見出し画像

シーシャに救われた話

前座


 下書きの中で1番古いものを出してみる。ほぼ見直さないでありのままの姿で投稿。
 読み直さなくてもわかる。これは私にとって青天の霹靂であり、無意識に自分にかけていた「いい子ちゃん」の呪いを解いた日のお話。

ーーー

これを読んでいる人でシーシャを知っている人はどのくらいいるのだろう。

水タバコ(シーシャは英名)は、イランで発明されたと考えられている[1]、中東で大成した喫煙具の一種。水煙管(みずぎせる)や水パイプ(みずパイプ)とも呼ばれる。
Wikipediaより

 ざっくり説明すると、中東の国でできた嗜好品で、ミントやフルーツなどのフレーバーを混ぜ込んだ煙草の葉を加熱して、その香りと風味がついた煙を水に通して吸うもの。タバコなのでニコチンは含まれているけど、水にくぐらせているから体に入るニコチン量は紙巻きよりは少ない。(ニコチンは水に溶けやすい)
 一般的な煙草と違う点は、フレーバー(味)を楽しむもので、専用の器具が必要なため紙巻より手間がかかる事。

 私はそのシーシャに出会ったことで救われた。
仄暗い宙を自由に舞うその煙は自分でも扱い方を忘れてしまった頑固な殻を壊すキッカケとなり、人生自由に選んでいいんだと気付かせてくれたかけがえのない

[シーシャと出会う]

 私がシーシャという存在を知ったのは高校時代。ある日見た「家、ついて行ってイイですか?」で、ついて行った女の人の自宅にシーシャがあった。彼女はそれを手際よくセッティングし吸いながらカメラに向かい自分の人生について語っていた。その内容はすっかり忘れてしまったけど、深夜に部屋の片隅で人生を振り返りながら煙を吐き出すその姿がとにかく魅力的だった。 
 しかし当時は「何かカッコいいなぁ」くらいの感覚で、自分とは縁遠い世界だと思ってた。

[憧れの人とシーシャ] 

そんな私が吸う方に興味を持ち始めたのは大学生になってから。ある日、高校時代からフォローしていた方が“新宿でシーシャバー始めます”というツイートを目にして「その人に会える!?」とシーシャの存在は無視していた。
憧れの人に会えるかもしれないという事に浮かれまくってた。 実際にそのバーに行ったのはオープンしてから3ヶ月後くらい。(お目当ての方に会ったのはまた別の日)

[はじめてシーシャを吸った日]

 その年の夏、私は高校生の頃から聴きまくっていた女王蜂というバンドのライブへ初参戦した。 
 間近で見た女王蜂は、CDジャケットやTwitterの中からそのまま出てきたような完璧なビジュアルで、アヴちゃんを始めメンバーにより繰り広げられる圧倒的なパフォーマンスは「ここに来たならついて来いや」とでも言われているようで、周りに合わせるのに必死だった。
そんな夢のような空間と、会場全体に広がる魅力に呑まれ今まで生きてきた中で学んだ常識や概念が叩き壊された気がして私の心に強い衝撃と深い爪痕を付けられた忘れもしないライブだった。 

ライブ終了後、余韻に浸る中電車に揺られていた私は「今夜の私なら何しても最強かもしれない」と思いシーシャバーへ行くことを決意、電車を乗り換え新宿に降り立った。 
深夜になっても新宿という街はまだ眠る事を知らない。
そんな夜の新宿を歩くなんて初めての事で、悪いことをしている気分になれた。
普段、夜更かしは苦手な方で深夜11時半を回ると充電が切れたかのように寝る。
だけど旅行やライブといった非日常な特別な時は不思議なくらいに目が冴える。

