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「伊豆海村後日譚」(30)

 三留香が船戸に最初の交信を行ったその十五分前。
 「沼津警察署警官殺傷事件捜査本部」三回目の定例会議が始まった。静岡県警捜査一課に所属する綿貫泰三警部補と、沼津警察署警邏課に所属する今井秀章巡査は、その日ずっと、呑み込んだ鉛玉が胃袋の底に居座るような鈍痛を感じながら聞き込み捜査にあたっていた。
 今朝六時五十分頃、牛丼屋に入ってきた男。あいつがやはり新井敦司だったのではないかという疑念は時を経るごとに大きく強固になり、今や動かしがたい確信に変わっている。
「どうします?」
 今井は今日何度この問いかけをパートナーに発しただろう。綿貫はその同じ数だけ、状況に応じて決めようと答えていた。
 会議の冒頭で、麦笛会会長が暗殺された日に東名高速裾野インター付近のNシステムに捕捉された電気自動車のナンバーが、昨日の事件で押収された車のそれと一致したことが報告され、彼らの容疑は更に固まった。
 ではその連中は今どこにいるのか。芳しい報告は誰からもなされなかった。本日任意同行を求めた十七歳から六十四歳までの男は計十四名。言うまでもなく全員シロで、運の悪いことにその中の一人は革新系の弁護士だった。国家権力による行き過ぎた不法拘束と騒ぎ始めたその男は、お引き取りくださいという刑事の再三の要請をことごとく撥ね付け、県警本部長を至急ここに呼べと三十分近く騒ぎ立て、やむなく公務執行妨害を適用し、今も下の留置場でお過ごし頂いている。その事後処理にも頭を痛めていた管理官は会議室に響き渡る大声を張り上げた。
「その程度か!貴様らの本気ってのはその程度なのか!貴様ら全員明日から一斉降格でパトロールからやり直して貰おうか!」
 このままでは会議は終わらない。綿貫は今井と眼を合わせ、若干二十一歳の巡査の半泣き顔に促されるように渋々挙手した。
「そこ、何だ」
「捜一の綿貫です。実はですね、今朝沼津駅近くの牛丼屋で張っておりまして、六時五十分頃に入ってきた男が、その、新井敦司に少し似ていたような気が、今しておりまして」
 会議室の全刑事、全警官が一斉に綿貫に眼をやった。管理官は珍獣を眺めるような視線を向けている。
「で、バンかけはしたのか?」職務質問はしたのかという意味だ。
「えー、後から店に入ってきたそいつの恋人らしき女が、男を『よっちゃん』と呼んでおり、男もそれに応えていましたので。新井敦司の名前から『よっちゃん』が結び付きませんではいー」
 会議室の各所で発生した失笑は、管理官の怒号にかき消された。
「馬鹿野郎!テメエ懲戒免職もんの失態だぞ!事件の重さが分かってんのかあ!」
 消えてしまいたい、切々とそう願い始めた綿貫に、声が追いかけてくる。  
「そのカップルは!その後どこに向かったんだ!」
 もうソラで唱えられるほどの内容を、しかし警部補はわざわざ手帳を開いて報告した。
「女が男に、今日は下田に帰る前に海を見ていこう、といった内容の言葉を発しておりました。どうにもあの男が胸に引っかかっており、その後調べたところ、ちょうど沼津駅を七時十七分に出たバスの終点、八木橋が曲がりなりにも整備されたハイキングコースのある、この近辺では比較的安全な海沿いの場所であることが分かりました」
「追ったのか?」「ーいえ」
 管理官は机を両手で叩いた。他には!
 石像のように硬直した警部補に代わって、別の刑事が手を挙げた。
「原署の吉田です。そのバスに乗った客の人着ならメモしております。四十歳ぐらいの男、白髪の老人、五十代の夫婦、若い女性、そしてハイキングの格好をした六十代の男一女三のグループです」
「その中にパク・チョルスたちに似た奴はいなかったのか?」
「私の見る限り、似ても似つかぬ人着でした」
 管理官は怒鳴った。バス会社にウラ取れ!
