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今ここにある、好きという感情


絶対的な好きに理由はない論者の私ですが、今一度この好きと向き合ってみよう、noteです。

今までこのnoteではSixTONESや松村北斗という固有名詞ありきで「好き」について語ってきたけれど、一度そういった枠組みを取り払い、自分の中に存在しているこの“好き感情”についてを掘り下げてみたい。即ち自己分析noteを書きたいと思います。ものすごく自己満足!!!それでは、自分と向き合って来ます。チャオ!


私はよく、この感情を“好き”として扱う。それは、これを“愛情”と呼ぶにはとても独りよがりなものであると感じているためだ。ただしこの解釈は私個人の中にある主観的なものなので、他者がこれを“愛情”と形容したとしても疑問や否定的な感情は抱かない。ただ、「私にとっては」というだけである。

私にとっての好き感情の中心には、混在してしまっている『同一視≒共感≒感情移入』という主軸がある。これらは混在しつつも別軸として私の中で存在している意識だが、何れもニュアンスは近いので以下“同一視”として括る。私の中で、この同一視という軸は好きにも嫌いにも最も反応しやすい部分であると感じていて、思えば幼少期からこのような好きを繰り返し抱いてきた。

例えば、私が幼少期に無我夢中で熱狂していたプリキュアの推しは、共感と憧れを同時に抱かせてくれるようなちょっと“訳アリ”の背伸びしたキャラクターであったし、映画や小説で涙するときは大抵作中の登場人物に自己投影をしてしまった時である。

そして、猛烈な共感を抱いたことから盲目的な「好き」を向けることもあれば、あまりにも強烈な重なりを感じてしまい遠ざける、いわゆる同族嫌悪のような状態に陥ることもある。前者は紛うことなき彼へ対する感情、後者は自身の対人関係に対して生じることが多い。思考を追い越す勢いの感情がこのような同一視を生むたび、私は自分の中で湧き上がる膨大な思考の錯綜を処理することができない。

私が今、“盲愛的に溺愛してやまない”と感じているこの感情は処理不能の真骨頂である。声を聴いているだけで涙が出たり、一方的に見つめているだけで笑いながら泣いてしまったり、腰が砕けたり。感情があまりにも激しく大きく膨れ上がるので、表情や反応が常時バグり申しているのだ。かの野田洋次郎氏が綴った、“君の心が君を追い越したんだよ” のフレーズがドンピシャはまってしまう。

この状態を言葉で縁取るならばどの形容詞が適切か?といつも考えるが、あれもこれもいまいちピンと来ないのでこうして長々語ることでしか感情に近づけない。しかしもう少しシンプルに語ることができれば助かるのだ、私が。ということでわかりやすい単語から考えてゆく。まず思い浮かんだのは「恋」。しかしWikipediaによる恋の定義はこうである。

恋(こい)とは、ある人を好きになってしまい、寝ても覚めてもその人が頭から離れず、他のことが手につかなくなり、身悶えしたくなるような心の状態。 成就すれば、天にものぼる気持ちになる
Wikipedia

──身悶えしたくなるような心の状態。までは見事に当てはまるが、成就すれば〜……といった願望や観測はないのでややニュアンスがズレる。ただ、かのプラトン氏が仰るには「恋は狂気」らしい。それについては同感。3000文字超のnoteで好き語りをしている、これは間違いなく狂気であろう。

どうやらこれは恋ではないが、限りなく恋に近い。例の如く「恋ではないならこれは何?」という自問自答をしてみるが、いつも行き着く答えは「激情」だ。激しくたかぶった感情。強く抑えがたい思い。しっくりくる。

ここまでの着地点を結合させると「気が狂っていて激しくたかぶった、強く抑えがたい思い」。なかなか物騒ですね。自分で自分が怖い。しかし違和感はありません。狂っている自覚はあるし狂わされてこそ本望、とすら思ってしまっている。だから怖いのだけれど。

では、この「気が狂っていて激しくたかぶった、強く抑えがたい思い」状態の起源は何であったか?話は戻るが、そこにはやはり同一視があった。「あーわかるなぁ」程度の軽めの共感から、「なんでわかるんだ、言語化しないでくれよ……」「だから入ってくんなって……(←いったい何に…??)」という重めのこじつけまで。自分で構築した解釈越しに観ているに過ぎないのに、思想の共通項を見出してしまうたび、好き感情はズブズブに増える。深まる。

