも落合さんの違和感も、なんとなくわかる気はする。だけど、人生の過程において、都会の「当たり前」に合わせようとした時期の自分を、いまさら否定しても肯定しても仕方がないとも思う。問題は、まさにいま自分が自分の人生の中で対峙している課題に、どのように向かい合っていくかだから。

「普通」の基準が人によって違うのは当然のことだ。育ってきた環境の中で価値観が育まれるのだから。それでも、人それぞれ異なる体験のなかで何を考えるかは千差万別だろうし、たとえ全く同じ体験をしても、同じ考えに至るわけでもないだろう。

ヒトは学び考え課題を見つけ、その解決に貢献する存在になりたいと願う。彼女が言うように、自分の信じるあるべき方向に社会を変えていこうとしても、突破できそうもないと思える壁や天井はそこら中にある。そこでただ諦めるのか、あるいは壁や天井の存在への怒りにフォーカスするのか、突破できない自分や同じ境遇の人々の存在を正当化することで納得するのか、もしくは数えきれない矛盾をはらむ世界で挑戦を続けるのか。

落合さんの言う「ダイバーシティー&インクルーシブ」実現への道程は遠い。でもあきらめるわけにはいかない、と思う。



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