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「伊豆海村後日譚」(37)

 たっぷり四十分、車の中はエンジン音の他には何も聞こえなかった。
「質問はなしだと言ったな」パトカーが土肥から戸田、そして大瀬崎を抜けた頃、長い沈黙に耐えかねて、長谷川が口を開いた。
「状況によりけりだ」
「沼津港は無理だ。管轄が違う」
 嘘だった。組織の背信者は一刻も早くこの車から逃げ出したかった。
「そうか。では近づけるだけ近くまで走れ」
 警官は何も答えなかった。
「俺の言うことが聞こえなかったか」
「ー分かった」
 無線機が鳴った。「六八二号、長谷川さん!長谷川さん!何処にいますか!」
 警官が逃亡犯に眼をやる。助手席に移っていた元少佐は顎をしゃくった。出ろ、適当に答えろ。
「何を喋ればいいんだ」
「何年警察勤めをやってきたんだ。それぐらい自分で考えろ」
「長谷川さん!取れませんか!」
「あんたが出ろ。俺とあんたは似たような歳だろう。声質も似ている。警察無線なんてさほどクリアには聞こえない。あんたが代わりに出てもバレやしないよ」
「気付かれたらどうする?」
 長谷川は鼻で笑い、ささやかな抵抗を試みた。
「あんたが今このパトカーに乗っているのがバレた。あんたがこのパトカーに乗っているのはバレなかった。この両者の間であんたが今夜生き残る確率がどれだけ違うんだ?」
 パク・チョルスも笑った。こいつにしては気の利いた答えだ。
 無線機はそれ自体に意志があるように、電波の向こうの声を必死に繰り返している。
「長谷川さん!ハン・ガンスは射殺しました!草履にあった死体もパク・ジョンヒョンとチェ・ヨンナム、そして新井敦司と確認されました!パク・チョルスの行方だけが掴めません!長谷川さん!どこにいますか?保護した人質は無事ですか?」
 逃亡犯から笑顔が消えた。彼は衝動的に無線機のマイクを掴んだ。
「俺がパク・チョルスだ」
 そしてマイクを引きちぎった。
「なあ、長谷川さん」その異様な猫なで声が、警官の背筋を強張らせる。
「沼津港まで、あとどれくらいの距離だ」
「ざっと十五キロはある」
「嘘をつくと身の破滅だぞ」
「ー十キロだ。しかしさっき言ったように、管轄がー」
 チョルスがダッシュボードを蹴り上げる。長谷川は口を閉ざし、アクセルを踏んだ。
「弟が死んだよ」
 警官は無言を続けた。
「俺の一人しかいない肉親だった。誰が殺した?」
 警官はなおも喋らない。粘ついた汗を首筋に感じた。
「おまえら全員だ。おまえらが寄ってたかって、ジョンヒョンを殺した」
 車は狩野川放水路を超えた。潮の匂いがしてくる。人の気配を失ったマリーナが見えてきた。「そこで中に入れ」
 長谷川は諦めていた。ここで生き残っても、待っているのは針のムシロの人生だ。憎むべき警官殺し一味のリーダーにのうのうとパトカーを乗っ取られ、検問で嘘をつき、無線機も外され、ここ沼津港の近くまで無料タクシーとなって敵を運んできた。コーヒーショップで新井敦司と見られる男をみすみす見逃した綿貫と今井の負うべき罪の比ではない。だがここで死ねれば、名誉ある殉職者として人生を終えることができるかも知れない。残された妻と中学生の息子も、後ろ指をさされる生活を避けられるかも知れない。
 長谷川は告げた。声の震えはどうしようもなかった。
「俺を殺すんだろう?殺してこの制服を奪うつもりなんだろう?このまま撃ったらどうなる?血が制服や制帽に付着するのは避けられないぞ」
「首を絞めるという方法もある」
「吐瀉物が制服にかかることは考えないのか?」
 元少佐は答えた。取り敢えず外に出ろ。
「一発で仕留めてくれ!」警官は声を裏返しにして叫んだ。
「一発だ、楽に逝かせてくれ。それを約束してくれるなら、先に制服は脱いでやる」
 長谷川は外に出た。震える手が全てのボタンを外すのに少なからずの時間を要した。
 ブリーフと靴下だけになった警官ー実質的には元警官ーに、パク・チョルスは感謝の言葉を述べた。
「よく失禁と脱糞を我慢してくれたな。礼を言う」
「つくづく自分勝手な男だ、あんた」
 パク・チョルスは長谷川の制服を素早く身に纏い、脱いだ自分の衣服を短銃にぐるぐると巻いた。
「約束は守れよ」
 銃が火を噴き、長谷川の眉間を正確に撃ち抜いた。
「約束は守ったぞ」
 パク・チョルスは遺体を蹴った。
 
 ***
 
 現場保全作業が一段落したのだろう、一旦は静寂が支配していた下の店舗は、またも喧騒に包まれた。同時にパトカーが続々と南の方から戻ってくる。複数の足音が階段を叩く。隣の部屋の扉が開いた。
「警察ども、まさかここでひと晩過ごす気じゃないでしょうね」
「そのまさかだと思う」
「船戸くんの宿賃は?」
「最初は一泊八ドルだったけど、自前の寝袋利用で六ドル。今日から五ドル」
「じゃあ明日の朝、奴らからひとり九ドル頂くわ」
「計算が合わないような気が」
「私たちの夜を邪魔した分よ」
 薄い壁からもれなく聞こえてくる、彼らの緊迫した会話と警察無線から断続的に吐き出される情報。今隣の部屋にいる連中は、夜明けを待ってこの近隣を改めて捜索する、らしい。
「あいつらは幸せだ」船戸がぽつりと言った。彼の柔らかなペニスに触れていた手を止めて、香は顔を上げた。
「あいつら?」
「満海の連中。少なくとも遺体は誰かが処理してくれる。恵の体は今も名古屋のアパートで腐り続けている」
 香はそこから手を離した。
「触れなかったんだ」
「ー何を?」
「恵の死体を。あんなに可愛かった妹だったのに、あんなに仲の良かった妹だったのに。大田を撃った後、俺は疲れてそのまま自分のアパートへ戻った。次の日は全く体が動かず、二日後に恵の部屋に行った。匂いはその時はさほど酷くはなかったけれど、びっしりたかる蝿を見た途端、手を伸ばすことができなくなった」
「この騒ぎが終わったら」
 そして香は船戸の胸板に頬を置いた。二人で名古屋に行こう。恵さんの弔い、やってあげよう。
「そんなことまで付き合わせられない」
「船戸くんの意見なんて聞いてないわよ」
 彼女は彼の顎を指で弾いた。
「あなたは一人で名古屋に行くのよ。そして私はそれに勝手について行くだけ」
 その時、隣の部屋から名前が読み上げられた。男の腕の中で、女の体がびくりと震えた。
 震えは収まりそうになかった。船戸はそんな彼女の肩をしっかりと抱き、自らも声が震えそうになるのを必死で押し殺しながら口を開いた。香さん。
「ーなに」答える女の声は既に涙で湿っている。
「どうせ今夜中には、俺たちがここにいることを、隣の警察は気付くだろう」
 胸の上で自分を横たえらせ、温もりに溢れた手で抱いてくれる初めての男は、しかし意を決したように彼女に一つの提案を行った。女は少し抵抗したが、結局は折れた。
「今夜は結局休めないわね」
 そして溜息と共に立ち上がり、服を着て、部屋の鍵を憚りなく開け、扉を憚りなく開いた。
 
 ***

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