見出し画像

日華事変の正体。盧溝橋事件以後の邦人虐殺

中華民国という伏魔殿

 現在では教科書にも定着している「日中戦争」という用語だが、筆者にいわせれば、これこそ東京裁判史観の産物であり左翼歴史修正主義者によるはなはだ粗雑な造語に他ならない。
「日中戦争」と書けば当然、日本と中国の間で国を挙げた戦争があったということになる。では、ここでいう中国とはどこの国を指すのだろう。中華人民共和国の成立は1949年(昭和24年)だから、旧日本軍相手に戦争をしようがない(つまり、同国は戦勝国ではない)。となれば、中華民国ということになる。確かに日中戦争=日本と中華民国の戦争と説明する教科書もあるが、これは間違いとはいえないものの、正解では言えない。当時の中華民国とは一体なんであるか、を理解することが必要だろう。
 1940年(昭和15年)、汪兆銘の南京国民政府が成立すると、翌41年の双十節(=10月10日。民国の建国記念日)の閲兵式に、日本は飛行機と軽戦車を譲渡している。どこの惑星に、戦争している相手国に兵器をプレゼントする国があるだろうか。ちなみに、南京政府は日本の他、タイ、イタリア、ヴィシー政権(フランス)、ドイツ、スペイン、ハンガリー、ヴァチカン、満州国、ルーマニア、スロバキア、クロアチア、ブルガリアから承認を受けている。韓国のいう上海臨時政府のような実態をともなわないものではない。
 蒋介石の重慶政府は密かに英米の支援を受け日本軍と戦闘を続ける一方で、汪兆銘の南京政府は1943年(昭和18年)1月、米英に宣戦布告をしている。この奇怪な歴史がそのまま中華民国なるものの正体なのだ。
 日中戦争とはずばり、日本と蒋介石国民党との宣戦布告なき軍事衝突であり、正確にはやはり「C那事変」あるいは「日華事変」と呼称すべきものである。ちなみに、広辞苑では「事変」を《警察力では鎮定できぬ程度の騒乱。国際間の宣戦布告なき戦争をもいう》と定義している。国民党が重慶と南京に分裂したように、この時期の中国は政権の乱立と離合集散の時代だった。その他に毛沢東の共産党もあり、地方軍閥もまだまだ健在だった。
 中華民国という国号こそあっても要はまとまったひとつの国家として機能していたわけではなく、内実は群雄割拠の戦国時代の態であったのである。日本はその支那大陸の内乱内戦に巻き込まれ、ズルズルと戦線を拡大して行ったというのが歴史の正解ではなかろうか。

汪兆銘。号は清衛。蒋介石、毛沢東、に次ぐ第3の男であるが、現在ではなぜかあまり語られることはない。彼の名こそは事変の真実を解く重要なキーワードだと思うのだが。

 そもそも上海や北京といった都市の住民は別として、あの広大な大陸に分布する、当時四億(しおく)と歌に謳われた、無学な一般良民のどれほどが自分を「中国人」と認識していたかははなはだ疑問である。陥落時の南京で市民が手製の日の丸を掲げて日本軍の入城を歓迎している無数の写真が現存するが、どう見てもあれは敵国の軍隊を迎える姿ではない。彼らにとっては、国民党軍も八路軍も日本軍も等しく軍隊に過ぎず、単に戦(いくさ)を収め、治安を守ってくれるのが「良い軍隊」であり、それ以外は「悪い軍隊」という認識があるのみである。略奪虐殺集団の国民党軍(蒋介石軍)や共匪が実態の紅軍よりも、規律正しい日本の兵隊さんを歓迎したくなるのは当然であろう。付け足すなら、歴史的に見てC那人は、異民族に統治されることに大きな抵抗をもっていない。現に、唐も元も清も非漢民族による征服王朝だったではないか。現在の中華人民共和国も50余の少数民族を抱える多民族国家である。

日本の兵隊さんのお土産に喜ぶ南京の子供たち。即席で作った日の丸の腕章をつけている。この笑顔、単なるプロパガンダ写真には見えないのだが。

事変を泥沼に導いた邦人襲撃事件

 話を戻す。盧溝橋事件当初、日本軍も蒋介石も戦争を行っているという認識はなかったのだ。ハプニング的に起こった「事変」をすみやかに終結させるべく近衛内閣は早々に戦線不拡大を宣言していたし、共産党との内戦を控えていた蒋介石にしても日本軍との戦闘で自軍を疲弊消耗させるわけにはいかなかった。事実、両者は何度も停戦協定を結ぶが、そのたびに不可解な事件――ありていにいえば、C那人による理不尽な邦人虐殺事件が起こり、和睦の気運を霧散させるのである。その極となるのが、通州事件であるのは論を待たないことだろう。
 通州事件があまりにも凄惨なため、その陰に隠れて語られる機会が少ないが、当時大陸でどのような対邦人テロ事件があったのか駆け足で見てみよう。

