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「伊豆海村後日譚」(17)

 パク・ジョンヒョンは兄の懸念通り、今どこにいるのか?というメッセージを昨夜十九時頃、彼に向かって送信し、直後自らの軽率さを責めるように、山蛇組支給の携帯を叩き壊した。
 駅裏の金券ショップに急いだジョンヒョンは、カウンターの向こうに立つ若い女性がニュースを見ていないという確率に賭けて「間宮茂」の身分証を提示し、八十五ドルの大枚をはたいてプリペイド式携帯電話を買い求めた。
 ニュース速報アプリからひっきりなしに自分たちの情報が流されている。
 彼もまた新たな身分証明書の必要性が脳裏をよぎったが、明日の朝までに他者のIDを得ようとすれば、犯罪行為しかその手段がない。彼はこれ以上無駄な殺傷を繰り返すべきではないと判断した。これだけの情報流出は、既に山蛇組が自分たちの全てを警察に売ったという事実に繋がる。そこには自分たちが神戸で過ごした部屋の中にあるものの惜しみない供出も含まれるだろう。
 警官二人を殺害した際に放置した電気自動車も徹底的に中身が洗われているはずだ。自分たちの指紋や毛髪は既にあり余るほど警察の手中にあり、更に事を荒立てて手掛かりを増やすような真似は避けるべきだ。いみじくもそれは偉大なる兄と同じ判断で、ハン・ガンスとチェ・ヨンナムの講じた策とは反するものだった。満海人民軍で同じ釜の飯を食ってきた四人はその夜初めて、約二十年におよぶ関係の中で戦略的不一致を見たのだった。
 新井がコンビニの電飾看板をどこかの高校生の頭蓋に叩きつけたという情報には笑いが止まらなかった。馬鹿だとは思っていたが、これほどだとは。
「まあ、しかし」彼は独りごちた。
 画像で見る限り、俺たちの顔写真は五年前に日本海を渡ってきた時のものだ。あれから四人、全員が整形をした。そこら辺のOLがカジュアルに手を出すプチ整形の程度ではない。日本最大のヤクザ組織お抱えの医師による大掛かりな手術だ。彼らはまず耳の形から変えたのだ。そして生まれ育った国とは文化も環境も異なる外国での五年。携帯画面の向こうにいる、満海人民軍海軍東海艦隊ハスン第一戦隊中尉パク・ジョンヒョンと、今その携帯を眺めている間宮茂を、外見から結び付けて考えるものはいないだろう。
 同胞の大多数と違って、彼は四十歳という実際の年齢より遥かに若く見えた。満海にいた頃には特にそのような指摘を受けたことはなかったが、どうやら彼の外見は新世界では女性受けするらしかった。それがこの国で生きていくうえで、仕事を全うするうえで、役に立った例は枚挙にいとまがない。その点だけは、俺はあの偉大な兄貴を上回っている。
 プライベートでは滅多に外出しないパク・チョルスも、人並みには酒を嗜むし、人並みには性欲もある。そうした店に行き、自分たちが兄弟だと告げると女性たちは皆一様に驚き、大概はジョンヒョンに後からそっと耳打ちする。
「お兄さん、なんだかおっかない人ね」
 そう、どれだけ耳を削ろうが、頬骨を切り落とそうが、その者が醸し出す空気までは変わらない。地味なスーツを着せて伊達眼鏡をかけさせれば、信用金庫勤めの実直なサラリーマン以外の何者にも見えない兄の、しかしその全身から発散される殺気は、信用金庫の社員から出てくる種のものでは到底なく、ひとたび彼に近づくプロは誰しもがその殺気に戦う前から圧倒された。恐らくは先天的に身に着け、毎日の自律した習慣を通して後天的に磨き抜いてきたそのオーラは、軍隊時代には役に立っただろうが、ひとたび追われる犯罪者と転じた際には邪魔な存在になるだけだ。
 パク・ジョンヒョンとて「兄の七光り」だけで生き残ってきた阿呆ではない。日本人への憎しみや、その日本人に喰わせてもらっているという葛藤、軍人だった頃の経験や幼い頃からの環境、そうした負のオーラの連鎖を捨て去ろうともせず、せめて軽減させようという努力すら恣意的に怠り、自分は栄えある満海人民軍のエリート戦士だというプライドをいつまでも身に纏う他の三人を、他の部分はともかくその点においては愚か者であるとすら思っている。ハン・ガンスやチェ・ヨンナムからの反感に気付いていながら、だから彼は山蛇組のヤクザ連中とも付き合ってきた。日本人間宮茂に生まれ変わった以上、そのことを煩悶しても仕方ない。煩悶しても祖国は返ってこない。そうであれば俺は間宮茂に相応な空気を身に着け、それを常に漂わせておかなければならない。
