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わたしが演劇と裕本恭について思うこと。-マガジン開設に寄せて【エッセイ】

「こうであるべき演劇」の不毛

演劇とはなんだろう。そんな言い方をすると、なんだか大それた、学術的な、小難しい話をしているみたいになってしまうかもしれない。だから質問の仕方を変えて例えば、あなたが演劇に期待すること、求めることはなんですかと考えてみたい。

概して「演劇」媒体に対して持つイメージは各々あって、殊にそれは、育ってきた環境や触れてきた作品、たとえばあなたが今までに好きになった人や恋人、あなたが今、どんな日常を生きているかに関わってくる。

結局のところ、こうした期待やイメージは主観的なものなのだ。だから演劇(やその慣習に準ずる多くのパフォーマンス作品)は、現代においてこうあるべきだ、と決め付けるのはナンセンスなことである。使い古されたエンターテイメントやメロドラマが特定の人の思想に深く影響を与えるかも知れないし、社会的にクリティカルな話題を扱った、また方法論的に特殊な作品が、観客にも共演者にも意図・真意理解されないまま、いわゆる創り手の「独りよがり」のようなもの陥ってしまうことだってあり得る。

だから、あなたがもし何か作品づくりに悩んでいるのであれば、まず、善い・悪いで判断するような価値観や、そこに支配されている人たちから離れるべきだ。落とし穴はいつだって、特定の物事に対する盲信の裏に潜んでいるものである。


それでも演劇に求めたいこと

だからここで、こんな演劇はダメだ、などというつもりはないことをご理解いただきたい。とはいえ、個人的には、結局主観なのだから芸術は何をやってもいいというわけでもないと思っている。そしてまた、一個人の主観によって「わからないこと」を遮断することでもない。

自由な空間とは、自分にとっても、他者にとっても自由で、柔軟な空間であらねばならないのだ。もし作品が単なる倫理や政治イデオロギーの伝達手段として展開するならば、それはその思想が保守であろうとリベラルであろうと、プロパガンダとしての役割にしかならない。自らの正当性を主張することは同時に、排除の原理を肯定することにもなりかねないだろう。

自由であることとは、こうした既成の価値観からの脱却にあって、芸術作品に求められることはいつでもこうした破壊と発見なのだ。わたしたちの生きる世界が、常に、破壊や創造を経て新しく変化することと同様、芸術作品もまた、既成の価値観から距離をおいたところで、わたしたちの生活や社会を見つめなければならない。

わたしたちが、演劇に求めることができるのは何かと考えてみる。他の芸術メディアではない、演劇にのみ求めることができることは、作品がその時、その場所でしか存在しないということではないか。それは、森羅万象が常に変化しているということを自覚させることでもある。

ただ人間が舞台の上に立つ、何らかの意味付けをするわけでもなく、ただ事実として、舞台の上の人間は絶え間なく変化を繰り返して、わたしたちが見た一秒前の身体は、二度と繰り返されることはない。

すなわち演劇は、例えばある人物の存在・ある歴史やある社会において善しとされる倫理観を、既存のカテゴリーとして同一視(アイデンティティを付与)することとは正反対に位置するのである。ある存在の常なる変化を自覚するということは、自分自身もまた、同一の存在ではなく、変化を繰り返すものだという気づきをもたらし、また内省に導くきっかけになり得るだろう。

またその内省によって、自らとは異なる存在を「他者」として一定の価値観で排除、遮断することの愚かさに気付くことができる。だからこそ、演劇が「社会」や「秩序」について何か投げかけるとき、その作品は、ある独特の説得力を持つことになのではないだろうか。作品が提示するのは、イデオロギーの押し付けではなく、あくまで一つの提案として。その提案が観客によって受容されて、各々の持つ主観を揺るがしたり、また揺るがさなかったりして、ある新しい問題提起がうまれたときに、作品は演劇としての意味を持つものなのかも知れない。あくまで完結しない作品として。


裕本作品の観劇のすヽめ

裕本恭という男は、とても自意識が高い。自分とは何か、どうあるべきかを、主に世代論を以ってぐるぐるやっている、そんな男である。

そんな彼の思考は、作品の随所に散りばめられている。彼がいう「社会を意訳する」という言葉には、そんな彼独自の、現代社会における視座を示すというニュアンスを強く感じるが、そこには自分の正しさを主張し、あたかも現実を投影させるがごとく振舞うような高飛車な印象は受けない。むしろ彼が等身大で向き合う彼の主観をありありと感じ、それが彼自身の紡ぎ出す作品の魅力なのだろう。だから彼の作品は、社会風刺とかではなく、むしろ今わたしたちが生きる社会や自分自身の生活、一元化することのできない世代論に、考えを巡らすきっかけとしての役割を担うものではないかと思う。

あなたが裕本よりも年齢が若い十代後半だったり、二十代前半であるならば、自分たちが一回り上の世代からどう見られているのかを、彼の描く若者像から発見する楽しみがある。

もしあなたがこの劇作家よりも上の世代であるなら、彼の社会に対する向き合い方を、ご自身のそれと比較していただきたい。

あなたがもし同世代なら共感できる部分を見つけてほしい。

そしてどの観客も、共通して作品に対して、また作品通じて抱くであろう疑問や違和感に、敏感になって欲しいと思う。おそらくその隙間に、彼の作品が持つ良さ、いわゆる彼独自の解釈による「世代論」の面白さが隠されている気がしてならない。(了)

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こんにちは。この度お誘いをいただき、連載に参加させてもらうことになりまし た。今回は、私からの初めての投稿になるので、私自身が演劇に対して今考えていることを脈絡なく、そしてそれに関連させて、裕本くんの作品について書かせていただきました。最後まで駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました!感想などコメントやDMで、「読んだよ〜」という 意味でスキ!など頂けると嬉しく思います。