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スぺカレ~自分を活かす道を哲学から学ぶ~

スぺカレ~Aクラス~ 5月11日


have系かbe系か

人間だれしも「将来はこうなりたい…」「ああいう風になれたら幸せだろうな…」と自分自身の将来像を考えたことがあるだろう。

ではその将来像は果たして本当に幸せに向かっているものなのだろうかというところをhave系かbe系かという観点で見ていく。

have系というものは自分を着飾るもの、表面上に浮き出る地位や名誉、お金が十分にあったら幸せだろうな…と考えてしまっていることを指す。
例でいうと、社長になりたいな…お金持ちになりたいな…たくさんおしゃれできるようになりたいな…いい車に乗ってモテモテになりたいな…大企業で働きたいな…公務員になりたいな…

個人的にはこの考えは自分本位で浅はかに感じてしまう。
自分本位で周りからの評価ばかりを気にしているとこのようなhave系に本当の幸せはやってこない。
それは誰のためにもなっていないからである。それは自分自身のためにもなっていないことも併せている。
着飾るだけでは空っぽ人間になってしまうことを忘れないでほしい。

ではbe系とはどのような将来像を思い浮かべることをいうのであろうか。
例を挙げると、チームをうまく作れるようになりたい…自由な生き方ができる人になりたい…強キャラになりたい…誰かを幸せにできる人になりたい…誠実な人になりたい…誰かを助けられる人になりたい…

これはすべて自分自身の中身を見つめた将来像であることが分かるだろう。
人間として生きていく中で中身を充実させて「どうなって」いきたいかを考えることが将来像を描くうえで必要なことになってくる。

変化学

将来像をを思い浮かべていくと、このまま生きていてはその像に近づかない!ではどう変わればよいのか?と思う人が多くいるだろう。
変わるために必要な変化学について見ていく。

何か変えたい!と思って自分なりに見た目を変えてみたり学びを深めて行ったりしてみると今まで関わってきた人が「お前は変わったな」と声をかけてくることがあるかもしれない。
それは変わった方向性も大切であるが、ほとんどの人は何かが”変わった”ということにしか気づかない。
つまりは”変わった”ことに違和感を覚えているのである。
しかし何が変わったのかは分からない、身近な例でいうとだしの変化のようなものだろう。
料理人はだしの変化を見極めることは朝飯前のように
人の変化も見る人が見ればこの人はここがこうよくなっている、ここはこうした方がより将来像に近づく、と変わっていることも見えてくるのである。

自分なりに模索してみてるけど本当にこの方向があっているのか分からない、誰も適切なアドバイスをしてくれる人が身近にいない!という場合にはどうしたらよいのか。
変化する方向性は、自分を活かす方向性に向かうことが必要になる。
つまりは自分がワクワクする方向性のことである。
自己理解を深めて自分のワクワクするもの、ことを追求してその方向性に向かうことが自分を最大限に活かすことにつながってくる。

方向性はわかった!でも働かないと…という場合は
テンプレにハマらない働き方を意識することが重要である。
テンプレにハマってしまうとスジの悪い大人に絡まれてしまい、時間を吸い取られてしまう。
それを回避するためには自分を活かすことのできるワークスタイルを見つけたり、自分で作ったりしていくことが非常に大切になる。

実存主義

次は実存主義という観点から人間の在り方や、望ましい方向性を見ていく。

アガンベンは「剝き出しの生」という言葉を残している。
これは、生存することばかりを考え、生きることがむき出しになってしまっている人間のありさまを表している。
つまりは野生の動物のようになってしまっている姿である。
このようなあり方は非常に危険であるとアガンベンは示唆している。

生きることのみを考えている人間は政治的にコントロールされやすいからである。
政府から「死ぬかもしれません、だから家にいてください」と言われると何もわからず怖くなって家にこもる。これがまさにコロナ禍でのステイホームのことである。

自分で考えたり調べたり将来のことを考えたりもせずに、ただただ生存のみのために生きてしまうと政府からなめられてしまうという考えである。

サルトルは「自己欺瞞」という言葉を残している
自己欺瞞とは人は意識せずに変わることを恐れて、現状がいいものだと自分に言い聞かせることで自由を手放している。という考えである
つまりは人間は自ら不自由を選択しているということだ。

このことも非常に危険であるとともに、その人がその人らしく生きられない考え方になってしまう。
自由を選択しないことで本来の能力や可能性を発揮できずに人生終了の道を歩んでいくことになってしまうのだ。
これは悲しいことである。

人間は自分で自分の本質を作り出していくためには選択を続ける必要があり、その選択から目を背けてしまえばなんと文句を言おうと自分で不自由を選択しているということになる。

仏教から見る自由

では自由、不自由について仏教の視点からみてみよう。
何かを選択する際に「自由にやってください」と多くの人は言われたことがあるだろう。

この時に違和感を覚えたり、なにか不自由な気持ちを覚えた人もいるのではないか。
これはその言葉を発した人のインサイトが大きく関わってくる。

釈迦は「あなたの可能性を十分に活かしたい、広げたいので…自由にしてください」
嫌な人は「私のことを無視して…言うことを聞かないんだなどうなるかおぼえておけよ…自由にしてください」
という違いがある。

この違いは慈悲の心があるか否かである。
慈悲の心とは、人の悲しみを自分の悲しみにできること、他者の成長や楽しさを一緒に喜ぶことを指す。

この慈悲の心を忘れてしまっているのが嫌な人のいう「自由」である。
発する人によって自由という言葉には様々な意味が込められており、その意図を深くまでくみ取ることが自由な生き方をするうえで必要になってくる。


まとめ・感想

今の若者が悩んでいる将来像や、スジのいい働き方、人間の在り方を哲学や仏教から見てみた。
モヤモヤしていた気持ちを哲学者が既に論文で記していたことを知り、自分自身の学びの浅さに気づいた。
そして今モヤモヤしている人にこのスッキリした気持ちを味わってほしいため、ポップにこの現状を伝えたり苦しい気持ちを軽くできるような手伝いをしていきたいと心から思った。

まなちゃる


自分は自信を持てていないことにとても課題意識がある。
その中で今回の講義を聞き、
サルトルの「自分の選択したことをやり切ることで自分の本質を見出していく」という言葉から、まだ自分は何もやり切った経験がないと感じた。
その為、次の目標を自分の納得できることをやり遂げることにしたいと思う。

ひなち


マイクロスポーツを幸福にカッコよくするための学びを発信します。