curry menu archive 28 イエメンカレー
こんばんは。
頑張って連続で投稿してみました。
28皿目はイエメンカレーです。
イエメンはちょっと複雑ですのでWikipediaを引きます。
長いので、文字が苦手な方はすっ飛ばして下さい。
イエメン共和国(イエメンきょうわこく、アラビア語: الجمهورية اليمنية)、通称イエメンは、中東の共和制国家である[3][4]。アラビア半島南端部に位置し、インド洋上の島々の一部も領有している。首都はサナア[3]。
歴史[編集]
詳細は「イエメンの歴史(英語版)」、「ジャーヒリーヤ」、および「en:List of Sunni Muslim dynasties#Arabian Peninsula」を参照
交易による繁栄[編集]
古代 - 交易の中心地、および物資集散地として繁栄。古代ギリシャや古代ローマの時代には「幸福のアラビア (Arabia Felix)」として知られる(サバア王国、early 1st millennium BC)。
紀元前7世紀頃 - サバア王国が、農耕の発達や、インド産香料の中継貿易によって繁栄。アウサーン王国(英語版)の都市がサバア王国によって破壊された。
支配者の激しい入れ替わり[編集]
525年 - ヒムヤル王国のDhu Nuwas王の治世に、ユスティニアヌス1世から侵入を受ける。
イスラム教の流入[編集]
12世紀- ズライ朝(1138-74年)をトゥーラーン・シャー(英語版)(1174年-1180年)が滅ぼし、彼と父ナジムッディーン・アイユーブを同じくする弟サラーフッディーンを始祖とするアイユーブ朝の支配を受ける(1174-1229年)
13世紀 - ザイド派(シーア派の一派)のイマームを祖とする(en:Imams of Yemen)が成立。
14世紀 - Al Kathiri (Hadhramaut) 王家が成立、近年まで存続。
15世紀 - ラスール朝(1229-1454年)が紅海・アラビア海・インド交易の拠点として繁栄する。同王朝に鄭和の艦隊が来航
一度目のオスマン帝国の支配[編集]
南部のイギリスの植民地化[編集]
二度目のオスマン帝国の支配[編集]
イエメン王国成立[編集]
イエメン王国崩壊[編集]
1962年 - 軍事クーデターにより、イエメン王国が崩壊。イエメン・アラブ共和国が成立するも、北イエメン内戦が勃発(~1970年)。
1965年 - アル=マフラ県に隣接するオマーンのドファール地方で、南イエメンが支援するDhofar Liberation Front(DLF)によるドファールの反乱(英語版)(1962年-1976年)が激化。
英領南アラビア独立[編集]
1967年 - 英領南アラビア保護領(南イエメン)が、南イエメン人民共和国(1967年 - 1990年)として独立。後にイエメン人民民主共和国へ改称。
南北統一[編集]
1990年5月22日 - イエメン・アラブ共和国(北イエメン)、イエメン人民民主共和国(南イエメン)が合併し、現在のイエメン共和国が成立。成立したイエメン共和国の初代の大統領として北イエメン大統領を務めていたアリー・アブドッラー・サーレハが務めることになる。
南部での再独立を求める反乱[編集]
初の大統領選挙[編集]
アルカーイダによる襲撃[編集]
2000年10月 - 旧南イエメンの首都であったアデンにあるアデン港で、イスラム原理主義勢力アルカーイダによる米艦コール襲撃事件が起こる。なお、ハドラマウト(イエメンのアル=マフラ県、オマーンのドファール地方を含む)はアルカーイダの指導者だったウサーマ・ビン・ラーディンの父親の出身地。
イエメンでアラブの春発生[編集]
2011年1月 - チュニジアでのジャスミン革命、エジプトでの民衆革命に影響を受けて市民による反政府デモが発生(アラブの春、2011年イエメン騒乱)。この結果、サーレハ大統領は退陣し、ハディ副大統領が翌年2月の暫定大統領選挙で当選。詳細は「en:2014–15 Yemeni coup d'état」を参照
2015年内戦[編集]
詳細は「イエメン内戦 (2015年-)」を参照
引用がかなり長くなってしまいました。
19世紀以降だけざっと整理すると。