 そうして今日まで生きてきたのだ。
 沼津駅の北側を歩いた。破壊された街が再生する過程で、まず初めに現れるのは人間の原始的欲望を満たす店だ。モツ煮込みやラーメンの屋台が並ぶ通りを過ぎる。そこにはまだ大勢の人がいたが、彼は気にしなかった。職務質問されるような気配は発散していないという自信があったし、この人混みに紛れている警察の眼をことごとく惹く自分であるならば、誰の身分証明書を持っていようとも結果は同じだ。
 照明の絶えた通りに出る。獲物を待つ肉食動物の群れのように、そこには体を最小限の布で覆った女たちが並んでいて、ジョンヒョンは一瞬のうちに囲まれた。
「いい男だね、あんた」「お客さんならただでもいいよ」
 そんなセールストークの一部でも真に受けるほど、男は自惚れてはいなかった。神戸で過ごした五年で、女が百人いればそのうち百人は嘘つきだということも分かっていた。ジョンヒョンは群がるハイエナを掻き分け、その輪の中に入ってこなかった弱者の中から一人を選んだ。「君の名は?」
 自分が呼ばれるとは予想もしていなかったその二十歳ぐらいの女は、塀にもたれたまま驚きを隠そうともせず自分の鼻の頭を指差す。ミニスカートから伸びるバオバブの幹のような脚が逆に痛々しい。「私、ですか?」
 背後の化粧臭い群れからいくつもの舌打ちが聞こえてきた。なんだこの兄さん変態かという台詞を聞こえよがしに呟いて自分の縄張りに戻った者もいた。
 顔にも取り立てて特徴のない、肥満体の女はおずおずと答えた。
「ールイといいます」
「ルイちゃん、話は手早く済ませよう。君の一時間の値段は?」
「交渉できる素材でもないし、お客さんのご希望で結構です」
 何人かが鼻で笑い、その中の一人に男は尋ねる。ここの相場は?
 聞かれた女は煙草に火をつけ、大儀そうに煙を吐いた。たっぷり二十秒の時間をその女は使った。そのダルマちゃんならまあ二十ドルが関の山じゃないの。
「あんたはいくらだ」
「私ならは通常六十は取るね」
「つまりあんたにはこの娘の三倍の価値があるってことか。無知とは幸せの同義語だな」
 煙草を持った女は言葉の意味をすぐ掴めなかったが、自分が侮辱されたというのは理解した。「どういう意味よ」
 煙草を投げ捨てて近づいてくる女には一瞥も与えず、ジョンヒョンはルイの手を取った。
「いちいち計算するのも面倒だ、三百ドルで朝まで付き合ってくれる?」
 煙草を捨てた女の足が止まり、周囲から一斉に溜息が漏れた。事の成り行きに自分が寄ってたかって今何かの詐欺に遭っている最中なのではないかという疑念がルイの中に生じたが、別に構いやしなかった。騙される人生には慣れていた。
 二人はその場を足早に離れた。
「腹減った。まず飯でも食おう」
 適当に入ったラーメンの屋台で、男はカウンターの下から百ドル札を三枚取り出し、女に握らせた。
「冗談じゃなかったの?」
「何のために?」男は笑いながら麺をすする。
「私、見ての通りこんなデブだし」
「今時の日本人は老いも若きも男も女も栄養失調のような体格だ。ルイちゃんみたいなタイプは希少だ」
 拾ってきた鉄屑と工事現場から盗んできたビニールシートで組み上げたような屋台と、鶏骨を煮込んだ鍋からの湯気が、兵士に故国ハスンの自由市場を思い出させた。
 あの頃、兄から分配された日本銀行券を手に、まずは市場の公園側入口にあった闇両替店を訪れるのが常だった。両替屋は海軍が取引相手の時はレートも良心的だったし、紙幣を二、三枚ちょろまかすこともなかった。それは善意の発露ではなく畏怖によるものだったが、兵士にとってはどちらでもよかった。
 煮込みナマズに舌鼓を打ち、大きな煙草の葉を束で買い、炙った干しカエルにコチジャンをつけ、かじりながら歩いた。親が処刑されたのか病死したのか、あるいは口減らしに捨てられたのか、孤児の群れがおこぼれを期待するように後をつけてくるのも、いつものことだった。他の同僚たちと違い、ジョンヒョンは彼らを蹴散らすような真似は一度もしなかったから、いつしか彼の背後には金魚の糞のように餓鬼どもが列を成すようになった。