【大紅門事件】盧溝橋事件(昭和12年7月7日)の6日後の同月13日、北京の大紅門での国民革命軍第二十九軍の部隊によって日本軍のトラックが爆破され、日本兵4名が死亡。翌14日には日本軍騎兵1名が惨殺されている。
【廊防事件】7月25日未明、北京=天津間の廊防駅付近で日本の通信隊がケーブルを修理していたところ、国民革命軍三十八師団所属の兵士に奇襲される。4名が死亡。11人が負傷している。修理は事前に中国側に通達してあった。軍事ケーブル切断などの妨害工作はたびたび起きている(同年2月から4月まで北支駐屯軍だけで、6回も電話線切断があった)。
【広安門事件】7月26日。前日の廊防事件を受けて、遺留民保護のため、通達の上、一個小隊が北京入り。しかし、北京城の広安門を通過中、突然城門が閉まり、分断された小隊が国民革命軍第二十九軍の一斉放火を浴びている。死者19名。
【通州事件】7月29日。
【大山事件】同年8月9日。上海の紅橋飛行場に向かう大山勇夫海軍中尉を乗せた車が共同租界の碑坊路を通りかかったところ、中国保安隊に銃撃され、大山中尉、斉藤要蔵一等水兵が死亡。大山中尉は数十発を被弾し頭部は原型を留めていなかったという。
 ちなみに、同日は元外交官で実業家の船津振一郎を介して蒋介石政府との間の和平交渉の第一日目だった。日本側の要求は満州国の容認と抗日テロの取締りの二点で、これを飲めば、満州事変後、日本が北支で得た権益(北京・天津地域含む)のほとんどを放棄するという、C那側に大きく譲歩したものだったが、大山中尉の惨殺事件によりこの交渉は頓挫するのである。
(補足)『ワイルドスワン』などの著作のある中国出身のドキュメント作家ユン・チアン女史と夫である英国人作家ジョン・ハリディは毛沢東の伝記『マオ』の中で大山事件に触れ、事件は国民革命軍将軍・張治中の工作であり、張はソ連のスパイだったとしている。
【第二次上海事変】同年8月13日。日本居留民のいる気た北四川路を警備していた日本警備隊をC那便衣隊が襲撃。日本側もこれに応戦。以後、事変は泥沼化の一途をたどることになる。
 この他にも日本人警官や日本の警察署に雇われた満人巡査が暴徒に襲われたり拉致されたり、北支の日本人小学校児童が暴行を受けたりの、嫌がらせ、挑発の類はあとをたたなかった。

大山事件を報じる東京朝日新聞。

中国人戦災孤児養育に両陛下から下賜金が

 大陸の邦人居留民が受難にさらされる一方、日本にも横浜、神戸を初めとして多くの華人が暮らしていたが、日華事変を「日中戦争」と捉えるなら、当然、彼らは敵国人となる。しかし、そのように遇されることもなく、迫害を受けることもなく、日本人と同じように戦時の日常を過ごしていた。大東亜戦争中、アメリカでは、米国籍をもつ日系人が収容所に送られていたのとは実に対照的である。これらを見ても、日本は事変を当初《 警察力では鎮定できぬ程度の騒乱》と認識していた証左ではないだろうか。
 そればかりか、事変で戦災孤児となったC那人児童を日本に連れてきて初等・中等教育を施したのちに帰国させ、将来の日中友好の礎とするための民間事業まで行なわれていたのだ。これの中心となったのは、東洋初のロボット・学天則の製作者としても知られている西村真琴博士(植物学)と彼の古巣である大阪毎日新聞社である。
 西村博士の興した民国窮民孤児援護会、隣邦児童愛護会には、天皇皇后両陛下から5000円下賜金が授与されたという。こうして昭和14年(1939年)、第一陣の68名の支那人孤児が来阪している。同事業は終戦の昭和20年まで続いた。

ロボット学天則と西村真琴博士(左の人物)。学天則は、瞬きし軽く微笑み文字を書く。その顔は、釈迦、キリストなど世界の聖人の集合体のイメージである。西欧人の考えるロボットとはあくまで人間に使役させる存在だが、博士にとってのそれは人間の理想像だった。また西村博士は、戦争中、自ら団長となって中国に医療奉仕団を送っている。


