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私じゃなくても撮れるのに

写真を通して表現することについて。

世の中にはたくさん写真を趣味や仕事にしている人がいて、ありとあらゆる場所で幾度となく多くの人がシャッターを切り、それがインターネット上に何度も放流されているのに、写真をやろうという人は減るどころか増えているような気がします

別に自分がわざわざ写真を撮らなくても、
インターネットを探せば目当ての写真は手に入れられるのに
なぜわざわざ自ら写真を撮るのか。

私の場合

最も写真を撮る動機づけとなっているのは
この要素が強い気がします。

  • 写真で切り取った空間を自分のものにしたい(持って帰りたい)

  • 自分がイメージする世界を表現したい

写真で切り取った空間を自分のものにしたい(持って帰りたい)

これは私にとっては旅行先でお土産を買う感覚に近いかもしれません

旅行先の観光地のお土産は
ネットで取り寄せして買うこともできます
なのにわざわざ現地で買うのは
旅行先の体験や記憶も一緒に持って帰りたいからなのかなと思ったりします。

そこには自分が体験したこと、現地で過ごした自分の記憶。
これを物理的なお土産というものに込めて、確かにそこに記憶がある、私はそこにいた、ということを手に取って実感できるようにしたい、そういう思いがあるのだと思っています。

お土産を渡したり眺めたりしながら、こんなことがあってね、こんなところに行ってね、すごく綺麗で感動して。あ、このお菓子は旅館の人からおすすめされてね。モノが運んでくれるストーリーを振り返りながら誰かと話したり自分の中で反芻させたりする機能を、写真も果たしてくれると思っています。

逆にそこにストーリーがなければ、写真は撮ってないかもな。

自分がイメージする世界を表現したい

自分がイメージする世界を表現したいというのは、
自分がもつ世界をなんとか表わそうとするその過程に喜びがあるのだと思っています。

たまに音楽や絵画などアートをやる人の中に、
「頭の中のイメージがそのまま出てきてくれたらいいのに」と嘆いている人を見かけます。

それほどイメージを形にするのは難しいことだし
だからこそうまく行った時の喜びはとても大きい。

これはちょっと違うな、もうちょっと青っぽいかもしれない。音を半音上げてみたらハマった、これだ。やっぱりこっちかも、みたいな延々と自分の中で繰り返されるやりとり。

写真も同じだと思うし、
自分が写真をやる意味というのもここにある気がします。

写真をやる他の方がどんな理由で
自らカメラを構えて撮り続けるのか、
ぜひ聞いてみたいと思っています。

その中に、隠れている「自分で写真を撮る理由」がまだあるような気がしています。

今日は熱が出て、ほぼ寝て一日を過ごしました。
明日は良くなりますように。

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