 二人の刑事が走って部屋から出て行った。
 重苦しい十数分が過ぎて、二人が戻ってきた。その間、綿貫に着席を促す者はどこにもいなかった。
「バス会社に乗車記録を照会し、運転手と車掌にも話を聞けました。沼津駅からの乗客数は吉田さんの報告と一致しております。その後駅から二つ目の『紙土』停留所でカップルが乗り込み、女の方だけが七つ目の『旧市役所前』で降りたことも確認されました。それが牛丼屋にいた二人だとするならば、綿貫の報告とは矛盾する行動と考えます。また車掌は、五十代夫婦の妻の方は巧妙な化粧だったがあれは男だ、と断言しています。満海の連中に似ていたかどうかという質問に対しては、そう言われればそういう気もするが何とも、という答えでした。女装した男を見て何も思わなかったのかと詰問したところ、今の時代にその程度のことでいちいち驚いていられるか、変態の乗客なら他にも大勢いる、と」
 会議室は醒めた笑いに包まれた。
「終点の八木橋で、ハイキング姿の老人たちは実際にハイキングに出かけ、午後の沼津行きバスへの乗車が確認されております。残りの客は全員が二果方面へのバスに乗り換えました。この運転手から面白い話を聞けましたよ。車掌はからきしでしたけどね」
 そして報告者はもったいぶるように、半拍子置いて続けた。
「運転手はまず、若い女性のことは知っていました。この路線にある伊豆海村の草履というケチな集落でケチなコンビニを経営している老人の娘ということでした。昔から有名な別嬪で、数年来この道を担当しているドライバーと車掌なら誰もが知っているとの話でした。ねえ、吉田さん」
 原署の刑事は答えた。なんだ。
「沼津駅で八木橋行きに乗った若い女性ってのは、見てくれはどんなだった?」
「それはもう、こんな女が一人で街を歩いて大丈夫かと思ったほどのレベルで」
「その女なら、多分俺も見た」前列の方から声が挙がった。
「顔色が悪くてしんどそうだったから、大丈夫かと声をかけた。俺もしばらく見惚れてしまったよ。確かに八木橋へのバスに乗りこんでいた」
「達さんが声をかけただけですか?」
 誰かの野次に笑おうとした捜査員は、管理官の様子にそれを控えた。報告を遮られた形となった刑事が咳払いをする。
「続けてよろしいでしょうか?まあ木炭バスですからね、傾斜道では例によって乗客たちに後ろから押してもらったそうですが、この連中を雇うべきじゃないかと思ったぐらいの力だったそうです。後にも先にも、あれだけの勢いは経験したことがないと。また白髪の老人と若い女がバスを押しながら会話していたのがバックミラーから見えたそうですが、一種異様な雰囲気を感じたと話してくれました。そして一番不可解なのはですね、この別嬪がバスを降りるのは草履バス停だと思っていたら、一つ手前の苫田で降り、しかも他の乗客全員、老人に五十代夫婦に四十前後の男にカップルの片割れ、全員がですよ、同じ停留所で降りたそうです。若い女を除けばちょうど五人です」
 報告の最後、トリを飾るにふさわしい事実が披露された。
「運転手に女だけが途中下車したというカップルの片割れの人着を確認したところ、サングラスに坊主頭だったから断定はできないが、運転を終えて車庫の控室でニュースを見た時、さっきの男は新井敦司じゃなかったか?とまず最初に思ったそうです。まあ現実には素人がそういう際に何かしらのアクションを起こしてくれることは滅多にありませんが、警察に連絡しなくて申し訳ない、としきりに謝られました」
 昨日の御殿場のゴルフ場狙撃事件について発言した森屋が、相変わらず暗い眼に今日は少し前向きな光を宿しながら手を挙げ、発言した。
「そのバス路線上にある伊豆海村二果集落外れにある伊豆ヒルズという別荘地に、前回も発言させて頂きました、殺された麦笛会会長、南田啓三郎が生前購入した別荘があります。南田がこの満海出身の四人組に撃たれたと噂されている点も、昨日お伝えした通りです。偶然にしてはできすぎですね」
 捜査員の何人かが血相を変えて立ち上がり、管理官が機動隊の出動を要請するから少し待てと叫んだ。
 
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