 日本に来て五年、自由市場の風景をまざまざと思い出すのは、それが初めてのことだった。
「私も基本的にはご飯はあまり食べられてないよ。ホルモン異常なんだと思うけど」
 そして彼女は手を合わせた。いただきます。
「それにしてもお客さん、お金持ちなんだね」
「付き合いの長い君についに告白するけど、俺人殺しなんだ。一回の報酬が二万ドル」
 ルイは唇だけで笑った。
「ラブホに行く?」食事を終えて屋台を出て、彼女が腕を組んできた。
「俺、今日身分証持ってないんだ」男にとって、そこだけは慎重な言動が必要だった。
「面白い人だね。今時身分証の提示を求めるラブホなんてないよ」
 彼らはすぐ近くにあった粗末な木造の宿に入り、部屋の中でテレビをつけ、二つしかない地方放送局がいずれも同じニュースを流しているのを一緒に見た。五年前の自分の顔写真が隣に座る男のものであることに気付いたか気付かなかったのか、隣に横たわる女は何も言わなかった。重ねた肌の感触が彼女をさっきよりは少し饒舌にさせた。
「核弾頭が光った時、私ちょうど立川にいてさ」
 それは彼の知らない地名だったが、黙っておいた。
「気がついたら周りはみんな死んでた。何故私が生き残ったかは今も分からない。その時以来視力は落ちたし、何も食べないのに太り始めたの」
「被爆者手帳の申請はしたの?」
 彼女は驚いたようにジョンヒョンを見つめた。今度こそ悪い冗談だと思われたようだった。
 破綻寸前のこの国とその各自治体が、被爆者手帳保持者に対して提供するサービスはお題目ばかりだった。医療費は無料という建前だったが、既に自由診療が横行していた時代、現金をその場で提供できない患者はことごとく後回しにされた。被爆者にしてみれば医療機関の待合室で過ごす余計な数時間は、各種感染症に罹るリスクと背中合わせの数時間であり、風邪程度の疾病でも命に関わる重篤な症状を引き起こす恐れがあった。
「時々体の関節が我慢できないぐらい痛くなる。病院に行く時間もお金もないし、売人からモルヒネ買って凌いでるけど、あれって本当に体が慣れてきちゃうのね。昔の量では痛みが治まらなくてさ。こんな太った体で周りから馬鹿にされてウリを続けて、稼いだ金は薬を買えばなくなって。それで十五の誕生日に決心したの、この先五年、何ひとついいことがなければ、ハタチの誕生日前夜に自分でこの命を断とうと」
 その口調は淡々としていて、自己憐憫もなく、他者の同情を殊更に求めるものでもなかった。
「ルイちゃんは今幾つ?」
「十七。見えないでしょ」
 パク・ジョンヒョンは財布から千八百ドル出した。それが彼の所持する現金の残り殆ど全てだった。自分が何故そんなことをしているのか分からない。しかし男はその金を半ば強引に女の手に握らせた。
「どういうこと?」「金はないよりあった方がいい」
「お客さん、何者?」
「俺、多分明日の夜までには生きていない」自分で言って驚いた。そうか、俺の潜在意識はそんな風に考えているのか。
 警察に追われ、国内最大の暴力団に追われることとなった自分には、この国で暮らしていく場所はもうないだろう。ハスン行きの船に乗り込める確率にしても似たり寄ったりだ。
 幼い頃「あの肉」を喰らい、五年前には三十八人の同僚を日本海に置き去りにして、この国に来てからは職業的暗殺者として十人を黄泉の国へと送ってきた。そんな自分がこの先寿命を全うするまで生き続けられるというのなら、この世には神も仏も存在しないことになる。
 男はそれ以上の言葉の蓄積は省き、女はたった一言、ありがとうと呟くだけだった。何故生きていないと思うのか、どんなトラブルに巻き込まれているのか、そんな質問は一切しなかった。この時代に生きる者同士の、それは暗黙の掟だった。
 朝六時になって、まだ眠っている彼女を起こさぬように、彼はそっと部屋を出た。ルイは寝たふりをしていただけかも知れなかったが、どうせ二度と会うことのない女だ。
 嘔吐物にたかるカラス。早朝の歓楽街を彩る風景はどこも同じだ。ジョンヒョンは沼津駅へと歩いた。ちょっと気前が良すぎた、百ドル程度は残しておくべきだったな。

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