このような同一視が生じるたび、
自分由来の“好き”という感情と、“解釈した彼という存在”の境目がわからなくなりそうで私はたまに怖くなるのだ。好きが好きであるために、私は揺るぎない自我を保たねばならない。保ちたいと思っている。

もしも融解してしまったならそれは、私にとっては単なる自己愛。ただ、自己愛が間違っているとは思っていないし、私の場合「なにか/だれかを好きであること」には常に自己愛が含まれているので、対象に対する「好き」と分離できるものでもない。だけれど、主たる矢印は自己ではなくあくまで対象を向いている、そして矢印の出発点に自分がいる。そういう状態であるための慎みを意識しながら好きでいたい。


そして、こうした好きについてを考えるたび毎度歯痒くなってしまうことがある。「好き」を「好き」としか言い表せない事実だ。この好きに対してしか、地団駄も踏まない。どうにか定義したいのだけれど、輪郭さえ掴めない。でも、定義できないから好きは好きだ。形ないものに無理して形を与えようとする、それはきっと無粋ですね。なのに、かたちがほしい。ずっと。

自分は自分のまま、この好きからは遠く離れた場所で、一方的に、好きでいたい。だからこの感情が心臓になってしまわないように、いつも必死だ。好きが丸ごと、私になってしまわないように。「私は、好き。」でいられるように。

一人称で居続けることが、私の正義なのかもしれない。

ただ、この認識はいつでも対象ありきですね。対象があるからこその自覚と自意識。当たり前と言われればそこまでだけれど、自分の身体の中だけで巻き起こっているこの感情が自己完結でないことは不思議です。

「対象なくして好きを語りたい」が出発点な時点で思考も言葉も挫折するのは見え見えでしたが、やっぱり頭に浮かんでしまう影はひとりでした。今日も私は、彼の背中を通して自分をみている。好きな自分にはまだなれていないけれど、それでもこの感情だけは大好きだと叫べるなぁ、と。身勝手に思いながら、好きを呟いている。

手放しに全部好きだなんて言えないけれど、そう思えちゃうくらいの好きがここにあるのはやっぱり、なにも見えないからなのだ。絶対に、届かないから。だから、好きだ。わかる、でも何もわかりやしない。憧れる、だけど追いつけやしない。これが私の中にある好き感情の指針だ。

ならば、たとえば。いつかもしも“わかった”とき、この好きは消えるのだろうか?もしも追いつけたとき、この好きはなくなってしまうのだろうか?

きっとどこまでいっても何があっても、“わからない”と“届かない”は覆されない。対象が何であれ、誰であれ、彼であれ。全ては一方通行、私自身がそう在るだろうという根拠のない確信があるのだ。いつまでもわからないし届かない、その事実に安心をしている。好きだ、と感じられることが好きです。好きだ、と思うとき、その感情に振れるこころが好きです。今はこれでいい、これがいいと思えている。


こんなに書き連ねておいて、私にとっての絶対的な好きには理由などないのかもしれない。というより、「好き」こそが「好き」の理由になってしまっているのでそれ以外に帰結も着地もできない。困った、この感情を言葉にして解き明かそうとしたら、どうやら新しい言葉を作ってしまうしかないようだ。辞書の項を増やさない限り、この好きは好きを脱しない。

そして仮に、「好き」を越えて自分の感情を適切に言い表せる語彙ができたとしても、ならばまたそれを越えた言葉を、表現を、と求めて止まない。私の「好き」には、渇望があるようだ。暫定的な結論を、ここに置かせてほしい。

私の好きは、自己投影による共感と感情移入に基づいた同一視、そして憧れよりも苦しい羨望や嫉妬を孕んだ渇望、それらによる狂気的激情で出来ている。好きの理由は、好き。


怒涛の詰め込み着地には満足がいかないので、自己分析と新たな知見を蓄えて出直します。感情探究noteリベンジ。

とんでも自己満足な脳みそひけらかしnoteでしたが、自分と向き合う時間はとても苦しく楽しいものでした。


あなたの好きは、あなたにとって何ですか?それは「好き」以外になり得ますか?ぜひお話ししたいテーマです。我こそは思想を共有!という方は、なんらかの手段で教えてください。



お読み頂きありがとうございました🫶🏻



都合の良い私の解釈





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