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目からビーム!50 銀幕躍るアカハチはラガーマン~または、琉球独立論を蹴っ飛ばせ!

 今年を振り返れば、もうひとつ。ラグビーW杯も忘れることはできない思い出のひとつである。100キロ級の肉弾合い打つゲーム自体の迫力もさることながら、勝敗を超えて対戦チームを讃え合う姿やカナダやナミビア代表による台風被災地でのボランティア活動などのドラマが多くの人に感動を与えたことは記憶にまだ新しい。日本ではこれまでどちらかといえば、マニアックなファンに支えられてきた感のあるラグビーだが、このW杯を機に、野球、サッカーに次ぐメジャー・スポーツとして大衆に認知されたことだろう。
 定説によれば、日本で最初に行われたラグビーの試合は1874年、英国の水夫たちによって横浜で行われたそれだという。1920年代に入り、慶應、早稲田、明治、同志社を中心に大学ラグビーが花咲く。第二次大戦中、予科練では「闘球」の呼称で訓練の一環に取り入れられていた。「闘球」――、言い得て妙な和名だと思う。
 戦前からの映画スター・藤井貢は名門慶大ラグビー部の出身である。日本代表も務めたほどの逸材だったが怪我で選手生命を絶たれたのち、丹精なマスクと肉体美を買われて松竹蒲田入りしている。銀座育ちの慶應ボーイでスポーツマンという毛並みのよさそのままに、デビュー当時は大学生のぼんぼんといった役どころを得意としていたようだ。彼の『大学の若旦那』シリーズは、加山雄三の『若大将』シリーズの原型だといわれている。
 その藤井のフィルモグラフィに気になるタイトルを見つけた。『オヤケアカハチ』(1937年・東宝)がそれである。「南海の孤島琉球に正義の烽火をあげ強烈な太陽の下に逞しい情熱と意欲をぶちまけた痛ましくも勇壮な民族の血涙史」という惹句がなんとも勇ましい。

見よ、藤井貢のこの肉体美。ヒロイン役の市川春代は『ウルトラセブン』にフルハシ隊員の母親役で出演。

 

映画『オヤケアカハチ』ストーリー紹介。

 昭和12年といえば、日本の大陸進出も本格化した年である。映画界はすでに戦時統制下に入りつつあった。八重山の英雄オヤケアカハチの物語がいかなる国策につながるのか。日本のジョニー・ワイズミューラー藤井貢がそれをどう演じきったか。なによりも、半島出身の人気ダンサー・朴外仙や石井漠舞踊研究所が特別出演する同作は日本近代舞踊史においても貴重な作品であるのは間違いないだろう。おそらくフィルムは現存せず、そのよすがを知るに、数枚のスチールを頼るのみというのはいささかさみしいものである。

ジョニー・ワイズウミュラーはターザン映画で一世を風靡した元水泳五輪メダリスト。ビートルズの『サージェント・ペパーズ』のジャケにも登場する。

初出・八重山日報
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(追記1)
 ラグビー・ワールドカップの話題が出てくるから、これを書いたのは、今からちょうど4年前の2019年(令和元年)ということになる。そして今年2023年もまたラグビーW杯がやってくる。さて、どんなドラマが待っているだろうか。
 ≫映画界はすでに戦時統制下に入りつつあった。
 と書いているが、これはいささか大げさで、昭和12年といえば、満洲映画協会が発足した年で、五族協和、大陸よいとこムードが映画界を覆い始めていたのは確かだが、その作風はいずれも陽気で、まだまだ自由な空気が流れていた。軍部の干渉が本格化するのは、昭和14年の映画法の施行からで、これによって映画人は、俳優、監督からスタッフにいたるまで国家試験を受けなければならなくなった。そして昭和16年、日米開戦を前後として、完全に映画は国家の統制下に入るのである。
 もっとも、アジアを明治以後の国際情勢を見れば、オヤケアカハチの反乱をえがくこの映画にプロパガンダ性を探すのは容易だろう。八重山諸島=アジア諸国、琉球=列強という暗喩である。

 オヤケアカハチは15世紀末の八重山の人(生誕地は波照間島)で、琉球王府の圧政に対し反乱軍を立てて抗戦した人。反乱こそ鎮圧されたものの、八重山の英雄、太陽と今も讃えられ、石垣にはその銅像が建てられているほか、毎年アカハチまつりが開催されている。

▼八重山の中高生が躍るアカハチの踊り。踊りに唐手の型が入っているのがわかる。薩摩藩の禁武政策下、島の人たちは踊りに偽装して武術の稽古をしたともいわれている。

 琉球と八重山は本来別の文化圏であり、支配者と被支配者の関係であった。今でも八重山の古老の中には、琉球、沖縄と同一視されることを嫌がる人も少なくないという。
 一部、沖縄のサヨクと辛淑玉氏など本土の活動家が結託し、琉球独立論を扇動する動きがあるが、もし、八重山の人たちが「琉球が独立したければ、勝手にやれ、俺たちは日本に残る」と言ったらどうなる。あそこは飛び地になってしまうぞ。と、思っていたら、こんなサイトがあることを知った。オヤケアカハチについても詳しく紹介している。

 教科書にシャクシャインの乱を載せるなら、オヤケアカハチの乱も載せるべきだろうと僕は思う。
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(追記2)
 映画『オヤケアカハチ』に話をもどそう。クレジットにある石井漠舞踊研究所と朴外仙についても軽く解説しておきたい。
 石井獏は日本のモダンバレエの開祖的存在で、その門下から多くの才能が旅立ったが、もっとも有名な一人は半島の舞姫といわれた崔承喜であろう。

崔承喜。その舞踏は、川端康成、東郷青児、パブロ・ピカソ、ジャン・コクトーなどの多くの芸術家に愛された。周恩来も彼女の大ファンだったという。

 朴外仙は、京城で崔の舞台に感激し、指導を仰ぐ。その後、本格的にダンスを身に着けるために内地行きを決意する。崔は朴のために、かつて自分と人気を二分した旧知の高田せい子に紹介の労を取った。朴は高田門下になる。崔が自分の師でなくライバルに愛弟子を預けたかというと、崔が昭和3年に石井のもとを飛び出し(その理由には諸説あり)、疎遠になっていたという事情もあるだろう。もっとも、崔、高田、石井の間に険悪な空気があったというわけでもなく、朴は石井門下の男性ダンサー・趙澤元と舞台でペアを組むことも多かった。

映画『オヤケアカハチ』での朴外仙。

 朴外仙は、のちに童話作家で菊池寛の秘蔵っ子であった馬海松と東京で結婚。夫の求めで、舞台を去り家庭に入る。
 ちなみに、馬海松を伝える文章を読むと、かなりの美男子で、菊池の秘書の佐藤碧子などもかなり熱を上げていたらしく、バイセクシャルの噂のあった菊池の寵愛もそこに起因するのかと思ったら、「文藝春秋」編集員時代の馬の写真を見たら、青年期にしてかなり頭髪が後退している感じで、拍子抜けしたことがある。神山繁や杉浦直樹のような知的若ハゲ・タイプに分類できるか。
 朴外仙は60年代になって、梨花女子大学に講師として招かれ、現代舞踏の理論と実践を生徒に伝え行進を育て上げた。2015年に94歳で没。

▼生誕100周年を記念して朴外仙の生涯を解説する動画。ご本人も登場する。


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