 現在、中共はさかんに南京大虐殺なるものを喧伝しているが、良民30万人を虐殺する悪鬼の日本人と、異国の戦災孤児を育て上げる善意の日本人が同じ「日本人」としてどう両立するのだろうか。また、そのようなジェノサイドが行われていたと仮定して、孤児たちはわざわざ鬼にも等しい日本人の懐に入って行くだろうか。少なくとも当時は「南京大虐殺」など影も形もなかったのである。

蒋介石の行った大虐殺

 日本には虐殺の文化はなく、むしろ漢民族こそ歴史的にみても虐殺のオーソリティであることは、本ムックをお読みの読者なら納得いただけることだろう。
 南京大虐殺を中国では南京屠城という。なぜ城の字がつくかというと、C那では城塞都市が一般的で、屠城とはすなわち城門を閉めきって、その中にいる住人をすべて殺し尽くすことを意味する。日本語で屠の字は「動物を屠る」という意味でしか使われないが、「屠城」にもむろん同様のニュアンスがある。城内で皆殺しにした者たちの人肉はいざというときの食用にするために塩辛にされるのだ。19世紀半ばに起きた太平天国の乱では「天京大屠城」が起き、3日間で10万人が惨殺されたという。このときには、生きながら人間の肉をそいでいく凌遅も行なわれたという。天京とは現在の南京市のこと。つまり、これこそが本物の「南京大虐殺」だ。
 日華事変では蒋介石も二度にわたる大虐殺を行っている。日本人に対してではない。同胞であるはずのC那人に対してである。
 1938年(昭和13年)6月9日、日本軍の追撃を受けた蒋介石軍は、敵の進攻を食い止めるという理由で黄河の堤防を決壊させた。これによって河南省・安徽省・江蘇省にまたがる5万平方kmの土地が水没。100万人の水死者と600万人の被災者を出した。これの救助と堤防修理を行ったのは他ならぬ日本軍なのである。
 同年11月13日、蒋介石はやはり日本軍の行く手を阻むという理由で50万人都市の長沙(湖南省)に火を放たせた。火焔は三日三晩長沙の街を舐め尽くし、2万人の生命を奪っている。
 何度も繰り返すが、日本政府は事変の早期終結を願っていた。虐殺などする意味がない。
 そして、和平の最後の望みが汪兆銘の南京政府だったのである。しかし、願いも空しく昭和19年(1944年)11月、汪は闘病中の名古屋で客死している。

黄河決壊と皇軍の復旧作業の様子を伝える同盟通信。中共は近年、この決壊事件を日本軍の仕業と言い始めた。反論しないことは認めたことになる。

 「話し合い」の末路
 
 日本の左翼学者や自称平和主義者は二言目には「武力ではなく話し合いを」という。汪兆銘こそまさに「武力ではなく話し合い」を優先させた人である。ならば、左翼学者は中共詣でで怪しげな南京大虐殺記念館で献花をする前に、日中友好のシンボルとして「汪兆銘平和記念館」の建設を中共の要人に提案してみるべきではないか。
 しかし、その汪兆銘だが現在は墓も残っていない。戦後、政敵だった蒋介石によって墓は爆破され、飛び散った遺体は焼却されて野に打ち捨てられた。代りに建てられたのは、婦人の陳璧君と共に後ろ手に縛られ膝まづく像であり、与えられたのは漢奸(売国奴)の汚名である。人民はその像の前を通りかかる際には必ず唾を吐きかけ、足蹴にしなくてはいけないという。
「話し合い」で解決しようとする者は永遠に土下座をさせられる、それが中国の常識なのである。こういう国とは元より「話し合い」で解決など無理であるということを知るべきである。

汪兆銘夫妻の土下座象はいくつか種類があるが、これはもっともよく知られたもの。汪兆銘に関して、現在、日本の左派はむろん右派も冷淡に見えるのは気のせいか。教科書に記述すべきである。
汪の夫人・陳璧君は夫を漢奸と呼ぶそしりに対し、気丈にも「蒋介石は英米を選び、毛沢東はソ連を選び、夫・汪兆銘は日本を選んだ。そこに何の違いがあるのだ」と言ったという。左様、汪兆銘が漢奸なら、蒋介石も毛沢東も漢奸だ。

初出・失念



よろしければご支援お願いいたします!今後の創作活動の励みになります。どうかよろしくお願い申し上げます。