イスラム教ザイド派の支配していたイエメンはエジプトの勢力下におかれた後、北イエメンはオスマン帝国に占領され、南イエメンはイギリスに占領され植民地に。
その後北イエメンはオスマン帝国から独立、イエメン王国ができたけどサウジアラビアと戦争して併合された後クーデターで崩壊。内戦状態へ。
第二次大戦後、南イエメンがイギリスから独立、内戦が続いていた北イエメンと1990年に南北統一して現在のイエメン共和国に。
(何度も読み返してやっと理解できました)
しかし、2011年のアラブの春以降政情が不安定になり、2015年から内戦に突入、停戦を繰り返しながらも2023年現在、まだ内戦の真っ只中のようです。
世界一周カレーでは、
「なんとなく選んだ国がすごく複雑な状況」
ということも当然あります。
世界一周カレーの主旨をよく知らないお客さんには、
「なんかこわい国を取り扱っているな」
というマイナスなイメージを持たれてしまう可能性もありますので、別の国に変更することもできますが、あえてしないのは、
「カレーをきっかけにその国のことを知ってもらう」
ということも世界一周カレーの目的の1つだからです。
「カレーを通じて知らない国に興味を持ってもらって、知ることでちょっとでも偏見や差別がなくなればいいな」
とヨシフジ君は言っています。
殊勝な取り組みだなと友人ながら感心します。
さて、イエメンの状況は複雑ですが、そこに住む人がいる限り綿々と受け継がれてきた文化がありますから、イエメンカレーにはイエメンの食文化が反映されています。
当時のインスタから。
誤字がありますが、izonの店主、ヨシフジ君のインスタグラムの投稿は眠気との闘いですのでご容赦ください。
(いつも真剣に投稿しています)
一般的なカレー作りではホールスパイスやパウダースパイスは過熱して使うものだと思いますが、イエメンにはフェネグリークを水に漬けペーストにするという調理法があるようで、それがサルタの味の決め手のようです。
(イエメンのサルタは石鍋料理で、引用中のサルタはイエメンカレーの中のサルタです。本来サルタはカレーではないのですが、サルタの調理過程の一部をカレーアレンジしているということですね。わかりづらくてすみません)
そしてイエメンの食文化においてラムは必須だということで、苦手な方もいるだろうけどあえて、ラムに特化した感じのプレートになりました。
チキンマンディとフールは中東あたりでは大人気のメニューらしく、イエメンでもよく食べられているようです。
サルタ、サハウは王道のイエメン料理で、マラックは中東や北アフリカで食べられる肉スープのことらしく、イエメンではラムスープが一般的なようです。
イチジクもイエメンではよく食べる果物で、ヨーグルトと合わせてライタにアレンジ。
ここまでは完璧にイエメンの食文化をカレーへと昇華できていると思いますが、最後のゴーヤに関しては、イエメンの人が食べているのかどうか、調べてもわかりませんでした。
おそらく、カレーとしてのバランサーとしてインドからイエメンへ派遣されたのだと思われます。
ラムスープは6時間煮込んで、アクセントにティンブルというパウダースパイスを浮かべています。
この頃はまだ圧力鍋を使っていなかったので、煮込み時間がえらいことになっています。
現在も全ての煮込みを圧力鍋で完結させることはなく、序盤のみ圧力鍋を使って、中盤以降は普通の鍋に移して炊く、などしています。
(全部圧力鍋で炊くと”なんか違う”そうです)
ラム好きにはたまらないであろうイエメンカレーですが、一週間で終了してまた次のカレーに移っています。
もったいないですが、修行の道は長く険しく、イエメンも通過点に過ぎないということなのでしょう。
果たして終着点はあるのでしょうか。
2回3回と同じ国を扱うこともある(もちろんカレーの内容は変わります)ので、今のところ世界無限ループカレーの様相を呈しています。
このままループし続けてヨシフジ君が誤字しか打てなくなってしまったら自動的に終了ということになりますが、そうならないように温かい目で見守っていただければと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
それではまた次のカレーでお会いしましょう。