地図を頼りに店へたどり着き、鉄骨でできた階段をのぼり既に開けられていた入り口に近づくと、可愛い女の子が「いらっしゃいませ。初めてですか?」と声かけてくれた。
 身分証を見せ、席に通されると店員さんから店のオーダーシステムや吸い方、おすすめフレーバーについて丁寧に教えてもらった。 
「シーシャ吸うの初めてなんですけど、おススメありますか?」と聞いてみたら、「初めてだったら定番のミント系や、フルーツなんかいいかもしれません」と言われたので、ファーストフレーバーはレモンを注文した。

 運ばれてきたシーシャの第一印象は、アラジンに出てきそう…だった。シュッとしたシルエットに下半分は胴長のポットみたいだし、そこから伸びるホースもアラジンの映画の雰囲気と一致した。(後にシーシャについて調べたら中東で登場したと書かれていて大体正解だった)
 人生で初めての煙草を目の前に緊張と興奮が入り混じった気持ちを何とか落ち着かせて、深呼吸して恐る恐るホースに口を付ける。ゆっくりと息を吸い込むと口の中にレモン味のついた煙が滑り込み私の肺へ侵入する。少し喉に違和感を覚えたけど初めてだからそんなものか。と深刻にとらえなかった。
初シーシャはおいしかった。
 吐き出された煙は冬に吐く息よりも儚いものだったけど、その一口で私の中の何かが破られたような気がした。
今までの私は内向的だった。
内向的というか、他人に対してはもちろん、自分に対しても自己を開くことが出来なかった。“たまに夜中に隠れるようにして食べるハーゲンダッツが好き”、“金木犀の香りが好き”といった自然と現れる現象に対しての「好き」は言えるけど、“Aという作家のxx(小説のタイトル)のここに共感できるから好き”、“Bというアーティストの曲に潜んでいる哲学が好き”といった自分自身で見つけて手に取ったモノ達に対しての心からの「好き」は口に出すことが出来なかった。

日記とかTwitterにはバンバン書くけど、そこに書かれる好きとは少し違くて、自分自身に内包された感情を音にして口から発することがなぜか怖かった。
それを誰かに伝えたら私の中で大切にしてきた「好き」が砂みたいにあっけなく零れて消えてしまうんじゃないかって。漠然としてるけどそんな心情。たぶんその正体は過去の経験から蓄積されたトラウマや恐怖心から出てきたもので、それを打ち壊す方法を見つけられずに大学生になり、20歳を迎えていた。
私の感情の蛇口の入り口には歴代の負の感情が髪の毛の塊のようにずっと留まっていて、好きや嫌いはもちろん「なんとなく」やってみよう。行ってみよう、声を掛けてみよう見たいなふとした行動も上手に出すことが出来なかった。そんな黒い塊は排水溝に詰まる汚れみたいにずっと私の中に留まって、素直な感情も喉まで出てくるけど外に出す前にその感情が邪魔をして本来10出るはずの物が6だったり2だったりと中途半端なものになってしまう。

だけどシーシャを一口吸ったその瞬間、私の感情の入り口を独占していた黒い塊はあっけなく解けて煙に包まれてぷはぁと外へ放出された。
本当にあっけなく。その見えない恐怖の壁は崩された。
そうか、ここにあったのか。
ライブで数少ない感情の引き出しを限界まで開放して、その勢いでシーシャを吸ってそれまで溜まっていた負の遺産をフレーバーにくゆらせて外に吐き出す。
それで私はリセットされて、もう少し生きてみるかぁ。なんて軽やかな気持ちで街を闊歩する。(実際にシーシャ後の足取りは軽く、感情もするすると出てくる)

[その後]


シーシャの楽しさを覚えた私はその日以来、毎年最低でも1回は新宿にあるシーシャバーに行くようになった。それはライブ後だったり、Twitterで出会った人とのオフ会だったり、失恋した勢いで行ったり。いいことも悪いこともシーシャの煙はそれを受け止めてある程度消してくれる。嫌な感情を外に吐き出した私は次の日からまた歩き出す。

この記事が参加している募集

#熟成下書き

10,582件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?