レスポンシブデザインと自由のありかた
WEBデザインの「レスポンシブデザイン」を「レスポンシブルデザイン」とついつい言ってしまうことを、恥ずかしいだけだと捨て置くのはもったいない。両者に強い結びつきがあるのを見つけたので、もし誰かが言い間違いをした時も、これからは自信を持って良いと思う。
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「レスポンシブデザイン」では、デバイスに応じた適切な画面を自律的に表示する応答を設計する。そもそも、responsive も responsible (よく使われるのは responsibility だが)も、同じ語源から派生した概念で「応答する」「弁明する」というような意味だ。自由と責任の関係を述べるにあたって、自由に選べる時に適切に応答することは責任を果たすことに通じる……といった考え方は、西洋の一般的な不文律と言っても過言ではない。
この「レスポンシブデザイン」は10年ぐらいかけて日常になってきた。企業の公式サイトにおける日本での浸透度は、欧米に比べるとかなり遅かった。日系企業のグローバルサイトがレスポンシブ対応をしていて、国内向けはPC/SPそれぞれ作っているという例も見たことがある。それは偶然の産物だが、同時に必然でもあったと推察する。responsive さらには responsibility というトレンドの概念が、日本の社会で血肉になっていない。年代や性別、年収に関係なく、この社会では一般的ではない、という意味だ。だからこそ、いろいろな立場のキーパーソンが「つまりはSPとPCの2種類で辻褄が合えばいいんじゃないか」と判断する頭を持っていたに違いない。これじゃあ「CSR(企業の社会的責任)」なんて根づかないのでは……と思うが、それはまた別の話。
確信をしたのは、参院選の投票日にあった出来事だ。すでの色々な場所で語られている話で耳にタコかもしれないが、ニコ生の開票速報中の中継でとある党首が前後の話の脈絡を無視して噂話のような暴論を投げるという一幕があった。これはまるで、サッカーの試合でボールを出された側が審判のホイッスルが鳴ってないのにスローイングを始めてしまったようなものだった。
開票速報はTV地上波各局含め、ほとんど似た構造で成り立っている。党首や選挙対策の担当者を中継でつなぎ、順不同で司会者との受け答えをしていく。それは折り込み済みだったはずだ。しかしその党首は、軌道修正をすることはしなかった。むしろ積極的だった。
もちろんそれは、他の誰もがやっている。過去の例も数えきれない。先ほど書いたように、辻褄が合えばよい社会だから。適した応答を行うことは必ずしも善とはされない。
とはいえ、である。「これだから○○は!(○○=マイノリティ属性)」と片づけられる悔しさや恐ろしさを、この党首は誰よりも知っているはずだ。それなのに、責任を放棄したような姿を見せた。しかも、その党首の発言は意外と少なくない人に受け入れられているようにも見える。
もちろん、1人で色々なものを背負わなければならない状況はしんどい。けれども、信条や思想の自由を守り抜くというのは、それを越えたところにたどり着かないと、できないことなんだろうなと思う。
広告クリエイティブ界隈にいると、自分を企業と生活者の間にいる「代弁者」と思うことは多いけれど、その辺りの覚悟までできる人は少ない。というより、そこまでシンクロできるほどのクライアントって、やっぱりほとんど出会えないわけですが……。
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